『指針 あがないの秘跡 (Redemptionis Sacramentum)

教皇庁典礼秘跡省 2004年3月25日公布

目次

序文 


第一章 神聖な典礼の規定 

一 教区司教・キリスト信者の指導者 

二 司教協議会 

三 司祭 

四 助祭 

 

第二章 御聖体祭儀に参加する一般信徒 

一 能動的で意識的な参加 

二 ミサ聖祭における一般信徒の職務 

 

第三章 ミサ聖祭の正しい挙行 

一 神聖な御聖体の材料 

二 奉献文 

三 ミサ聖祭のその他の部分 

四 いろいろな典礼様式のミサ聖祭への追加 

 

第四章 御聖体拝領 

一 御聖体拝領の心得 

二 御聖体拝領 

三 司祭の御聖体拝領 

四 パンとぶどう酒、両形態による御聖体拝領 

 

第五章 御聖体について、その他の決定事項 

一 御聖体祭儀の挙式の場 

二 ミサ聖祭に関連するさまざまな状況 

三 祭器 

四 祭服 

 

第六章 至聖なる御聖体の保存と、ミサ聖祭以外での御聖体礼拝 

一 御聖体の保存 

二 ミサ聖祭以外での御聖体礼拝の形式 

三 御聖体行列と御聖体大会 

 

第七章 一般信徒の臨時職 

一 御聖体拝領の臨時奉仕者 

二 説教 

三 司祭不在時の特別な祭儀 

四 聖職者の地位を去った人々

 

第八章 救済策 

一 汚聖の大罪、グラヴィオラ・デリクタ 

二 重大な事柄 

三 その他の誤り 

四 教区司教 

五 使徒座 

六 典礼的問題に関するよくない行為についての申し立て 

 

結び 

 

原注

 

参考文献

 

 

 

* 原注と参考文献については、このページにおいては省きます。

* 原注はバチカンのホームページで見ることができます。

* を押すと目次に戻ることができます。

 

 

 

序文  

 

1 忠実なる信仰を守っている母である教会は、イエズス・キリストの死と復活を告げ知らせながら(2)、至聖なる御聖体をあがないの秘跡と認め(1)、その秘跡を喜んで取りいれ、祝い礼拝します。キリストが征服されることのない主、支配者、永遠の司祭、全能の父(3)かぎりない威光を現す真理と命の王国である全世界の王として、世を統べるために栄光のうちに来られるときまで。

 

2 教会の霊的富のすべてがこめられている御聖体ーーーすなわち、わたしたちの過ぎ越しの子羊であるキリスト(4)であり、またキリスト教生活全体の泉であり頂点(5)である御聖体、教会の始まりそのものにおいて(6)教会創立の起因として働いた隠れた力である御聖体、このような御聖体についての教会の教義は、何世紀ものあいだ、思慮に富んだ慎重さと大いなる権威をもって、公会議や歴代の教皇の記した文書のなかで解説されています。事実ごく最近、教皇ヨハネ・パウロ二世が回勅「ECCLESIA DE EUCHARISTIA 教会にいのちを与える御聖体」の中で、わたしたちの時代の教会事情を考慮され、この主題について非常に重要ないくつかの要素を述べられました(7)。

 

 ミサ聖祭の挙行、とりわけ神聖な典礼を執り行うために、教会がこの重要な神秘をわたしたちの時代にもこれまで同様に、しかるべく守ることができるよう、等典礼秘跡省(8)は教理省と協力して、御聖体の秘跡についての規定に関する問題を扱った指針を用意しなければなりませんでした。したがって、当指針に記されている事柄は前述の回勅「ECCLESIA DE EUCHARISTIA 教会にいのちを与える御聖体」と関連づけて読む必要があります。

 

 

 ここでは、神聖な御聖体に関する規定の概説を論じようとはまったく考えてはいません。むしろ以前から規定されており、今日でも典礼的規定のさらに深い真価を確信させるのに充分効力のある典礼規定(9)の要素をいくつか取り上げ、それによって従来の規定を説明し、かつ補足して完全にしようというものです。さらにまた、司祭、助祭、一般信徒同様、司教のためにも発表し、各自がそれぞれ自分の責任、および手段に沿って、それぞれの自由のうちにそれらを実践していく方法を確立しようというものです。

 
3 当指針中の規定は、ローマ式典礼における典礼の問題に関係あるものとして理解するべきものです。また。教会法によって正式に認められている別の典礼(東方典礼)が抱える同様の問題に対しては、必要な変更を加えて適用されることになります。

 

4 「公会議が開始した典礼改革に大いに助けられて、信者が前よりも意識的、積極的かつ効果的なしかたで祭壇の聖なる奉献に参加できるようになったことは間違いありません」(10)。たとえ、そうではあっても「暗い側面も認められます」(11)。この点では、わたしたちの時代にはある教会環境や別のところでの正式ではなく誤った典礼儀式は稀なことではなく、伝統や教会の権威に反するのと同様、典礼や秘跡の本質に反して、儀式のなかでとても重大な間違えさえも起きていることに沈黙しているわけにはいきません。いくつかの場所では、よくない典礼の挙行というか明らかに許しがたく、止めなければならない過ちが日常茶飯事となっているのです。

 

5 教会の権威によって公表された規定の遵守は、思いとことばの一致、外面と行動と心の思いとの調和を必要とします。規定を外面的にだけで守ることは、明らかにイエズスご自身が教会をまとめられ、ご自分とともに「ひとつの体、ひとつの心」にしたい、と望まれた典礼の本質に反します(12)。この理由から、外面的な行いはわたしたちをキリストと、またお互いと一致させるものであり、貧しい人々や見捨てられた人々に対する愛を生じさせる信仰と愛で、世に光を投げかけなければなりません。さらに、典礼のことばと祭儀は、何世紀にもわたって成熟してきたキリスト理解の誠実な表現であり、それはキリストご自身と同じ思いになって、思いをひとつにすることをわたしたちに教えてくれます(13)。わたしたちの思いを、これらのことばと一致させることで、わたしたちは心を主にあげることができるのです。この指針で述べられた問題はすべて、典礼のことばと祭儀によって表されているように、私たち自身の理解とキリストの英知との完全な一致に向けられています。

 

6 誤った形式の御聖体祭儀は「この驚くべき秘跡に関する正しい信仰と教えに混乱をもたらしています」(14)。したがって、それはまたある意味でエマオの二人の弟子の「すると二人の目が開け、イエズスだと分かった」(15)という体験を、信徒たちが追体験する妨げにもなります。神の力、神性(16)、神の善の輝きが、とりわけ御聖体の秘跡のうちに表されているそのみ前において、父のひとり子の救いの受難を通して与えられた神の威光をすべての信徒が認めることは、ふさわしいことです(17)。

 

7 正式ではない、誤った御聖体祭儀の挙行は、自由をはきちがえた理解に根ざしている場合が非常に多いのです。しかし、神はキリストにより、わたしたちの願いが叶えられる架空の自由を与えてくださったのではなく、わたしたちにふさわしく、正しいことをしてもよい、という自由をお認めになったのです(18)。神から直接にいただくのは教えだけではありません。それぞれの規定の本質に適切な関連を持つ教会の発布した教会法もまた、神に与えられたものです。このため、すべてのものは正当な教会の権威が発布した法令に従わなければなりません。

 

8 したがって、「良い意向を持つ教会の発議であろうと、教会がその信仰を表す規律に反する形式の御聖体祭儀を、勝手に執り行うことがあってはならないこと」を大変残念なことながら、注意させていただかなければなりません。しかし御聖体は「不明瞭さや、軽視に耐えることのできない、かぎりなく重大な賜物です」。そのため「御聖体が、その光り輝く神秘によって光を放ち続ける」ためには、この点も同様に、修正すべきところは手を加え、あるいは明確に記述されなければなりません(19)。

 

9 結局のところ、誤った御聖体祭儀の挙行は、この祭儀に対する知識の欠如が原因となっていることが多いのです。そのために、もっと深い意味が理解されていないことや、古くからの習慣に気づいていないことから、それらの要素が拒否されているのです。というのは神聖な聖書そのものから「聖霊の息吹と、感動から、典礼の祈りや祈願や聖歌が湧き出し」、「行為としるしが聖書からその意義を受けるのです」(20)。目に見えるしるしは「キリスト、または教会によって選定されたものであり、聖なる典礼が、心的な目に見えないものを示すために用います」(21)と記されています。結論として、東方、西方両教会のそれぞれによる神聖な儀式の構成と形式は、使徒的で途切れることのない伝統から普遍的に受け継いでいる普遍教会の礼拝に調和しています(22)。この礼拝を、これからの世代へと忠実に注意深く伝えてゆくのが教会の課題です。これらのことはみな典礼規定によって賢明に保護され、守られています。

10 教会そのものには、キリストご自身が制定された、典礼の変更不可能な部分に対してなんの力もありません(23)。さらにはっきり言えば、秘跡を制定され、また教会設立の注目すべき出来事すべてに関係しておられる(24)キリストとの絆が切れるとしたら、それは信徒を利するどころか重大な損害をもたらすでしょう。というのも、神聖な典礼は教義と実に密接に関係しているからです(25)。ですから、認められていない典礼文や儀式の使用は、必然的に祈りの規則と信仰の規則(26)とのあいだにある必要なつながりを希薄にするか、なくしてしまう結果を招きます。

 

11 御聖体の神秘を「軽々しく扱い、その聖性と普遍性をないがしろにしてよいと思うなら、それはあまりにも大それたことだといわれなければなりません」(27)それどころか、たとえ司祭であっても、自分の好みでこの神秘を自由に支配するような行動に出るものは、しっかりと保たれなければならないローマ式典礼(28)がもつ一貫性を損ない、今日、人々が体験している生きた神への熱い渇望とはまったく矛盾したその行為に責任を負うことになるのです。こうした行いは真正の司牧職でもなければ、正しい典礼の刷新でもありません。それどころか、今にいたるまで伝えられてきた霊的遺産を信徒から奪うことです。好き勝手な行動は真の刷新ではなく(29)、教会の伝統と規定に従う教会のいのちの表現である典礼儀式に与る信徒の権利を損なうものです。そこに表される本質と、神のいのちとの交わりと神の民の一致を驚くほど引き起こす真の御聖体祭儀に、ついにはそうしたこうどうは歪められた状態と不調和な要素を招き入れるのです(30)。その結果教義のあらゆる事柄に対して、あいまいさ、神の民としての困惑とつまづき、そしてほとんど必然的な結果として強い反対を招きます。こうしたことすべてが、それでなくとも「世俗化」の侵入のためにキリスト者の生き方がしばしば著しく困難になってきているわたしたちのこの時代に、多くの信徒をひどく混乱させ、悲しみに沈ませるのです(31)。

 

12 これに反し、典礼、特にミサ聖祭について、典礼書や、その他教会法および規定に従って、教会が願っている形式どおりに挙行される儀式に与ることがすべての信者の権利です。同じように、カトリックの信者たちには教会のあらゆる教義どおりに、欠くことのできない形式で挙げられるミサ聖祭のいけにえに与る権利があります。つまり、カトリック共同体の権利は、神聖な御聖体祭儀が、教会内に分裂や派閥を生じさせる危険のあらゆる欠点や行動に対する一致の秘跡として、真にきわだった形式で行われるようにすることなのです(32)。

 

13 当指針に示される規定と勧告はすべて、形式はいろいろあっても、非常に重大な神秘を正しく、適切な形で祝えるよう配慮することを自らに課するのが教会の使命である、という点に通じるのです(33)。当指針の最終章は、個々の規定が全教会法の最高位の規定、すなわち、救霊に関わる問題と密接に関係するさまざまなあり方について触れています。

 

 

第一章 神聖な典礼の規定 

 

14 神聖な典礼の規定は、もっぱら教会の権威によって決められますが、とりわけ教会の規定によって、使徒座、および司教がその責任を負っています(34)。

 

15 ローマ教皇は「キリストの代理者、かつ、この地上における普遍教会の牧者です。その任務からして教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができます」(35)。その権能は、司牧者や信徒との交わりによっても行使できます。

 

16 「使徒座は全教会の聖なる典礼を秩序づけ、典礼書を発行しその国の言語への翻訳を承認し、かつ典礼の秩序がいずこにおいても忠実に遵守されるよう監督する権限を有します」(36)。

 

17 「神聖な典礼の規定と奨励について、使徒座に属する事柄は典礼秘跡省の管轄で、特に秘跡に関しては、教理省にその権限が属します。当典礼秘跡省は秘跡の規律、とりわけその有効性と合法的な司式について、これを管理し、実施します」最終的に、「典礼の規定が守られていることを確実にし、誤った司式を防ぎ、誤りを発見すれば排除します」(37)。このために普遍教会の伝統に従い、ミサ聖祭はもとより、ミサ聖祭以外の御聖体に対する崇敬についてなによりも配慮しています。

 

18 「典礼はだれの私的所有物でもありません。神秘を祝う司会者のものでもなければ、そこで神秘が祝われる共同体のものでもないのです」(38)。信徒が、そのようなことのないよう、教会の権威者に十分かつ効果的に神聖な典礼を管理することを求めるのは当然のことです。

 

一 教区司教・キリスト信者の指導者 

 

19 司教は神の秘儀の主要な分配者であるとともに、自分に委託された教会における典礼生活全体の統制者、推進者、監視者です(39)。そのわけは「叙階の秘跡の充満を受けた司教は、『最高の司祭職の恩恵の管理者』(40)です。特に御聖体祭儀においてそうであって、司教はそれをささげ、あるいはそれがささげられるように配慮し(41)、またそれによって教会は絶えず生き育つのである」(42)からです。

 

20 実に、教会というものの姿が顕著に表されるのはミサ聖祭がささげられるすべての場所、とりわけ助祭や司祭たちに囲まれて「司教が司式し、ひとつの祭壇の上でひとつの祈りをもって行われる同じ祭儀に、神の聖なる民全体が充実した行動的参加をもってこれにあずかる」(43)司教座聖堂においてです。それだけではなく、「御聖体祭儀の正しい挙行はすべて司教によって指導されます。司教には、神の威光にキリスト教の祭礼をささげ、それを管理する職務が委ねられています。司教は、主のおきてと教会の法律に従ってこの職務を果たすのです。この法律は司教の個別判断によって、司教区のためにさらに細かく規定されています」(44)。

 

21 次に「教区司教は自己に委託された教会において、自己の権限内においてすべての者が遵守しなければならない典礼法規を定める権限を有します」(45)。とはいえ、普遍的な聖なる典礼を人間的な理解の及ぶものとするようなやり方で、教会建築や、出席している信徒グループ、特定の司牧環境に合わせるために、規定や典礼書から予測される権利が失わせることのないよう、司牧は気を配らねばなりません(46)。

22 司教には自分に委ねられたそれぞれの部分教会を統治し(47)、それを整え、指導し、時にはまた戒める任務もあります(48)。自分に委ねられた信者が真理と聖性のうちに成長するよう努めることが(50)司教叙階によって受けた聖なる役務(49)なのです。司教は、生き生きとした実りある感謝の祭儀へと導くために(52)儀式と典礼文の真の意味を理解するように留意し、司祭、助祭、及び一般信徒のうちに聖なる典礼の精神を育てるように努めなければなりません(51)。同様に、司教は教会の全組織が教区内、国内、そして全世界でキリスト教的愛の一致へと確実に成長できるよう配慮しなければなりません(53)。

 

23 教会がイエズス・キリストに一致し、イエズス・キリストが御父に一致しているように、信徒は司教に一致しなければなりません。それはすべてが一致を通して共感し、神の栄光のために豊かになるためです(54)。教会の共同体、およびどんな種類の活動も、神に献げられた司牧生活や修道会の会員も含め、すべては正統に与えられている権利に加えて、典礼に関する事柄すべてが教区司牧の権威に従属しています。したがって、教区司教は、典礼の問題(55)を自分の担当地区にある教会や礼拝堂が抱えていないかを監督し、世話をする権利と義務を負っているのです。これは、信者が頻繁に訪れる修道会もしくはその指導下にある会員が設立した協会に対しても同様です。(56)。

 

24 教区司教が教会の規律、特にことばの奉仕、秘跡および準秘跡の執行、神への崇拝、および神への崇敬に対し、濫用をきたすことのないように注意すべきだということは、その管轄下にある信徒たちの正統な要求です(57)。

 

25 司教が設置する「典礼委員会」「典礼音楽委員会」「教会芸術委員会」などの会議や委員会は司教の規定どおりに行動すべきであり、そうした委員会が適切なやり方でその職務を遂行するには司教の権限と認可に頼らなければなりません(58)。こうすることで、司教区が効果的に管理されます。この種の組織体や、その他の統一体、および典礼の事柄についてのあらゆる仕事に関しては、長年にわたり、司教たち自分の働きが今までのところ良い結果をもたらしているかどうか(59)、また、現在の構成や活動に、どんな改革や改善を加えれば新たな活力を見いだすことができるか(60)を慎重に考察する必要があります。堅実なカトリックの信仰を持ち、神学や文化的知識に明るい人々のなかから、特に専門的に優れた人々を選ぶことを心に留めるべきです。

 

二 司教協議会 

 

26 公会議の意向に沿って司教協議会が設立したこの種の委員会も同じ効力を持ち(61)、委員会の委員は専門的な助手たちとは明らかに区別される司教たちからなっています。司教協議会の人数が司教たちの数だけは典礼委員会設立に十分でない場合には、教会会議、または専門家グループが必ず司教の管轄区のもとで指名されるべきであり、それには「典礼委員会」の名はないとはいえ、できるかぎり同じ役割を果たすこととなります。

 

27 一九七〇年初頭に、使徒座はミサ聖祭に関するあらゆる試行実験をやめるよう発表しました(62)。一九八八年にも同様の発表を行っています(63)。したがって、個々の司教と司教協議会には、典礼文、あるいは典礼書に規定されているその他の事柄について試行実験を許可する特別権限がありません。今後、この種の試行実験を実施するには典礼秘跡省の許可を必要とします。それらは書面で作成され、司教協議会に依頼されることとなります。さらによほど重要な理由なしには許可されることはありません。典礼の事柄に関する文化受容の計画については、決められた特定の規定が厳格、かつ、包括的に守られるべきです(64)。

 

28 司教協議会が教会法に従い、管轄区のために設定するあらゆる典礼規定は、典礼秘跡省の承認がなければ認められません(65)。

 

三 司祭 

 

29 司教の有能で、分別があり、欠くことのできない協力者である司祭は(66)神の民の奉仕に召されており、職務は異なっていますが、司教とともに司祭職を構成しています(67)。「司祭は自分が信頼と寛大な心をもって結ばれている司教をある意味で現存させ、司教の務めと苦労を自分の役割に応じて引き受け、日々の配慮をもってそれを実行します」。そして「このように司教の司祭職と使命とに参与する司祭は、司教を真に自分の父と認め、尊厳をもって従わなければならないのです」(68)。それだけではなく、「司祭は常に神の子らの善をこころざし、全司教区、さらに全教会の司牧活動に協力するよう努めなければなりません」(69)。

 

30 「感謝の祭儀を行うために、とりわけ司祭が」大きな責任を負っています。「『キリストの代理者として』感謝の祭儀を司式するのは、司祭の責任です。共同体のあかしとなり共同体に奉仕するのも、司祭の責任です。司祭は、祭儀に直接あずかる共同体に奉仕するだけではなく、同時に普遍教会にも奉仕します。感謝の祭儀はつねに普遍教会にあずかりながら行われるからです。悲しむべきことですが、とくに公会議後の典礼改革の過程で、創造性と適応に関する誤った考えから、多くの誤用が生じ、それが多くの人を苦しめています」(70)。

 

31 司祭たちが神聖な叙階の儀式で誓った厳粛な約束と、聖香油のミサにおける毎年の霊的刷新と一致することにより、司祭たちに「教会の伝統、とりわけ御聖体の秘跡と、ゆるしの秘跡の伝統にしたがって、神の賛美とキリストの民の聖化のために、信心深く忠実に、キリストの神秘を行ってもらいましょう」(71)。司祭たちは、典礼を変えたり、省いたり、あるいは気まぐれな追加で典礼をおとしめて、独自の職務の深遠な意義を減じることがあってはなりません(72)。聖アンブロジウスは「教会によってではなく・・・わたしたちによって教会は害を受けるのです。わたしたちの怠慢が教会を損なうという原因とならないよう気をつけましょう」といいました(73)。心の底から真面目に自己を献げている司祭たちに神の教会に損害を与えないようにしましょう。司祭たちが、このように歪んだ状態を作り出すことがないように、またほかの者がそうした行為を犯すのを防ぐように、司教の権限のもとに誠実に求めさせましょう。

 

32 「司祭は、御聖体が信者の小教区共同体の中心となるよう配慮しなければなりません。かつ、キリスト信者が熱心な秘跡の執行によって養われ、また信者が御聖体、およびゆるしの秘跡にしばしば近づくように、特別の努力をしなければばりません。同様に司祭は、信者が家庭においても祈りを実行するよう指導し、意識的かつ積極的に典礼に参加するよう努力しなければならないのです。司祭は、教区司教の権威のもとに、自己の小教区において典礼を指導し、かつその濫用が生じないように監督しなければなりません」(74)。司祭が信徒の手助けを受けることは適切ではありますが、すが、司祭自身の正式な聖務には、いかなる形であっても踏み込んだ助けを割り込ませてはなりません。

 

33 最終的に、すべての「司祭は典礼学と典礼芸術の教養を深め、自分に託された信者の共同体が自分の典礼的役務を通していっそう完全に聖父と聖子と聖霊なる神を賛美するものとなるよう努力しなければなりません」(75)。挙行される復活の神秘が信徒の心にゆっくりと浸透していく素晴らしさと驚きで、司祭たちの心が満たされるようにしてください(76)。

 

四 助祭 

 

34 評判のよい人として(78)「司祭職のためではなく、奉仕のために按手を受ける」(77)助祭は、神の助けにより「仕えられるためではなく、仕えるために来たのです」(80)。そして事実、イエズスの弟子のあいだで「仕える者」として(81)聖霊の賜物によって力づけられ、司教の按手によって、助祭たちは司教と司祭職に結びついて、神の民の奉仕にあたっています(82)。したがって、助祭たちは司教を父と思って仕え、司祭たちに対しては「ことばと祭壇とキリストの愛の職務によって」手助けします(83)。

 

35 「使徒が言ったように、清い良心のなかに信仰の秘められた真理をもち(84)、福音に従ったことばと、行いと、教会の伝統とで、この信仰を告げ知らせ」(85)ます。教会の命の源であり、頂点としての神聖な典礼に、心から忠実で謙虚な奉仕をすることを、助祭たちがけっして怠ることのないようにさせてください。「そうすれば、すべての人が信仰と洗礼によって神の子となり、ひとつに集まって教会のなかで神を讃え、犠牲にあずかって主の晩餐を食することができるのです」(86)。神聖な典礼が、典礼書に正式に認められている規定に従って行われるように、すべての助祭たちにその役割を果たさせましょう。

 

 

第二章 御聖体祭儀に参加する一般信徒 

 

一 能動的で意識的な参加 

 

36 キリストと教会の活動としてのミサ聖祭は、それぞれの教会はもとより全世界の教会、そしてまた信徒一人ひとりに共通する全キリスト教生活の中心です(87)。信者はそれぞれに「序列、役割、現実の参加の違いによってそれぞれ異なった仕方で関係します」(889。このように「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(89)であるキリスト者たちは、そのつながりと位階的序列を示すのです(90)。「新車の共通司祭職と、職位的または位階的司祭職とは、段階においてだけでなく、本質において異なるものですが、相互に秩序づけられていて、それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の司祭職に参与しています」(91)。

 

37 洗礼によって罪から解放され、教会の一員となったすべての信者は、その秘跡的性格により、キリスト教の礼拝をささげる役目を委ねられています(92)。司祭は、その聖なる権能によって(93)祈りと神への賛美を生き(94)、神をお喜ばせし、その働きによって人々に神を証しすることによって、自分を聖なる生きるいけにえとして献げ(95)、地上にキリストを証しして、永遠の命の希望について説明を要求する人々に答えるのです(96)。このように、一般信徒も御聖体祭儀やその他の教会の儀式に参加することは、単にその場にいるだけのことだとは言い切れません。受動的な行動と呼ぶのはなおさら不適当で、それどころか、信仰と洗礼の尊厳の真の行使とみなすべきものです。

 

38 御聖体の本質は、霊的食物であるだけではなく、卓越したいけにえであることだと、教会は常に教えています。したがって、すべての信徒がこの重大な秘跡に参加することこそが、この秘跡を完全なものとする秘訣であるということが正しく理解されるべきだとされています(97)。「いけにえとしての意味が剥ぎ取られるとしたら、この御聖体の神秘の重要性は、単なる仲間のうちの会食としてしか理解されないでしょう」(98)。

 

39 能動的な参加を推進し、その意味を明らかにするために、最近、公会議の考えに応じて新しく作り替えられた典礼書は、適切な時には神聖な沈黙が保たれるのを求め、会衆の応唱、答唱、詩編唱和、交唱、聖歌、さらに行為、すなわち動作と姿勢までを考慮しています。また信徒の役割をも指示するよう、注意が払われています(99)。それに加え、十分ゆとりのある融通性、参加者の必要性、理解度、心の準備とそれぞれの才能を、典礼規定に応じて各儀式に採り入れることを目標とした適切な独創性が許されています。聖歌にはさまざまな聖節に応じたメロディー、祈りと朗読の選択、説教、信徒の祈りの準備、特別の場合の説明文や教会の建物の飾りなど、それぞれの儀式を十分に紹介できる多様性を導入し、それによって典礼の伝統もさらに明瞭になり、司牧の必要条件を保ち、祭儀にあって参加者の記憶を呼び覚ます具体的な特色が注意深く吹き込まれます。しかし、祭儀はしじゅう様式を変えることにあることではなく、祝われている神のみことばと神秘とをさらに深く、厳密に学ぶことにあるのです(100)。

 

40 典礼に明らかにさまざまな動作が伴うからといって、すべての人が動作や身ぶり以上に具体的になにかをしなければならないということはありません。あたかもある特定の典礼の聖職者がある動作を個々の人々に行わなければならないよう決められているように。そうではなく、要理指導によって広くはびこった迷信的な考えや習慣、近年よく見受けられる典礼の試行実験を改めるよう懸命に努力すべきです。また、それを祝うたびに教会が永遠に古いいのちから新たないのちへと過ぎ越す偉大な信仰の神秘を前にして、常にすべての信徒が深い驚きを新たにしつづけるようにしなければなりません。”in novitatem a vetustate”(古いものから新しいものへ)(101)。全教会生活がそこから力を得、その目標に向かって進んでいく御聖体祭儀において、十字架につけられ、苦しみを受け、亡くなられ、葬られ、復活された主の前に使徒聖トマスが身を投げ出してひれ伏したのにならって、教会は神性の輝きに満たされた主に対しいつまでも感嘆の声を上げるでしょう。「わたしの主、わたしの神よ!」と(102)。

 

41 典礼に与るこの内的理解を力づけ、促進させ、養うために、普及している「教会の祈り」を絶え間なく行い、準秘跡やキリスト者に知られている信心を実践することはとても役にたちます。この後者の実践にはーーー「厳密な意味で典礼には属しているものではありませんが、特別な力と意味とをもち」ーーーとりわけ、これらが教導職そのものによって賞賛され、承認された場合には(103)、典礼と特定の関わりを持つものとみなされます。特に、聖マリアのロザリオがこれに当たります(104)。さらに、こうした信心の実践はキリスト教を秘跡ーーーとりわけ御聖体拝領ーーーに与るよう励ますとともに、「救い主の諸神秘を黙想し、天の聖人の模範にならうよう励まします。したがって、てそれらはわたしたちを典礼祭儀に参加させるという豊かな効果をもっているのです」(105)。

 

42 教会は、人間の願望でできあがっているのではないのを認めなければなりません。正確にいえば、教会は聖霊のうちに神によって呼び集められており、信仰を通じてなされる神の自由な呼びかけなのです(このようにekklesia[教会]という単語はKlesisすなわち「呼びかけ」に関連しています)(106)。御聖体のいけにえも、単なる、司祭と会衆との「共同司式」によるものとは考えられません(107)。それどころか司祭のささげる御聖体祭儀は「会衆の力を根本的に越えたたまものです・・・感謝の祭儀を行うために会衆が集まる際には、それが本当の意味での感謝の祭儀を行うために集まるのであれば、叙階された司祭が司式者として臨席することが絶対に必要です。他方叙階された役務者を共同体が自分で任命することはできません」(108)。この事柄に関するあらゆるあいまいさを避け、近年の困難を克服するには、心をひとつにすることが緊急に必要です。したがって、「祭儀を執り行っている共同体」や「祭儀を執り行っている集会」(他の言語では”asamblea celebrante”、”assemblee celebrante”、”assemblea celebrante”)のような用語や、それに類似した用語は無分別に使用されるべきではありません。

 

 

二 ミサ聖祭における一般信徒の職務 

 

43 共同体、および神の全教会の幸福と利益のために、一般信徒のなかには伝統に従い、神聖な典礼の祭儀に正当、かつ立派な職務を果たしている人々がいます(109)。同じ役目や務めの種々の部分を多くの信徒で分担して果たすことは差し支えありません(110)。

 

44 祭壇奉仕者や朗読奉仕者という正式に制定された職務は別として(111)、こうした職務の最も重要なものは臨時に代理を務める祭壇奉仕者(112)と朗読奉仕者(113)です。この職務に加え、ミサ典礼書に記述されているその他の役目(114)にはホスチアの準備、典礼に使用する祭壇布などのリネン類などの用意、またそれに準じるものにリネン類の洗濯があります。そのすべてが「叙階された奉仕者も信徒も、すべてのものは各自の役割や務めを果たすものであって、自己に属することだけを、そしてそのすべてを行わなければならない」(115)。祭儀の準備同様、典礼挙行そのものにあたり、信徒は教会の典礼がふさわしく適切に行われるために必要なことをしなければなりません。

 

45 避けなければならないのは、聖職者の職務と一般信徒の職務の補足的関係をあいまいにする危険です。一般信徒の職務は「クラリカリゼーション」(聖職者化)と呼ばれて、聖職者に準じる職務を体験することですが、神聖な聖役者が、これを一般信徒が当然するべき正式な役目だという不適当な考え方をすることのないようにしなければなりません(116)。

 

46 典礼の助手を求められた一般信徒は、適切な説明を受けており、キリスト者の生き方に道徳、および忠誠の点でふさわしい、と教会の教導権が推薦した人物でなければなりません。そうした人々は男女を問わず、それぞれの年齢、条件、生活状態、および宗教的教養に応じて、典礼の養成を受けることが適切なことです(117)。信徒をひどく驚かす原因となるようなやり方で、この役職の選出がされてはなりません(118)。

 

47 通例、侍者と呼ばれる少年や青年たちによって高尚な慣習が保たれ、彼らが祭壇奉仕者にならって奉仕を務め、その理解力に応じて各自の任務についての要理教育を受けるのはたいへん賞賛に値することです(119)。何世紀にもわたって、実に多くの神聖な聖役者がこうした青少年たちのなかから生まれていることも忘れてはなりません(120)。その両親たちも参加したり援助したりする青年たちの団体は、設立されたり奨励されたりするべきです。そのような司牧的業によって聖職者は養われるのです。団体が国際的なものになるなら、その設立および規則改定には典礼秘跡省の許可が必要となります(121)。少女や成人女性も教区司教の裁量と決められた規則を遵守することにより、祭壇での奉仕をすることが認められます(122)。

 

 

第三章 ミサ聖祭の正しい挙行 

 

一 神聖な御聖体の材料 

 

48 神聖な御聖体のいけにえの祭儀に使用されるパンは無酵母で、まじりけのない小麦、また腐敗の危険がまったくないよう最近作られたものでなければなりません(123)。したがって、たとえ穀物ではあっても小麦以外のもので作られたパン、もしくは小麦で作ってはあっても一般的に小麦製のパンとは考えられないまでに純粋な小麦とは異なる他の物質の混ぜられたパンは、いけにえと御聖体の秘跡をつくりあげる適切な材料とはされません。(124)果実、砂糖、蜂蜜のようなほかのものを御聖体用のパンに混ぜることは重大な誤りです。ホスチアは、誠実さがはっきりと認められるばかりでなく、それを作るのに熟練した人物が適切な道具を使って準備しなければなりません(125)。

 

49 御聖体拝領のしるしのためには、断片であっても御聖体のパンの少なくとも一部分が拝領する信徒に配られることが適切なことです。「拝領者の数やその他の司牧上の理由によって小さなパンが必要な場合、決してそれを排除するものではありません」(126)。また実際、たいていの場合はさらに割る必要のない小さなホスチアを使うべきです。

 

50 御聖体のいけにえの神聖な祭儀で使用されるぶどう酒は、ぶどうから作られた天然のもので、純粋で腐敗しておらず、他の物質が混ざっていないものです(127)。祭儀はそのもののあいだに、ぶどう酒には少量の水が混ぜられることになっています。感謝の祭儀のためのぶどう酒は大切に保存され、酢にならないよう細心の注意を払わなければなりません(128)。出拠の疑わしいぶどう酒を使うことは固く禁止されています。教会の秘跡の有効性に必要な条件を確実に満たしていることが要求されるからです。どんな理由があろうとほかの種類の飲み物の使用は認められません。ぶどう酒以外の飲み物は適切な材料とはされないからです。

 

二 奉献文 

 

51 ミサ典礼書に載っている奉献文、もしくはその様式と用語によって使徒座が合法と認めた祈りだけが使用されることになっています。「ある司祭たちには独自の奉献文を作る権利がある」(129)、教会が認めた文章を変える、個々の人々の自作の祈りを導入するといったことが大目に見られることはありません(130)。

 

52 祭儀全体の頂点であるという性質のために、奉献文は叙階された司祭が唱えるのが正しいのです。したがって、奉献文のある部分が助祭、一般信徒の奉仕者、あるいは個々の信徒会員、あるいはまた信徒全員によって唱えられるのは誤ったやり方です。奉献文は全文が司祭によって唱えられるべきです(131)。

 

53 司祭が奉献文を唱えているあいだは、次に述べるような正式に認可している信徒の応唱を除いては「他の祈りを唱えたり、歌を歌ったりせず、また、オルガンその他の楽器も演奏してはなりません」(132)。

 

54 しかし、信徒は常に能動的に祭儀に参加しており、決して受動的なだけではありません。すなわち「会衆は信仰をもって沈黙のうちに、また奉献文のなかに挿入された定められた方法で、司祭と心をひとつにします。それらは、叙唱の対話句における応答、感謝の賛歌、聖別後の応唱、結びの栄唱後の『アーメン』、さらに司教協議会によって認可され使徒座が認証した他の応唱です」(133)。

 

55 ミサ聖祭の聖変化のときに司祭がホスチアを割るという誤りが犯されているところもあります。こうした誤りは教会の伝統に反するので咎められます。早急に直すべきです。

 

56 奉献文から教皇と教区司教の名を省いてはなりません。これらは守らなければならない非常に昔からの伝統であり、教会の一致の表明だからです。「感謝の祭儀を行う集会において、教会の交わりとは、自分たちの司教、そしてローマ教皇との交わりです」(134)。

 

三 ミサ聖祭のその他の部分 

 

57 特に主日のミサ聖祭では、通例その場にふさわしく、正しい神聖な音楽が使われるべきです。また規定に従い、必ず祭壇と祭服、威厳があり清潔で聖なる正式のリネン類が準備されていることは信者共同体の権利です。

 

58 同様に、御聖体祭儀はあらゆる部分において注意深く準備され、神のみことばは正しく効果的に知らされて説明を加えられ、典礼文と典礼様式の選択は、規定に沿って慎重に行われ、信徒の信仰が滞りなく保護され、典礼儀式のなかで歌われるみことばによって養われることも、すべての信徒の権利です。

 

59 あちらこちらの司祭や助祭が咎めを受けているような、祭儀の形式を自分の意のままに変えたり、手直しをするような行為は止めなければなりません。このような行為により、神聖な典礼が不確かなものとなり、その真正な意味が歪められることがしばしばあるからです。

 

60 ミサ聖祭のみことばの典礼と感謝の典礼は互いに密接に関連しており、一体となって崇拝の行為を形成しています。このため、片方をもうひとつから引き離して、異なる時や場所で行うことは合法とはいえません(135)。ミサ聖祭の典礼の一部を同じ日の異なる時間に行うことも正しくありません。

 

61 ミサ聖祭中に読まれる聖書朗読を選ぶにあたっては、典礼書にある規定に従うことになっています(136)。そうしてこそ「信者に神のみことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を開く」ことになるのです(137)。

 

62 司式者独自の発議で、規定されている聖書朗読を省いたり、他のものに変えたりすることも違法であり、とりわけ「神のみことばを含む朗読と答唱詩編を聖書以外の他の文書に代えるべきではありません」(138)。

 

63 「真正な典礼儀式のなかで、みことばの祭儀の頂点である福音朗読」(139)は教会の伝統に従って、叙階された聖役者が行うように指定されています(140)。このように、ミサ聖祭において福音を朗読することは、どれほど信仰があっても一般信徒には許されていません、規則が明確に許可していないような場合も同様です(141)。

 

64 ミサ聖祭のなかで、典礼そのものの一部である説教(142)は、通常司式司祭が行います。もしくは司式司祭から委ねられた共同司式司祭によって、あるいは状況に応じて時には助祭によっても行われます。ただし、信徒が行うことはできません(143)。特別な事情があり、正当な理由がある場合は、説教は祭儀に参加しているが共同司式をすることができない司教もしくは司祭によっても行われます(144)。

 

65 御聖体祭儀のあいだ叙階を受けていない信徒が説教を行ってもよいとしていた今までの規定は教会法七六七条第一項の規定によって廃止されることになります(145)。この実践はひどく非難されたので、慣習とする許可は得られないことを心に留めておくべきです。

 

66 ミサ聖祭中に信徒が説教を行う許可の廃止は、神学生、神学課程の学生たち、また「司牧の助手たち」として知られている役割を持つ人々にも適用されます。その他、どんな種類の信徒のグループ、共同体、共同団体も決して例外ではありません(146)。

 

67 説教が確固として救いの神秘に基づき、信仰の神秘、および聖書朗読と典礼文から典礼暦の過程を通じたキリスト教的生活基準を解説し、通常、ミサ聖祭、および聖節の特別のミサの典礼文、もしくは教会のその他の儀式に関しての注釈を与えるべきことに特別な注意を払わねばなりません。神聖な聖書の解釈すべては、救いのかなめである説教には、キリストの光が人生のあらゆることのうえに輝くような配慮がなされなければなりません。たとえそれができていても、真実で純粋な神の御言葉をあいまいにすることのないように気をつけるべきです。例えば、政治や不敬な主題のみを扱ったり、または材料として、その時代のえせ宗教的風潮から得た考えを利用したりすることです(148)。

 

68 教区司教は説教を勤勉に監督しなければなりません(149)。神聖な聖役者たちへの規定の公表、指針の配布、補助の手段、会議の奨励など、そのための計画を実施することで、司祭たちに説教の本質をさらに正確に考える機会を与え、その準備を助けるようにするべきです。

 

69 その他の神聖な典礼の挙行と同様、ミサ聖祭においても正式に認可された典礼書に載っていない信仰宣言や信仰告白は使用できません。

 

70 信徒がミサ聖祭の御聖体の典礼で行うことが習慣になっている献げものは、必ずしも御聖体祭儀のパンとぶどう酒に限定されておらず、貧しい人々へのキリスト教的愛のために金銭や、その他の物品のかたちで信徒が捧げる贈りものも含まれています。さらに、外面的な贈りものは、常に神が人間から期待される真の贈りものの目に見える表現であるべきである。すなわち、真の贈りものとは、わたしたちのためにご自身を捧げてくださったキリストのいけにえに従う、罪を深く悔いる心と、神の隣人に対する愛です。御聖体のうちには、最後の晩餐のとき、イエズスが弟子たちの足を洗って示されたキリスト教的愛の神秘がもっとも鮮やかな輝きを放っています。神聖な典礼の威厳を保つために、どの出来事のなかにも外面的な捧げものがふさわしい手段で表されているのです。ですから、貧しい人のため、また教会のために信者が持ってくるか、あるいは教会堂内で集めるかした献金または他の捧げものも奉献されます。それは、感謝の食卓以外の適当な場所に置かれます(150)。金銭、およびその他の贈りものは最小限度の象徴的な部分ですが、ミサ聖祭のほかに、そうした捧げものがなされることは望ましいことです。

 

71 ローマ式の典礼の礼拝では、御聖体拝領の少し前に平和のあいさつが交わされることになっています。ローマ式典礼の伝統によると、この習慣には和解の意味も罪のゆるしの意味もなく、神聖な御聖体を拝領する前の全員の平和と一致、キリスト教的愛を意味しているのです(151)。それは、どちらかといえば、兄弟姉妹間の和解の性質を持つ、(特に初期の形式では)ミサ聖祭の始まりに行われる回心の祈りなのです。

 

72 「各自がもっとも近くにいる人と、個別に節度を保って平和のあいさつをする」のが適切です。「司祭は奉仕者たちに平和のあいさつをすることができますが、つねに内陣にとどまり、祭儀を中断しないようにします。正当な理由から幾人かの信者に平和のあいさつをしようとする場合も同様です」「信徒の気質や習慣に応じ、司教協議会があいさつを交わし合う方法を決定します。」また、信徒のあいさつのことばや作法は使徒座の認可を受ける必要があります(152)。

 

73 ミサ聖祭でパンを裂くことはーーーー必要な場合は助祭あるいは共同司式者の助けを得て、司式司祭のみが行いますーーーー平和のあいさつが交わされた後で始め、「神の子羊」と唱えられるあいだにパンが裂かれます。パンを裂く行為は「キリストが最後の晩餐のときに行われ、御聖体祭儀の行為全体がパンを『裂くこと』と名づけられていた使徒の時代には大勢の信者が、ひとつの生命のパンーーーーそれは世の救いのために死んで復活されたキリストであるーーーーにともにあずかることによって、ひとつの体となることを意味しています」(一コリント十章七節参照)(153)。このため、この儀式は丁寧な尊敬を払って行わなければなりません(154)。それでも、その儀式は短時間でなされるべきです。この儀式を必要以上に長引かせたり、過度に重要性を強調するべきではありません。規定に矛盾して信徒も手伝うといった誤った挙手法のはびこっているところでは、大至急これを正すべきです。(155)。

 

74 キリスト者の生活に関して、教会の信徒が、集まった信徒に説明や証言をしなければならない必要が生じるなら、これは当然ミサ聖祭以外のときに行われるのが望ましいでしょう。それでもどうしてもしなければならない重大な理由があるなら、この種の説明や証言は司祭が拝領後の祈りを唱えた後でなら行ってもさしつかえありません。しかし、こういった行為が定まった習慣になってはなりません。さらにこうした説明や証言は、説教を混乱させるような質のものであってはなりませんし(156)、これをするために説教を省くことは許されません。

 

四 いろいろな典礼様式のミサ聖祭への追加  

 

75 ある特別の典礼や御聖体祭儀に本来備わっている神学的意義のため、典礼書はミサ聖祭に他の儀式、とりわけ秘跡に属しているもののひとつに加えることを指示したり、許可したりすることがあります(157)。しかし、教会はその他の場合には、とりわけ些細な事柄に関してはそのような追加を認めません。

 

76 さらに、ローマ教会のもっとも古い伝統に従い、ゆるしの秘跡をミサ聖祭と結びつけてひとつの典礼儀式のようにすることは許可されません。しかしこのことは、ミサ聖祭を司式、または共同司式していない司祭たちが、信徒の必要に応じて、たとえミサ聖祭が行われている同じ場所であろうと、信徒の告解を聞くことを禁じるものではありません(158)。とはいえ、これは適切なやりかたでなされるべきです。

 

77 ミサ聖祭は絶対に一般の食事の場に挿入されてはなりませんし、この種の宴会とも結びつけてはなりません。ミサ聖祭は重要な必要性がなければ普通の食卓上で行われてはなりません(159)。また、食堂や宴会会場、食物が並べられている部屋や祭儀のあいだに参加者が食事のテーブルについているような場所で行ってもなりません。もし、やむを得ない必要があるために、ミサ聖祭がその後で会食の開かれるのと同じ場所で挙行されなければならないなら、ミサ聖祭の終了と次の会食のあいだに十分な間隔をあけ、ミサ聖祭のあいだに信徒の前に会食用の食物が用意されることのないようにするべきです。

 

78 ミサ聖祭を政治あるは世俗の催しに結びつけることは許されません。またカトリックの教導権と
完全に一致しない状態に結びつけてもなりません。さらに、ミサ聖祭を単なるショーとして人に見せたいといった冒涜的なものも含めて、その他の典礼を見せる見せもののような形で挙行するのは論外です。そのようなことをすれば、祭儀はその真正な意義を失います。

 

79 結論として、ミサ聖祭に、典礼書の規定に矛盾する要素、他宗教の儀式から取った要素を導入するのは絶対的に誤った挙式方法であると考えられます。

 

 

第四章 御聖体拝領 

 

一 御聖体拝領の心得 

 

80 御聖体は「それによって信徒の毎日のあやまちと大罪を予防する薬として」の意義からも信徒に与えられます(160)。ミサ聖祭の始めに規定されている回心の祈りには、神聖な秘跡をささげるにあたり、出席者全員に心の準備をさせる目的があります(161)。それでも「このことばは、ゆるしの秘跡の効果をもつものではありません」(162)から、もっと重大な罪の悔い改めについては、ゆるしの秘跡の代用とはみなされません。主任司祭たちは熱心な要理教育を確実に行うことに気を配るべきです。そうすればこの事柄についての教義が信徒に伝わります。

 

81 教会の慣習では、信者各自が自己の心を深く究明することが必要であり(163)、「重大な罪を自覚するものは、秘跡的告白(ゆるしの秘跡)を行わないかぎり、ミサを挙行し、または主の御からだを拝領してはなりません。ただし、重大な理由があり、かつ、告白する機会を欠くときにはこの限りではありません。その場合、できるだけ速やかに告白する決心を含む完全な痛悔を起こす義務があることを忘れてはなりません」(164)。

 

82 さらに「教会は規定を作成してきました。これらの規定は、信者が御聖体拝領に頻繁かつ効果的なしかたであずかることを促すと同時に、御聖体拝領を受けることが許されない客観的な条件を定めています」(165)。

 

83 すべての信徒が御聖体を拝領できる状態でミサ聖祭に参加するのが最高であるのは当然です。とはいえ、信徒が集団で、心の状態など無関心なまま御聖体の食卓に近づくことが生じる場合があります。こうした誤った行為を慎重に、確固として正す責任は主任司祭にあります。

 

84 ミサ聖祭が多数の群衆に対して挙行される場合ーーーー例えば大都会では、なにも知らないために、カトリックではない人々が、教義や規律の事柄に関する教導権のことなど考えずに御聖体に近づくので、注意が必要です。そうした出席者には御聖体の真正さと規律は厳格に守られなければならないことを時機にかなった機会に教えることは主任司祭の義務です。

 

85 教会法八四四条第二、三、四項、および八六一条第二項にある状況を除いては、カトリックの奉仕者が秘跡を授与するのは、カトリックのキリスト信者に対してのみであり、同様にカトリックのキリスト信者が適法に秘跡を受領するのは、カトリックの奉仕者からのみです(166)。それに加え、いかなる例外も認められることのない(167)教会法八四四条第四項にある条件を無視することはできません。したがってこれらすべての条件に合っていなければなりません。

 

86 信徒にはミサ聖祭以外のときに、特に定期的に、ゆるしの秘跡に与る習慣をつけるよう強く勧められるべきです。そうすれば、この秘跡は穏やかに、真に信徒の益になる形で執り行われ、ミサ聖祭における能動的な参加を妨げられることはありません。頻繁に、あるいは毎日御聖体を受けるのが習慣になっている人々は、各自の状態に応じて適切な間隔でゆるしの秘跡を受けるように教えられなければなりません(168)。

 

87 子どもたちの初聖体にあたっては、必ずその前に秘跡的告白と罪のゆるしを受けなければなりません(169)。さらに、初聖体は必ず司祭によって執り行われ、ミサ聖祭以外では決して行われてはなりません。通常の場合、主の晩餐の聖木曜日に初聖体を行うのは適切ではありません。他の日、復活祭の第二と第六のあいだの日曜日、もしくは主の御聖体の祭日、あるいはまさに御聖体の日であるとみなされている年間の主日のような日が選ばれるべきです(170)。小教区の司祭が「理性をはたらかせるに至っていない」か、「まだ初聖体を受ける十分な準備ができていない」と判断した子どもたちは、御聖体拝領を申し出るべきではありません(171)。しかし、年齢のわりに並はずれて成熟していると判断された子どもは、十分な教えを受けているなら、この秘跡を受ける準備ができていると判断されます。

 

二 御聖体拝領 

 

88 信徒は通常、ミサ聖祭のあいだの典礼に規定されているとき、つまり司式司祭の拝領のすぐ後に御聖体を拝領することになっています(172)。他の司祭たちや助祭の補佐を受けるなどして御聖体拝領を執り行うのは、司式司祭の責任です。司祭は信徒の拝領が完了するまでは、ミサ聖祭の次の部分を続けてはなりません。必要にせまられたときにかぎり、臨時の聖役者が教会法の規定に従って司式司祭を手伝います(173)。

 

89 「御聖体拝領による交わりが現に捧げられているいけにえへの参加であることが、しるしによってはっきりと表示されているとはいえ」(174)信徒がその同じ犠牲から主の体を拝領することは切に勧められることです(175)。

 

90 「信者は、司教協議会が決定し」使徒座が認可したやり方でひざまづくか立って拝領します、しかし立って拝領する場合、決定された規則に従って、秘跡を受ける前にふさわしい尊敬を表すように勧められています」(176)。

 

91 御聖体を配るにあたっては「聖務者は適切に秘跡を求めるものに対し、そのものがふさわしく準備しており、かつ教会法上秘跡を禁じられているものでないならば、それを拒んではならない」ということを記憶しておくべきです(177)。ですから、洗礼を受けていて、教会法上問題のない信徒はみな、御聖体拝領を許されなければなりません。したがって、例えばひさまづいて御聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです。

 

92 信徒は常に各自の選択で、舌のうえに御聖体を受ける権利があります(178)。拝領者が秘跡を手に受けたければ、使徒座に認可された司教協議会の管轄下ではそれを許可し、神聖なホスチアは手に載せられます。しかし、拝領者が御聖体を手に持ったままでどこかへ行ってしまうことのないように、ホスチアが聖役者の見ているところで確実に食されるよう注意しなければなりません(179)。

 

93 信者が御聖体拝領する際に用いる受け皿(御聖体拝領皿・パテナ)は、神聖なホスチアや、その断片が落ちる危険を避けるために保持しておくべきです(180)。

 

94 信徒が聖別されたパンやカリスを「自ら手に取ること、ましてそれらを互いに手で渡すこと」はなおさら教会法に反します(181)。さらに、この観点から、結婚式ミサで配偶者たちが互いに御聖体を授けあう悪習は無効とされるべきです。

 

95 「至聖なる御聖体を既に拝領した信者は、参加するミサ中に限り同じ日に再度拝領することができます。ただし、教会法九二一条第二項の規定を害してはなりません」(182)

 

96 聖別されていないホスチアや、その他の食べられるもの、食べられないものを御聖体拝領の様式にならって、ミサ聖祭中か、その前に配布する習慣は典礼書の規定に反しており、咎められます。そのような習慣はローマ式典礼の伝統とまったく一致しておらず、教会の御聖体祭儀に関して信徒のあいだに混乱を招く原因となる危険性があるためです。ミサ聖祭の後に祝福されたパンを配布するという特殊な習慣の認められている特定の場所においては、この習慣について適切な要理教育が非常に慎重になされなければなりません、これに似た他の習慣は、事実上、二度と導入してはなりません。また、聖別されていないホスチアは絶対にこの目的に使用されるべきではありません。

 

 

 

三 司祭の御聖体拝領 

 

97 司祭はミサ聖祭が行われるときはいつでも、ミサ典書の置かれた祭壇で拝領しなければなりません。また、共同司式の司祭たちは信徒への御聖体拝領を行う前に拝領しなければなりません。司式司祭、あるいは共同司式者は、自分たちの拝領を信徒の拝領が終わるまで待たないことになっています(183)。

 

98 共同司式司祭の御聖体拝領は典礼書の規定に従い、常にそのミサ聖祭中に聖別されたホスチアで行います(184)。また、常に共同司式者全員がパンとぶどう酒の両形態を拝領します。司祭か助祭が、共同司式者にホスチアとカリスを手渡す際には、「キリストの御体」「キリストの御血」ということばは省きます。

 

99 パンとぶどう酒の両形態での拝領は「ミサを司式あるいは共同司式することができない司祭」(185)に常に許されています。

 

四 パンとぶどう酒、両形態による御聖体拝領 

 

100 ですから、御聖体の意味するしるしの豊かさは、御聖体祭儀の流れのなかで、信徒に明らかに証しされます。信徒も典礼書に示されており、トレント公会議によって確立されたこの事柄に関する教理上の原則についての適切な要理教育が前もって行われ、また常に教え続けられている場合には、パンとぶどう酒の両形態により拝領が許されます(186)。

 

101 なによりもまず教区司教は自教区のために、状況に応じて、信徒の両形態による拝領の規則を決めることができます。神聖なパンとぶどう酒に対する汚聖の危険がほんのわずかでもあるところでは、それが完全に取り除かれなければなりません(187)。より広範囲に調整するために、特に「パンとぶどう酒両形態を拝領する方法について、またその機会の増大」(188)に関しては、司教協議会は典礼秘跡省を介して使徒座の承認を得てから、規範を発布しなければなりません。

 

102 ぶどう酒の量を見積もるのが困難であるのと「祭儀の結びに、飲まなければならない御血が必要以上に多く残る」(190)危険があるため、多数の拝領者がいるところでは、一般信徒にカリスを授けるべきではない、ということになりました(189)。カリスに近づいてぶどう酒を飲む方法を決めるのも同様に困難なことであり、また必要となる多量のぶどう酒について、その一定の出拠や量を知ることも難しくなります。十分な数の聖役者を集めたり、また適切な編成で普段とは異なる拝領を執り行ったりすることも大変です。またさまざまな理由でカリスに近づくのをいつも好まないかなりの数の信徒がいるのではないかといった懸念のために、ある意味で一致のしるしではなくなってしまいます。

 

103 ミサ典礼書では、両形態での御聖体拝領について次のように規定しています。「御血は直接カリスから飲むか、あるいはパンを御血に浸すか、あるいは管をを用いるか、あるいはさじを用いて拝領することができます(191)。一般信徒にパンとぶどう酒の拝領を行う方法については、ストローやスプーンを使用する習慣のある国はあまりないので司教たちはこれを除外するでしょうが、御聖体のパンを浸して授ける方法は続いています。しかし、この形式が使われる場合、拝領者は司祭から秘跡を必ず舌で受けなければなりません(192)。

 

104 拝領者は、自分でホスチアをカリスのなかのぶどう酒に浸すことも、浸したホスチアを手に受けることも許されません。ホスチアをぶどう酒に浸して拝領する場合は、それはやはり聖別された有効な材料でつくられるべきであり、聖別されていないパンや、その他の材料の使用は絶対に禁止されます。

 

105 共同司式司祭たちや信徒に、パンとぶどう酒との両形態を授ける拝領に、カリスがひとつでは足りない場合、司式司祭が複数のカリスを使用してはいけない理由はまったくありません(193)。ミサ聖祭の挙式にあたって、司祭は皆、パンとぶどう酒の両形態を受けることを義務づけられています。しるしとしての価値を尊重するために、一番主になるカリスを大きなサイズのものとし、ほかは小さなカリスにして一緒に使うやり方は、賞賛に値します。

 

106 しかし、聖別の後、この上なく重大な神秘を損なわないように、キリストの御血を容器から別のものに注ぐことは絶対避けるべきです。主の御血を入れるものとして、決して食卓用ぶどう酒のビン、鉢、あるいは設定されている規定からまったくはずれた容器を使ってはなりません。

 

107 教会法の規定に従い「御聖体を投げ捨てるか、または汚聖の目的でそれを持ち去るかもしくは保持するものは、使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けます。かつ、聖職者については、聖職者身分からの追放を含む他の刑罰によって処罰することができます」(194)。神聖なパンとぶどう酒に対しわざと重大で無礼な行為をとることは、これに属するものとみなされます。したがって、こうした規定に反する行為をする者、例えば神聖なパンとぶどう酒を聖水盤のなかや、不相応な場所、あるいは地面に投げ捨てるものには規定されている罰則が適用されます(195)。なおそのうえ、ミサ聖祭の最中にひとたび御聖体の授与が終わると、ミサ典礼書の規定どおりに、特にキリストの御血の残りは、ただちに司祭、または別の聖役者が一滴残らず飲み干し、残った聖別されたホスチアは、祭壇で司祭が拝領するか、もしくは御聖体を保存するために定められた場所に運ばれることを皆が覚えておかなければなりません(196)。

 

 

第五章 御聖体について、その他の決定事項 

 

一 御聖体祭儀の挙式の場 

 

108 「ミサは聖なる場所において挙行しなければなりません。ただし、特別な場合、他の場所が必要とされるときはこの限りではありません。その場合には、ふさわしい場所で挙行されなければなりません」(197)。他の場所が必要とされるような事態には、その場その場の事情をもとに、教区司教が自分の教区の判定者となって裁定します。

 

109 司祭がキリスト教以外の宗教の施設や聖域で祭儀を行うのは、違法となります。

 

二 ミサ聖祭に関連するさまざまな状況 

 

110 「司祭は、あがないの業が御聖体のいけにえの神秘のなかで絶えず果たされることを常にこころに留め、しばしミサを挙行しなければなりません。信者の出席が得られない場合でも、ミサはキリストと教会の行為ですから、毎日のミサ挙行が強く勧められます。その挙行をとおして司祭は自己の主要な任務を果たすのです」(198)。

 

111 司祭は、「教会主管者司祭(主任司祭)に未知のものであっても、推薦状(聖座もしくは所属する管区の管区長や上長からの、一年未満に書かれた推薦状ーーーーミサ聖祭挙行許可書ーーーー)を提示する場合、もしくはミサを禁じられているものではないと懸命に判断される場合には」(199)御聖体祭儀を司式、もしくは共同司式をすることを許されます。これに反する習慣を止めさせるよう司教たちに手段を講じてもらいましょう。

 

112 ミサ聖祭は教会法上の規定に従って認可されている典礼文を使用することを条件とし、ラテン語、またはその他の言語で挙行されます。教会の権威者によって、ミサ聖祭がその国の民族のことばで行われるよう計画されている場合を除いて、司祭たちは、いつでも、どこでもラテン語でミサを挙げることが許されています(200)。

 

113 ミサ聖祭を複数の司祭たちが共同司式する際は、共同司式者全員と、参加者全員に分かる言語で奉献文を唱えるべきです。出席している司祭たちのうち幾人かが司式に使う言語を知らず、そのために奉献文の箇所が適切に唱えられないことが生じるなら、その司祭たちは共同司式をするべきではありません。その代わりに、規定に従って聖歌隊の服装で祭儀に出席します。

 

114 「小教区が『御聖体を中心とする共同体』であるなら、小教区の日曜日のミサでは、さまざまなグループや運動、そしてその小教区に在住する小さな修道共同体をも見かけるのがふつうです」(202)教会法教会法上その特定のグループ内でミサを捧げることが許されているとはいえ、これらの団体は、やはり典礼の規定を忠実に遵守しなければなりません(203)。

 

115 人々に対するミサ聖祭の挙行を、ミサ典礼書とローマ式典礼の健全な伝統の規定に反し「御聖体の大斎」を進めるという口実にかこつけて、独断的なやり方で中止するのは誤りであり、咎めを受けます。

 

116 ミサ聖祭の回数を、教会法上の規定に背いて増やしてはなりません。また、ミサ謝礼については、教会法の規定に反することなく、すべて規定どおりに守られるべきです(204)。

 

三 祭器 

 

117 主の御体と御血が入れられる祭器は、伝統と典礼書の規定とに厳格に従って作られなければなりません(205)。司教協議会には、その祭器が適切であるかどうかを決定する権限があり、ひとたびその決定が使徒座に認可されると、他の材料で作られる祭器も同様の扱いとなります。しかし、そうした祭器はそれを使用することで、主に敬意が払われ、キリストが現実に御聖体の外観のうちに存在しておられる、という教義への信仰を減じる危険を信徒の目に与えないように、真に崇高で見事だという共通した評価を、一定の地域内で与えられることが厳しく要求されます(206)。したがって、ミサ聖祭に共通して使用される祭器は、劣った品質のもの、芸術的価値がないもの、ガラス・素焼き・陶器・その他の単なる容器でも壊れやすいものはひどい非難を受けることになります。この規定は錆びやすい、または劣化しやすい金属、その他の材料にも適用されます(207)。

 

118 祭器は使用前に、典礼書に規定されている形式に従い、司祭に祝別されることになっています(208)。各祭器が、定められている用途にふさわしいかどうかを判断する教区司教によって祝別されるとしたら素晴らしいことです。

 

119 信徒の御聖体拝領の後、司祭はまず祭壇に戻って、祭壇か祭器卓のところに立ち、カリスに載せるパテナ(御聖体皿)やチボリウム(御聖体容器)を清めます。つぎにみさ典礼書の規定どおりにカリスを清め、プリフィカトリウム(清浄布)でカリスを拭います。助祭がいれば、司祭とともに祭壇に戻って祭器を清めます。しかし、清めなければならない祭器が複数ある場合には、適宜覆いをかけ、祭壇のコルプラーレ(御聖体布)の上か、祭器卓の上に置いたままにしておくことが許されています。そして、人々を去らせた後に、司祭か助祭が、ただちにそれらを清めることになっています。さらに、正式に任命された祭壇奉仕者が、司祭か助祭を手伝い、祭器の清めと、それらを祭壇に置くか、祭器卓に置くかの配置を決めます、助祭が不在の場合は、正式に任命された祭壇奉仕者が祭器を祭器卓へ運び、そこで、それらを清め、拭い、通常の形に配置します(209)。

 

120 神聖な食卓用の布類は主任司祭が管理します。特に、聖なるパンとぶどう酒を受けるリネン類は、いつも清潔に保ち、伝統的な方法で洗われます。一度目の洗浄は、教会の聖水盤か、ふさわしい地面(場所)に水を注ぎ入れて、そこで手洗いします。これを守っていれば賞賛に値します。二度目の洗浄は通常の洗濯方法で行うことができます。


四 祭服 

 

121 祭服の色の多様性は、祝われる信仰の神秘の特徴や、典礼暦年の流れにおいて進展していくキリスト教生活の意味を、外面的にも効果的に表すことを目的としています(210)。他方で、「感謝の祭儀における務めのこの多様性は、祭服の違いによって外面的にも表されます」。実際のところ、これらの「祭服は祭儀そのものの気品に寄与するものでもなければなりません」(211)。

 

122 アルバ(長白衣)がチングルム(ひも状の帯)なしでも体に合うように作られているのでなければ、腰のあたりをチングルムでしばります。アルバが首のまわりの平服を完全に覆うのでなければ、アルバをつける前にアミクトゥス(肩衣)をつけなければなりません(212)。

 

123 ミサ聖祭、また違った形で示される、ミサ聖祭と直接関係するその他の神聖な行為を行う際、司祭にとっての正式な祭服はカズラ(上質の材料で作られた一番上に着る袖のない長衣)でアルバとストラの上に着けられます(213)。同様に、司祭は典礼法規に従い、カズラを着けたときにはストラを省いてはなりません。教会の全裁治権者は法規に反する使用法を完全に排除するために怠りなく警戒すべきです。

 

124 ミサ典礼書によって、ミサ聖祭において主司式者(必ず規定された色のカズラを着用する)以外の共同司式者の数が多い場合には、祭服が不足するため「カズラは省き、アルバの上にストラを着用する」(214)というように、当然の理由から特別権限が与えられます。しかし、この種の必要が予見されるときには、可能なかぎり前もって準備がなされるべきです。必要ならば、主司式者以外の共同司式者は白のカズラだけを着けることもできます、その他のことに関しては典礼秘跡省の規定が遵守されなければなりません。

 

125 助祭の正式の祭服はダルマティカ(幅広の短い袖のついた、両脇のあいた膝までの長さの祭服)で、アルバとストラの上に着用されます。教会の素晴らしい伝統を維持するために、ダルマティカを省かないならば、それは賞賛に値します(215)。

 

126 神聖な聖役者たちが、たとえ司式者のひとりであっても、典礼書の規定に反して祭服を着用せず、修道院の頭巾付き外套や、聖職者に共通した服装、あるいは平服の上にストラだけをつけて、ミサ聖祭やその他の儀式を行うのは誤りであり、咎められます(216)。そういう誤りが早急に修正されるために。裁治権者たちは管轄下にある全教会と礼拝堂に、規定に従って作られた典礼の祭服が十分備えられるよう気をつけるべきです。

 

127 典礼書には、祝祭日用やさらに盛大に祝われる日には、その日の色ではなくても、祝祭にふさわしい祭服あるいはより高貴な祭服を用いることができる特別の権限が記されています(217)。しかし、教会の遺産を維持するために、何年も前に作られた祭服を意図していたこの権限は、この規定の真の意味が伝統を失わないことにあるというのに、伝統的慣習を無視し、祭服の形や色に個々の人々の好みを採用する改革だとして間違って広がっています。祭日の儀式には金色や銀色の祭服がふさわしいとして、紫や黒とは別のさまざまなほかの色に取って代わられるようになりました。

 

128 キリストの行為と、神の民の行為とが階層的に構成されたミサ聖祭や、その他の典礼儀式では、聖役者、および一般信徒が各自の立場に応じて、儀式に明白に参加するという方法に整えられています。したがって、「感謝の祭儀に同席する司祭は、正当な理由がある場合を除き、通常、位階に固有の役割を果たし、そのため祭服を着用して共同司式者としてさんかしなければならない。さもなければ、固有の典礼用祭服もしくはスルプリ(半身丈の袖の広い白衣)を着用します」(218)。稀で例外的な場合のほかはしかるべき理由なしに、司祭たちが一般信徒のようにミサ聖祭に与るのは外観上適当とは言えません。

 

 

第六章 至聖なる御聖体の保存と、ミサ聖祭以外での御聖体礼拝 

 
一 御聖体の保存  

 

129 「ミサのいけにえによる感謝の祭儀こそ、ミサ以外で御聖体にささげられる礼拝の始まりであり、また結びです。ところでミサ後も御聖体が保存されるのは、主としてミサに参加できない信者たち、とりわけ病人や高齢者が、御聖体拝領によってキリストとミサのなかでささげられるそのいけにえに一致できるようにするためです」(219)。さらに、この御聖体の保存は、このすばらしい秘跡への礼拝と、神に崇敬をささげる習慣を与えてくれます。従って御聖体礼拝は単に信者の個人的なものだけではなく、公的で共同体的なものとして教会自らによって制定され、認可されたものとして大いに奨励されなければなりません(220)。

 

130 「それぞれの教会堂の構造に応じて、またその地方の合法的な習慣に従って、御聖体は、教会堂内の、品位があり、重要で、見通しがきき、美しく飾られ、祈りにふさわしい場所」そして、そのうえ「祈りに適した」静かな位置に置かれ、その前に空間がとられて、ベンチや座席、またひざまづき台のある環境のなかで、御聖櫃に保存されなければなりません(221)。それに加え、典礼書の全規定と教会法の規定(222)、とりわけ汚聖の危険を避ける点に入念な注意を払うべきです(223)。

 

131 教会法九三四条第一項の規定は別として、これは教区司祭の権限ですが、完全、適性でないやり方、あるいは汚聖の危険のある場所に神聖な秘跡を保存するのは禁じられています。そういう危険が生じるなら、御聖体の保存がすでに許可されていても、司教はただちにそれを取り消すべきです(224)。

 

132 だれであれ、教会法の規定に背いて、至聖なる御聖体を自宅や、その他のどんなところへも持っていくことはできません。聖変化後のパンを汚聖や放棄の目的で持ち去ったり、取っておいたりすることは、教会法に反する汚聖の大罪、グラヴィオラ・デリクタ(graviora delicta)であり、その罪のゆるしの権限は教理省にあります。

 

133 役目を定められていた聖役者が来なかったり、支障が出たりしたために、病人の御聖体拝領に御聖体を持って行くことになった司祭や、助祭、または臨時の聖役者は、可能なかぎり秘跡の安置所から病人宅まで直接行くことで汚聖の危険を避け、キリストの御聖体に対する最大限の敬意をはらうために、どんな汚聖もないように対策を講ずるべきです。さらに病人の御聖体拝領には、規定どおり常にローマ式典礼の形式で行わなければなりません(225)。

 

 

二 ミサ聖祭以外での御聖体礼拝の形式 

 

134 「ミサ以外の場での御聖体の礼拝は、教会生活にとってははかりしれない価値を持っています。御聖体礼拝は、感謝の祭儀と密接に関連するものです」(227)、したがって、ミサ聖祭以外であっても、御聖体に対する個人、または一般信徒の信心は強く奨励されるべきです。その御聖体礼拝によって、信徒は、真に現存しておられ(228)「すでに実現している恵みの大祭司」(229)、かつ全能の救い主であるキリストを礼拝するのですから。「司式者は、自らも模範を示しながら、御聖体礼拝の実践を奨励する責務を帯びています。特に御聖体の顕示と、御聖体の形態のうちに現存するキリストに対する礼拝の祈りを奨励すべきです」(230)。

 

135 信者は「感謝のしるしと愛の誓約、また御聖体のうちにおられる主に当然支払われるべき礼拝の負債として、一日のうちに秘跡の訪問を欠かしてはなりません」(231)。霊的御聖体拝領として、秘跡にこもっておられるイエズスを観想することは、実に多くの聖人たちの例が大きな証拠となっているように、信者を力強くキリストに一致させてくれます(232)。「至聖なる御聖体が安置される教会堂は、重大な理由による妨げがないかぎり、至聖なる秘跡の前で祈りをささげることができるように、毎日少なくとも数時間は信者のために開放されていなければなりません」(233)。

 

136 裁治権者は、与る期間が短かろうと、長かろうと、絶え間なしだろうと、人々が御聖体礼拝に与るよう熱心に奨励すべきです。近年は「ある地域では、御聖体礼拝はまったくといってよいほど行われなくなりました」が、それでも非常に多くの地域では日々欠かさず行われ、尽きることのない聖性の源泉となっています(234)。

 

御聖体顕示は常に典礼書の規定に従って実施されなければなりません(235)。御聖櫃に安置されているか、顕示されている御聖体の前で、その「素朴さと深淵さによって」賞賛されているロザリオの祈りを唱えることも禁止されてはなりません(236)。それにしても御聖体が顕示されているなら、特に聖書朗読によって、救い主キリストの生涯、全能の父の救いの計画の神秘を観想する、この種の祈りの特色が強調されるべきです(237)。

 

138 なお、秘跡が顕示されているあいだは、たとえわずかでも御聖体を礼拝するものがいない時間が絶対ないようにしてください。したがって、少なくとも信者のだれかが、決められた時間、交代で礼拝のために顕示台の前にいるよう取り決めるべきです。

 

139 教区司教がこの目的で割り当てる聖役者が、その他のものがいるところでは、信者は頻繁に御聖体訪問を行うこと、および少なくとも特定の年のあいだは、決められた時間に顕示された御聖体の前での礼拝に参加する権利があります。

 

140 少なくとも都市や、大きな町では、教区司祭は教会の建物を、いつでも礼拝のできる場と明示すべきであると強く勧められています。しかも、そのなかでも、ミサ聖祭が頻繁に、できれば毎日挙行されるべきだとされていますが、ミサ聖祭のあいだの御聖体顕示は厳しく禁じられています(238)。礼拝用に顕示されるホスチアは、御聖体拝領後に顕示台に入れて祭壇に置くようにします(239)。

 

141 教区司教は、可能なかぎり、信徒がほとんど絶え間なく礼拝を実施する団体や共同団体など種々のグループを作る権利を認め、奨励するべきです。そのような共同団体が国際的なものとなるなら、典礼秘跡省がその団体の設立や、会則の認可について管轄します(240)。

 

三 御聖体行列と御聖体大会 

 

142 「御聖体行列に関する規定を定め、その参加および尊厳について配慮するのは教区司教の責務です」(241)。

 

143 「教区司教の判断により可能である地方においては、特にキリストの御聖体の祭日に、至聖なる御聖体に対する崇敬の公然の証しとして公道を通って行う御聖体行列を催さなければなりません」(242)。キリストの祭日に信者がうやうやしく参加する御聖体行列は、主から与えられた恵みであり、毎年、参加者に喜びをもたらしています。

 

144 場所によっては御聖体行列を行えませんが、これを失う伝統を失ってはなりません。今日の状況では、通りを使用する代わりに、例えば、聖堂や公共の庭園で行うような新しい方法が求められるべきです。

 

145 御聖体大会の司牧的価値は高く評価されるべきであり、大会は「信仰と愛のまことのしるし」です(244)。信徒に入念に準備させ、規定に従って実施しましょう(245)。そうすれば、信徒は、ふさわしい態度で、神の御子の御聖体の神秘を礼拝する機会に恵まれ、自分たちの内部で絶え間なくあがないの報いを体験できるでしょう(246)。

 

 

第七章 一般信徒の臨時職 

 

146 職位的司祭職の代わりができるものはだれもいません。共同体に司祭が欠けるとしたら、その共同体から、命そのものの本質に関わる、祈りと、教会の頭であり羊飼いであるキリストの秘跡的働きが欠けてしまうことになります(247)。というのも、「キリストに代わって御聖体の秘跡を執行する奉仕者は、有効に叙階された司祭のみ」(248)だからです。

 

147 しかし、信徒は、奉仕者が不足し教会が必要と認める場合には、法の規定に従って一定の典礼職務につくことができます(249)。そのような信徒は主の恵みに支えられて、職務の重要さの大小にかかわらず、一定の職務を行うように求められ、任命されます。一般信徒の多くのものが、すでに熱意をもってこの職務に貢献し、とりわけ教会の規模が小さかったり迫害されたりしている宣教地区、また司祭や助祭の不足で影響を受けている地域では今でも行われています(250)。

 

148 伝道師の養成は特別重要です。伝道師たちはそのすばらしい働きによって、信仰と教会の発展のために、重要な欠くべかららざる援助をもたらしました、今も援助をもたらし続けているのです(251)。

 

149 さらに最近、長年福音宣教が続けられてきたいくつかの教区で、信徒が「司牧助手」として任命されており、その多くは確かに教会がよくなっていくために司教、司祭、助祭がその司牧活動を行えるように補佐の奉仕をしています。しかし、この職務が聖職者に属している司牧職の形式と密接に同化されすぎることのないように注意が払われるように気をつけてください。つまり「司牧助手」は聖役者の聖職であるのが当然であるべき仕事を、自ら進んで引き受けることのないよう、しっかり注意するということです。

 

150 司牧助手の活動は、司祭や助祭たちの聖職をやりやすくすること、司祭や助祭への召命のあるものが目覚めたときにそれを確実にすること、また各共同体の一般信徒がカリスマの多様性を保ち、教会法の規定に従って注意深くさまざまな典礼の職務について養成されることを目的としています。

 

151 典礼において臨時の聖役者の補佐を頼みとするのは、ほんとうに必要な時のみです。臨時聖役者を頼りとすることは、完全な信徒の参加のために意図されたことではなく、むしろ、本質的に補足なのであり、一時的な仮の依存です(252)。そのうえさらに、必要にせまられて臨時の聖役者が頼みとされるときには、主が共同体の奉仕のために司祭をすぐに送ってくださり、聖職者への召命が豊かにあるように、との特別な緊急の取りなしの祈りが加えられるべきです(253)。

 

152 一般信徒のこうした補足的な職務は、司祭が自分の責任あるミサ聖祭の挙行や、病人の個人的世話、子どもたちの洗礼、結婚式やキリスト者の葬儀の司式など、助祭に補佐された司祭の第一の聖職を怠ったり、司祭の聖職そのものを損ねたりする機会になってはなりません。したがって、小教区においては、司祭が助祭や一般信徒との司牧職の順番を手当たりしだいに変えて、各自の特定の職務を混乱させることが絶対にあってはなりません。

 

153 さらに、一般信徒が司祭の役割をしたり、司祭または助祭の祭服、あるいは祭服に似たその他の衣服を着用したりすることは違法です。

 

一 御聖体拝領の臨時奉仕者 

 

154 先に思い起こしたように「キリストに代わって御聖体の秘跡を執行できる奉仕者は、有効に叙階された司祭のみです」(254)。これゆえに「御聖体の奉仕者」という名は司祭のみに正式に属します。さらに神聖な叙階の秘跡を受けているのですから、御聖体拝領の通常の奉仕者は、司教、司祭、および助祭です(255)。このように、教会内の聖役職は完全、厳密に明瞭化されており、秘跡の象徴としての価値を完全にしています。

 

155 この通常の聖役者に加えて、ミサ聖祭以外であっても御聖体拝領の臨時の奉仕者を務める、正式に任命された奉仕者がいます。さらに、ほんとうに必要な場合には、教会法の規定に沿って、別の一般信徒も、ある事態もしくは特定の時のために、その場に適した祝別の式文に従って教区司教により任命されます(256)。しかし、この任命の行為は必ずしも典礼形式をとることはありません。もし、典礼形式をとるとすると、どこかで叙階式に似てしまいます。結論として、予期しない特別な事態には、御聖体祭儀を司式する司祭が、その時一度かぎり許可を与えることができます。(257)。

 

156 この職務は『御聖体拝領の臨時奉仕者』という呼び名の示すとおりに、厳密に理解されなければなりません。それは「御聖体拝領の特別奉仕者」でもなければ、「御聖体の臨時奉仕者」でもなく、「御聖体の特別奉仕者」でもありません。こうした呼び名をつければ、この職務の意味が不必要に、かつ誤って広まってしまいます。

 

157 御聖体拝領の際にいつも十分な数の聖役者がいるのであれば、御聖体拝領の臨時奉仕者は任命しなくてよいでしょう。聖役者が十分いる状態であれば、すでにこの職務に任命されている人々は職務を行使すべきではありません。祭儀に出席しているのに御聖体の配布をせず、この職務を一般信徒の手に委ねる司祭たちの行為は咎められます(258)。

 

158 実際に御聖体拝領の臨時奉仕者が御聖体を授けるのは、司祭や助祭がいないとき、または司祭の衰弱や老齢、もしくはその他のやむを得ない理由で妨げられたとき、または拝領に来た信徒の数が膨大で、ミサ聖祭が過度に長引きそうなときだけです(259)。しかし、ミサ聖祭を短縮しようとするこのやり方は、周りの事情や、その土地の文化を考慮した場合、けっして十分な理由にはなりません。

 

159 御聖体拝領の臨時奉仕者が御聖体を授ける権限をほかの人、例えば拝領者である病人の両親や、配偶者、または子どもに委任することは絶対に許されません。

 

160 このことについては、教区司教が最近の習慣を考え直し、事情によっては、それを修正するかもっと明確にしてください。こうした御聖体拝領の臨時奉仕者が真の必要性から広く任命されるところでは、教区司教は教会の伝統を念頭に置き、この職務が教会法に従って実施される手段を自分で取り決める特別な規定を発布すべきです。

 

二 説教 

 

161 すでに触れたように、説教はその重要性と本質のために、ミサ聖祭のあいだに司祭か助祭が行うようにすべきです。信徒は、ある一定の状況のもとで教話が必要とされるか、または特別な場合に有益であるとされる際に、教会法の規定に従って、ミサ聖祭以外のときに教会または礼拝堂において教話をすることが認められます(260)。このことは、聖役者の数が不足している場合で必要を満たすためにのみ行われる例外的な手段であって、普段でも行うように変えることはできませんし、一般信徒の進出の正しい方法であると理解されてもなりません(262)。さらに、そうした許可を与える権能は、その土地の裁治権者に属しており、これは個々の例について個別に判断されます。この許可は、たとえ司祭や助祭であろうと、誰にもその権限がありません。

 

三 司祭不在時の特別な祭儀 

 

162 主の日として知られている日に、信徒は主の復活と、過ぎ越しの神秘のすべてを、特にミサ聖祭によって記念するために集まります(263)。「キリスト教的共同体は御聖体祭儀の挙行にその源泉と中心をおかなければ、けっして建設できません」(264)。このために、日曜日には、また守るべき祝日や、その他の主要な祝日、それに可能なかぎり毎日でも信徒のために御聖体祭儀が行われるのは、キリスト信者の権利です。したがって小教区の場合、もしくはその他の信徒の共同体で、日曜日にミサ聖祭を挙げるのが困難な時には、教区司教が、教区司祭たちと一緒に適切な救済案を考えるべきです(265)。そうした解決法のなかに、ほかの司祭をこの目的のために呼んでくる、信徒が近い場所にある教会に移動して、そこで御聖体の神秘に与る、というものがあります。

 

163 人々のために司祭職と御聖体とを委ねられている(267)すべての司祭は、主日のミサ聖祭に与る義務を果たす機会を信徒に与えることが命じられていることを心に留めるべきです(268)。またそのほかの守るべき日に信徒がミサに与る義務を果たせなくなるのですから、どの司祭も、どうしても不可能な場合を除いては、ミサを挙げることを拒否したり、ミサを他の司祭に挙げてもらうことを拒否したりすべきではない、と要求する権利が信徒にはあります。

 

164 「聖役者の不在、または他の重大な理由によってミサに与ることができない場合」(269)教区司教が、自らの権限と教会の規定によって、そのような共同体ができるかぎりなんらかの祭儀を行えるようにしなければならないということは、信徒の権利です。しかし、この特殊な日曜日の祭儀は異例なものであると考えられます。こうした祭儀への参加を教区司教に命じられているすべての助祭や一般信徒は、「つねに御聖体への心からの『飢え』を持ち続けるように共同体を導く責任があります。それゆえ、ミサを行う機会があれば、けっしてそれを逃してはなりません。また、司祭が不定期に来る機会も利用すべきです。教会法は、そうした司祭がミサを行うことを妨げないからです」(270)。

 

165 この形式の集まりとミサ聖祭を取り違えるようなことは避ける必要があります(271)。したがって、教区司教は、この種の集まりでは御聖体拝領が行えるかどうかを慎重に見分けなければなりません。そのことは司教協議会でもっと十分に調整を考慮し、適切に決定して、典礼秘跡省を通じ、使徒座による認可の後、実施されるべきです。さらに、司祭と助祭の両方がいない場合には、ひとりの一般信徒に単独で全儀式を管理させるよりは、むしろ数人の信徒でいろいろな部分を分担するのが好ましいでしょう。また一般信徒のどのメンバーについても、祭儀を「司式している」と言うのはけっして適切ではありません。

 

166 同様に、このことについて独占的権限のある教区司教は、特に前の週、もしくは翌週の主日にミサ聖祭の挙式が可能だった、あるいは可能な場所では、特にそのなかで御聖体拝領を行う儀式を週日に行うことを簡単に許可してはなりません。したがって、司祭たちは、世話を委ねられている教会のなかのある決まった一つの教会で毎日ミサ聖祭を挙げることが強く望まれます。

 

167 「同様に、主日のミサの代わりに、(わたしたちから分離した兄弟たちの)教会的共同体のキリスト者とともに、エキュメニカルなかたちでみことばの祭儀や、共通祈祷文による礼拝を行うこと、さらにはそうした教会的共同体そのものの礼拝に与ることなどは、論外というべきです」(272)。万が一、教区司教が必要に迫られて、カトリック信者が教会的共同体の礼拝式に与ることをただ一度だけ正式に認可することがあるとしても、そういう状況のときも信徒はその日の別の時間のミサ聖祭に与る必要があるという義務についてカトリック信者のあいだに混乱が生じないよう、司牧者に気をつけさせましょう。(273)。

 

四 聖職者の地位を去った人々 

 

168 「教会法の規定に従って聖職者としての身分を失った聖職者が・・・叙階に基づく権利を行使することを禁止します」(274)。したがって、教会法に規定されている例外的場合のほかは、どんな口実のもとでも秘跡を行うことは法に違反します(275)。また、教会法一三三五条により、許可する理由がないということで、信徒が聖職をやめた人に秘跡の挙行を依頼することも法に反します(276)。さらに、この人々は説教をすることも(277)、典礼において、どのような役割も任務もけっして引き受けることはありません。さもなければ、信徒のあいだで混乱が生じ、真理があいまいにされてしまいます。

 

 

第八章 救済策 

 

169 神聖な典礼を行うにあたって誤りが犯されるときには、いつもそれはカトリック典礼の歪曲とみなされます。聖トマスは「神的権威をもって教会によって確立され、教会において慣習化された様式に反するしかたで神に礼拝をささげるものは、偽りという悪徳に陥ることになるでしょう(278)と書いています。

 

170 そうした誤りを避けるために「神の民である司牧者と信者双方が聖書的、典礼的に教育されることが緊急に必要とされます」(279)。そうすれば、典礼に関する教会の信仰とおきてが正確に表され、理解されるでしょう。しかし、誤りがあくまでも続く場合は、あらゆる正当な手段を駆使し、教会法に従って、教会の霊的財産と権利を守るための処置がとられるべきです。

 

171 さまざまな誤りのなかには、汚聖を目的とした大罪、グラヴィオラ・デリクタ(graviora delicta)や、やはり慎重に避け、矯正すべきその他の重要な事柄があります。特に、当指針の第一章で扱っていることすべてを心に留め、次のことに注意を払うようにしてください。

 

一 汚聖の大罪、グラヴィオラ・デリクタ 

 

172 至高のいけにえである御聖体の秘跡の聖性に対して犯される以下のような汚聖の大罪、グラヴィオラ・デリクタは、教理省の規定に従って取り扱われます(280)。

a 聖別された御聖体を汚聖の目的で持ち去るか、保持するか、投げ捨てること(281)

b 司祭叙階を受けていないのにミサを試みたり、ミサに見せかけたものを試みたりすること(282)

c 使徒継承権を持たず、司祭叙階の秘跡の尊厳も認めない教会的共同体の司祭とともにミサを挙行すること(283)

d 二つの形態のうち一つのみをミサ中に聖変化すること、または両形態であってもミサ以外で聖変化するといった、汚聖となる聖変化を行うこと(284)
 

 

二 重大な事柄 

 

173 事柄の重大性は、教会の共通した教えと、教会が定めた規定に従って判断されることになりますが、重大な事柄のなかで客観的に考慮されるべきなのは至聖なる御聖体の有効性と尊厳を危険にさらすことですーーーーすなわち、上記48〜52、56、76〜77、91〜92、94、96、101〜102。104,106、109、111,115,117,126,131〜133、138、158、168に見られる規則に反する事柄です。さらに、教会法のその他の規定、とりわけ一三六四条、一三六九条、一三七三条。一三七六条、一三八〇条、一三八四条、一三八五条、一三八六条、及び一三九八条にあることには注意を払うべきです。

 

三 その他の誤り 

 

174 そのうえまた、当指針中の他の箇所で扱っている事柄や教会法の規定に反する行動は少ししか取り上げられていませんが、慎重に避け、矯正されなければならない誤った行為が、他にもたくさんあります。

 

175 当指針に述べたことは、教会と、教会法に定義されている規定、典礼法、および教導権の教えのために、教会のその他の規定や、健全な伝統に対する違反行為のすべてを網羅しているわけではありません。間違ったことが犯された場合には、教会法に従って正されるべきです。

 

四 教区司教 

 

176 教区司教は「神の神秘の主要な分配者として、自己の司牧に委ねられたキリスト信者が秘跡の執行を通して、恩恵に成長し、かつ、過ぎ越しの神秘を会得し生きるように絶えず努力しなければなりません」(285)。「自己に委託された教会において、自己の権限内においてすべてのものが遵守しなければならない典礼法規を定める」のは司教の責任です(286)。

 

177 「司教は、普遍教会の一致を擁護しなければならないゆえに、全教会共通の規律を高めなければなりません。したがって、また教会のすべての法律の遵守を促されなければならないのです。司教は、教会の規律、特にことばの奉仕、秘跡および準秘跡の執行、神への礼拝および諸聖人の崇敬、ならびに財産の管理について、濫用をきたすことのないように注意しなければなりません」(287)。

 

178 このために、地区の裁治権者、または少なくとも修道会や、司牧生活をする会の裁治権者は、至聖なる御聖体に対する違法行為や濫用に関する少しでも理にかなった注意を受けるたびに、個人的に、あるいは適役の別の聖職者を使って、問題とされたことと併せて、事実や周りの状況を注意深く調査させます。

 

179 御聖体祭儀、その他の秘跡に対して犯されるグラヴィオラ・デリクタ同様、信仰に対する違反行為は、ただちに教理省に報告されなければなりません。教理省は「これを調査し、必要ならば、一般的なあるいはそれに適した法律に従って、教会法で規定された罰則を宣告するか科すことになります(288)。

 

180 そうでない場合は、裁治権者が教会法一三二六条に規定されていることを特に心に留めて、教会法に従い、必要に応じて規定の罰則を科すべきです。事柄が深刻ならば、典礼秘跡省に対し、そのことを、通告します。

 

五 使徒座 

 

181 典礼秘跡省は、至聖なる御聖体に対する違反行為や濫用についての少しでも理にかなった報告を受けると、これを裁治権者に報告して調査させます。事柄が重大だと分かった場合には、裁治権者は引き受けている照会記録の複写をできるだけ早急に同聖省に送ります。必要な場合には罰が科せられます。

 

182 さらに困難な件については、裁治権者は自分も神聖な裁治権者の肩書きによって保護する役割を負っている普遍教会の利益のために、事前に典礼秘跡省からの助言を受け、その事柄を扱わなければなりません。この典礼秘跡省はローマ教皇から与えられている権限にもとづいて、事柄の本質に応じて、裁治権者を助け、必要な免除(289)や裁治権者が入念に従うべき勧めや規定を与えます。

 

六 典礼的問題に関するよくない行為の申し立て 

 

183 完全に特別な方法で、至聖なるひせきである御聖体があらゆる不敬や歪曲から守られ、すべての濫用が徹底的に正されるように、各自の持っているかぎりの力を出してことにあたりようにさせましょう。これはすべての人が各自負わなければならないもっとも重要な義務であり、好むと好まざるとに関わらず。すべての人にそうする責任があるのです。

 

184 司祭であろうと、助祭であろうと、一般信者であろうと、すべてのカトリック信者には、典礼についてのよくない行為を見つけた場合、それを教区司教、司教と同等の裁治権者、教皇の首位権のある使徒座に正式に苦情を申し出る権利が教会法上あります(290)。しかし、その報告や苦情は、できるだけ、最初に教区司教に提出するのが適切でしょう。このことは当然、真理とキリスト教愛のうちになされるべきです。

結び 

 

 

185 「罪の結果として、不和の根源が人間性のうちに深く根ざしていることは、日々の経験から明らかです。この不和の根源に対応できるのは、独創的なキリストの御体がもたらす一致の力です。御聖体は、まさに教会を築き挙げることをとおして、人間らしい共同体を造り出すのです」(291)。したがって、これは典礼秘跡省の希望でもあり、この指針で指摘されたことを念入りに適用することで、御聖体の秘跡の働きに対して人間的弱さからくる困難が減り、すべての歪曲は除かれ、あらゆる咎められるべき試行実験は取り払われます(292)。「御聖体の婦人」である聖マリアのとりなしにより、御体と御血の秘跡にこもっておられるキリストの救いの存在が、全人類のうえに明るく輝くのです。

 

186 すべての信者を、できる限り完全に意識的、行動的に至聖なる御聖体に与らさせ(293)、その信心と生き方をもって、御聖体をふさわしく敬わせましょう。司教、司祭と助祭にはその聖務を行うなかで心を究明させ、かれらがキリスト教会の名によって捧げる典礼でその真正さを明らかにし、忠誠を示すようにさせましょう。聖役者は一人ひとり、厳格なまでに自問しましょう。キリストの命じられた聖なる典礼を執り行う教会の聖務を聖役者が十分に果たしていると信じ、自分自身とその子どもたちを聖役者に信頼して委ねているキリスト信者の権利を尊重しているかどうかを(294)。聖役者は常に自分が典礼に仕えるものであることを心に留めなければならないのですから(295)。

 

 教皇ヨハネ。パウロ二世の命令により、教理省の協力を得て、典礼秘跡省によって準備された当指針は、二〇〇四年三月一九日、聖ヨゼフの大祝日に同教皇に認可されました。教皇は、これが発行され、関係者全員によってただちに守られるべきであると命じられたことを、ここに記します。

 

     二〇〇四年三月二十五日 神のお告げの大祝日  ローマにて

                   典礼秘跡省  長官  フランシス・アリンゼ枢機卿


    局長  ドメニコ・ソレンティーノ大司教




「指針 あがないの秘跡」の試訳にあたって

 

 この度、教皇庁典礼秘跡省が公布した「指針 あがないの秘跡 --- 至聖なるご聖体に関して守るべき、かつ避けるべき諸事項について ---」を聖職者、翻訳家の協力も得て、日本語試訳いたしました。この指針は、教皇の承認を得て、二〇〇四年三月二十五日に公布されたもので、世界各地で行われている間違った典礼に対して強い憂慮を表明し、誤りや行き過ぎを是正するように求めています。

 

 本指針公布の意義は、序文において『典礼や秘跡の本質に反して、儀式のなかでとても重大な間違えさえも起きていることに沈黙しているわけにはいきません。いくつかの場所では、よくない典礼の挙行という明らかに許しがたく、止めなければならない過ちが日常茶飯事のようになつているのです。』とはっきり述べられています。

 信徒のあり方を第二章で説いた後、続く各章にて、聖体拝領、ミサ、ミサ中の説教等に関しての具体的な指針が詳しく述べられています。

 わたしたちは、本指針を日本のカトリック教会が正式に翻訳し、この指針に明示されている聖座の意向に従って現在行われている典礼上の誤りを正してくださるよう希望いたします。

 

 最後になりますが、この冊子は、「エウカリスチアの会」が勉強会用資料として専門家の協力を得て作成したものです。したがって、本翻訳は試訳であり、カトリック教会の正規の翻訳としての意味を持つものではないことを明記いたします。

 

二〇〇四年八月十五日 聖母の被昇天の祭日 エウカリスチアの会


Redemptionis Sacramentum

On certain matters to be observed or to be avoided
regarding the Most Holy Eucharist

 ヴァチカンの英語訳公式文書はこちらから