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主イエズス・キリストの御言葉
2004年5月8日 土曜日
教導権への従順
まず第一に、私の聖職位階の者たちの間に意見の対立があるということを私に指摘させてほしい!
わが教皇は、病気によって苦しめられ、彼を取り囲む教会内部の悪によって傷つけられ、今の時代と、これから来る時代について、霊魂のうちで思い悩んでいる。
彼は私に従っている。そしてあまりにも多くの者たちは彼に従っていない。ペトロの座にあるわが教皇からの指示や指導を無視することを選択したすべての者たちに災い。おまえたちは、自分が何をしているか十分に理解していないし、お前たちの服の裾を重たくしている流血にも気づいていない。わたしの意志よりもむしろお前たちの意志がなされることがより重要になってしまったかのように私には見える。
教会の中においてわたしがすべての者たちに対してなす最初のそして最も重要な改革への呼びかけは、わが教皇への従順である。かれは私の意志に仕えており、私の命令に従っている。
この自己奉仕、自己満足、反抗の道は終わらなければならない。私に仕える者たちは従わねばならないということを、あなたがたの心において知っておきなさい。
司祭職における一致
神学生たちの教育における荒廃のために、彼らは素養を身につけていない司祭として叙階されてきており、そしてわが教会の中には性的な醜聞の問題ばかりでなく、未熟で、不適格、無能な司祭たちが存在している。このことはいくつかの点においてさらに悪化している。なぜならそれはカトリックの信仰と真理についてよく知っていない教育者たちを生み出すからである。
神学校におけるカリキュラムを再検討するようにとの教皇の命令に従うように私は司教たちに呼びかけている。ひとつの大きな問題は、神学校を運営し将来の司祭たちを教育している司祭たちの間に不一致があることである。教会の教えから離れ、そして神学生たちに虚偽を伝えている司祭たちの間に平和を回復するために、より調和のとれた努力がなければならない。もし彼らが教会の教えに従わないのであれば、彼らは取り除かれるべきである。彼らの嘘と異端によって将来の司祭たちを毒するようなことは止めさせられるべきである。
では何が答えなのか?
近代主義の形をとって叛乱が起こる前には、ずっとより多くの召命があった。それは、教会の教え、私の教えが固守されていたからである。
現状はどうか?
私が言っていることをあなたががたが理解するためには、これ以上考え続ける必要はないということを私は信じる。それゆえ答えは簡単である。教会の元の教えに立ち戻りなさい。そうすれば神の恩寵は、より容易に注がれるだろう。
自分自身に仕えるこの道を続けるならば、神の怒りが展開するであろう。懲罰は続き、そして悪化するばかりだろう。そして痛みと苦しみが増大していくであろう。無垢な血が流されるであろう。殉教は慣例となり、そして私は、私を覚えている者がほとんどいないであろう時に、私の子供たちを助けるために戻ってくるであろう。そして真実にわたしを愛する残された者たちだけが、カオスと混乱から救われるであろう。
司祭たちは、彼ら自身とわが子供たちのために連帯しなければならない。もし私の意志が従われないのであれば、啓示が明らかにされるであろう。つまりそれは起ころうとしている。しかし私は人類の意志に呼び掛けている。なぜならあなたがたはなお選択するための意志を持っているからだ。
わが息子たち、わが司祭たちよ。あなたがたがなすように呼ばれてきたことを思い出しなさい。一致しなさい。連帯しなさい。お互い助け合いなさい。教会の真理において、お互いを再教育しなさい。強く立ちなさい、そして真理のために戦うことを恐れてはならない。あなたがたの群れが、あなたがたに従い、そしてお互いに助け合うことをどうしてあなたがたが期待できるだろうか、もしあなたがたがこのことの完全な模範でないのであれば。
神学校における問題を解決しなさい。混乱と裏切りのこの時期において私の言葉に耳を傾け、この絶望的な時期にもかかわらず仕えるために進み出てきた貴重な少数の者たちから、良い司祭たちを作り出しなさい。彼らを失望させてはならない、それによって牧者たちを、群れのための愛に満ちた、配慮ある、教養ある教師たちに育てあげなさい。
司祭たちの間に一致をもたらしなさい、そうすれば信徒たちの間にも一致がもたらされるであろう。
司祭と信徒たちのためのカウンセリング
損害が引き起こされてきている。罪が犯されてきている。赦しが成し遂げられねばならない。司祭たちと信徒たちのためにカウンセリングが求められなければならない。和解と赦しが成し遂げられるために。このことを改革への呼びかけの重要な一部としなさい。
伝統的な教会と近代的な教会の間で板挟みになっている霊魂たちがいる。これらの霊魂たちもカウンセリングを必要としている。近代主義者たちは、わが教会の真の教えが何であるかについて想起させられる必要がある。そして伝統主義者たちは、彼らが取り残されてはいないということを知らなければならない。すなわちかれらは教皇に忠実に仕えており、数多くの幻視者たちを通して、私は改革を呼び掛け、わが教会のやり方の固守を呼び掛けている。
その通り、現状においては、教会は私の意志に反する変更を認可してきている。私はまだそのことを許容しており、そして彼らは従わなければならない。しかし、可能なあらゆる機会において、伝統的な教会のやり方は固守されなければならない、そして彼らの忠実と信仰の深さの結果として、信徒たちに対して教導権からのいかなる迫害も、もたらされるべきではない。カウンセリングは、教会における分裂をいやすためにも必要とされるであろう。多くの者たちが人々と司祭を傷つけている。それは時間を必要とするだろう。事態が好転するという希望を決して捨ててはならない。なぜなら人間は常に選択するための権利を持っているのだし、神はそのことを許容しておられるからである。
改悛の儀式
これは告解の秘跡を水で薄めたものである。一年に一回の告解は全く十分ではない。信徒たちは堕落してしまっている。彼らは自分たちにとって都合よく聞こえることにしか耳を傾けない。そして多くの者たちが、大罪の状態でありながら聖体拝領をしている。信徒たちは、これは大罪であるということを思い出させられなければならない。そして神はそれに対して彼らを罰せられるであろうということを。
改悛の儀式は、小さな些細な罪についてのみ十分なものである。痛悔の祈りは、しばしば唱えられなければならない。家においても祈りの前に、自己を、霊魂を、罪から清めるために祈る必要がある。神とのよりおおいなる一致のために。
より深刻な大罪は、聖体拝領がなされる前に司祭に告白されなければならない。私はこのことを強調し過ぎることはない。私は恐ろしい拷問と苦しみを苦しんだ主イエズス・キリストである。私は完全であったし、そして今も完全なものであるが、あなたがたと皆のために、罪が赦されるように、このことを成した。このことは何も意味しないのか。これらは単なる言葉なのか。違う。それは真理である。そして私は私がなした大いなる犠牲と、それによって私があなたがたを愛してきた大いなる愛のゆえに、敬われるに値するのである。あまりにも多くの者たちが私を忘れている。
ひざまずくこと
あらゆる膝は屈むべきである!!!
おお、しかしサタンと彼の叛乱は、この一見したところあまり重要でない、そしてほとんど見過ごされている儀式において、わが教会の中に足場を見出した。その儀式においては、かつてはあらゆる膝が屈んでいたが、今や、わが聖体における現存を立って受け取ることは許容可能なことだと考えられている!これはわたしに対する侮辱であり、わが心に深い傷をもたらす。どれほど長く私の心は血を流さなければならないのであろうか。
ひざまずくことを望む者たちに聖体拝領を拒絶してはならない。これらの者たちは、わが真に信仰深い者たちであり、彼らは大いなる恩寵を以て報われるであろう。
かつて世界中のわが聖なる教会において示されていたように、私に対する敬意と従順が回帰することを私は望んでいる。かつての教会においては実際あらゆる膝がかがんでいた。彼らはわが現存の前でひざまずいていた、十分な敬意を払いながら、神の前にへりくだって、そして私を王の中の王、主の中の主と認めていた。そのような敬意を私が受け取っていた時は、まことにおおいなる時であった。
止められるべき現在の実践・・手による聖体拝領
これは冒涜である!いかなる信徒も、我が体を手にとってそれを受けるにふさわしくない。それはただちに汚されてしまう。何度私はこのことを繰り返さなければならないのか。あなたがた皆は、もっとわきまえ知るべきである。私は私の言うことを十分に明確にしてこなかったであろうか。パンとワインをわが体と血へと聖別することが司祭職の神秘の背後にある全目的と意味である。もしあなたがたが聖体におけるわが真の現存の信仰を取り去るならば、我が司祭たちは教会のための名目上の指導者にすぎず、かれらは単なる役務者に引き下げられてしまう。
司祭が呼ばれる理由そのもの、その全目的と意味は、わが体と血へと聖変化させるためにパンとワインを聖別することである。そして彼らは、わが神聖なる導きを受け取るために空の容器となるために、あらゆることを犠牲にする。わが群れが、私を受け取り、善徳においてより強くなり、私の命令に従うように。私の人生に従いながら、そして信徒たちになすように私が呼び掛けているすべてのことに従いながら。
信徒たちに手による聖体拝領を許すことは、わが体を象徴にすぎないものにおとしめてしまう。我が司祭たちのほかに、わが聖別されたホスチアに触れるために適切に準備された者はいない。そして聖体は、司祭たちの手から信徒へ、舌に与えられなければならない。
私は、手による聖体拝領の実践が取り除かれることを望んでいる!
特別奉仕者
わが民のための牧者たちの不足について私はあまりにもよく知っている。しかしたとえこのような状況でも、私は特別奉仕者の指名に同意することはない。私はもう一度言う。「我が司祭たちのほかに、わが聖別されたホスチアに触れるために適切に準備された者はいない。」私は十分に語った!私の意志がなされるように!
杯を分かち合うこと
私はこのことにも同意しない。あまりにもしばしば、わが群れは私に向かって叫ぶ。「主よ、主よ。」そして私は言ってきた。「私はお前たちを知らない。」 なぜか。なぜなら彼らは私の意志に従わなかったからである。私は杯におけるわが血を信徒と分かち合うことに同意しない。なぜなら私は、これが我が司祭たち、聖職者たちにのみ留保されることを望んでいるからである。彼らはいかなる信徒たちよりも多くの犠牲を払っている。彼らは特別な恩寵を与えられてきている。しかしそれでもなお彼らは人間的な弱さに打ち勝たなければならない人間であり、そしてわが血は、さらなる力のために、私自身を彼らのうちに受け入れることができるように。彼らのために留保されるのである。彼らの人間的な、そして、あまりにもしばしば肉体的な弱さに打ち勝つための助けとともに。神は、各人に彼らのものを与えられるのであり、そしてこれは彼らの割り当てなのである。
私はかつてある女性に語った。「女よ、あなたが求めているものが何であるかを分かっていない。」覚えているか。あらゆる人間が同じ恩寵を受け取るのではない。よその芝がより青いとは限らない。神はあらゆる人間に同じ機会、同じ権利、同じ特権を与えておられるのではない。神は各人に彼らの取り分に従って与えるのである。神が彼らに受け取ることを望まれるものを。
ねたみや軽蔑を生み出すのはサタンの意志である。彼のみが疑いの種を植える。そしてそれを疑惑と憤慨によって育てるのである。腐敗によってそれを繁茂させ、そして最終的に軽蔑と貧欲によって毒することによって、それを花開かせるのである。
あなたがたは次のことをなすように呼ばれてきている。主人の意志に仕えなさい。そしてもしこのことをあなたがたがなすことができないのならば、あなたがたはあなた方自身の意志の声に耳を傾けることになるのであり、そしてあなたがたはサタンの意志に仕えることになるであろう。そして彼があなたがたの主人となるであろう。
ふさわしくない服装
私はあまりにも多くのことを求めすぎているように見えるかもしれないが、天国への道は狭く、それを見いだすものは数少ないのである。私は我が母と我が司祭たちに対して示される増大する不敬は、ますます明白になっている。教会の中であまりにも多くの肌を露出している者たちは。そう、現代においては皆はこのことは構わないと告げられているが、そうではないと私はあなたがたに告げる。いくらかの敬意を示しなさい!
女たちよ。神と、あなたがた自身に対する、いくらかの敬意を示しなさい。あなたがたは、あなたがたの肉体的な美しさの産物あるいはその欠如の産物ではない。美しさは表面だけのものではない。美しさは内面から来るものである。それはあらわになった肩や、むき出しの足や、胸をあまりに多く露出することではない。
あなたがたの司祭を尊敬しなさい。彼らは男性であり、人生をささげ、神の子の表現となるために、あなた方に近づくことができるように、あなたがたに仕えるために独身を受け入れてきているのである。もしあなたがたが私の前に裸で立つならば、あなたがたはあなたがたの裸を恥ずかしく思わないだろうか。あなたがたは恥ずかしく思うであろうと私は真にあなたがたに言う。私はイエズスである。わが司祭たちはわが代理者たちである。あなたが私を尊敬するように彼らを尊敬しなさい。
男たちよ。あまりにもしばしば、私は男たちも教会に不適切な服装でやってくるのを目にしている。あなたがたが着ているものよりもあなたがたの霊魂の装いの方が大切であるということはその通りである。しかしまたあなたがたの内面的な霊的な装いは、あなたがたの外面的な服装に反映するのである。もしあなたがたが私に敬意を払うのであれば、そしてあなたがたのうちに住む私に敬意を払うのであれば、あなたがたはわが教会における私にも敬意を払うはずである。ここは礼拝の場所である。何かのクラブのようなたまり場ではない。
異端
現在の教会において増大しているように思われる驚くべき傾向について私が最後の言葉を述べたいのは、この点に関してである。神学者たちも司祭たちも、聖書における真実の有効性について自由に疑問を投げかけ疑うようになってきている。より高き真理が明らかにされるのは懐疑的になることによってではない神がしばしば全面的に信仰深い者たちに真理を啓示されるのは揺らぐことのない信仰によってである。そうではなかったであろうか。
私にいくつかの驚くべき異端を破壊し追放させてほしい。
神そして人としてのわが受肉において、私は完全であった。私はうそや異端を芽生えさせたことは決してなく、わが父の意志に反することは何もなしたことがない。私は真理、人となった御言葉であったし、今もそうである。私は天から、人類を贖うために来た。さまよい離れた人類を父の腕のもとに連れ帰るために。私はこのことを、私自身を自由に留保なく生贄の子羊として捧げることによって行った。以前のすべての犠牲を終わらせるために。以前の犠牲は、アダムとエヴァの行動によって引き起こされた損害を償うためには不十分であった。
私はこのことをなしうる唯一の者であった。そして私はこの愛の行為を、支払われるべき究極的な対価として成した。祭壇においてこれ以上の血が流されることは必要ではないということを一度限り決定的に示すために。なぜならわが血は、人類を永遠にわたって贖ったからである。
私は誰とも性的関係を持ったことはない。現代においては、いかなる人間的精神もこのことを理解することが出来ないように見えるが、実情はそうなのである。私は真理であり、私は御言葉である。私は、男や女との性的関係における接触や親しみを必要とはしない。なぜなら私は完全であったし、今もそうであるからである。私は父とひとつであったし、今もそうである。そしてわが存在が認識しているこの一致は、完全なものであり、いかなる性的、人間的関係の必要からも独立している。
私が何らかの性的関係を持ったことは「可能」だと思っているすべての者たちに対して、私は十分明白に自分自身を明らかにしたと思う。そのような考えを抱くこと自体異端である。
そうだ、わが肉体は復活した。その通り、私は地獄に下り、煉獄から霊魂たちを解放し、太祖たちの古聖所の霊魂たちを解放してから、三日後に地上に戻った。そして、宇宙の王としての我が権威、あらゆるものに対する主としてのわが権威を主張したのである。
私はわが肉体とともに天に昇り、そこで私は父の右に座した。私は生ける者と死せる者とを裁くために再び来るであろう。そしてわが王国は終わることがないであろう。
その通り、マリアの宿りは無原罪であった。彼女は本当に、彼女の肉体とともに昇天した。彼女は共贖者である。彼女は子供たちのためにとりなしている。彼女は、処女性、節制、聖性、神のすべての子供たちへの愛の模範である。彼女は崇敬されなければならない。彼女は私の母であり、すべての神の子らの母である。彼女は罪がなかったし今もそうである。彼女のようなものは他にいない。
新しい掟を私はあなたがたに与える。「互いに愛しあいなさい、私があなたがたを愛したように。」 このことをマリアは成し続けている。彼女は私があなたがたを愛したようにあなたがたを愛している。そして彼女は、あなたがたの敬意に値するのである。彼女は天の女王である。
我が真理を信じなさい。それらはあなたがたを見捨てることはないであろうから。私があなたがたを見捨てることはないであろうように。私は常にわが子供たちのそばに立っている。
主イエズス・キリスト