皆さんは、十分ご存知のことであるが、合理主義の害毒を避けるために、最も必要なことを思い起こしておきたいと思う。それは、多くの尊い殉教者が、自分の血をもって証し、著名な教父、教会博士達が異口同音に告白して教えたことである。すなわち聖体が偉大な秘議であること、まさに典礼がいう「信仰の秘議」であって、教皇レオ13世が言っておられるように『自然を越えた全ての現実がここに不思議な驚くべき多様性と豊かさをもって含まれている』のである。
そこでこの秘議に近づくにあたっては、人間の理屈をもって近づくのではなく、特にへりくだった従順な心をもって近づくべきである。人間の理屈は、黙すべきで、我々は、神からの啓示に付き従う確固たる心でこの秘議に近づくのである。皆さんもご承知の金口聖ヨハネは聖体に秘議について、崇高な表現と信心深い認識を持って答えた人であるが、ある時、信者達にこの事を教えて、適切にも次のように言った。
『いつでも神に従順に従い、逆らうのはやめましょう。たとい神の言いたもう事が我々の理性と知性に反すると見えても。むしろ、神の御言葉が、我々の理性に優先すべきです。そこで「聖体の」秘議に関しても、ただ感覚に感じ取られるものだけを見つめるのではなく、御言葉に沿うように行動しましょう。神の御言葉は、間違う事はないのです』
・・・キリストの弟子のうちの幾人もが、キリストの肉を食べ、その血を飲む話を聞いたとき、『この話は、わかりにくい。誰がこれを聞き得よう』と言って主を捨てて去っていったと述べるところで、聖福音は、すでに同じ点に触れている。12人も去って行きたいのかとのイエズスの問いかけに答えて、ペトロは即座に確固たる態度をもって、『私どもは、どこに行きましょう?あなたこそ永遠の言葉をお持ちです』と言って、自分と他の使徒達の信仰を言い表したのであった。
(ヨハネ6の61〜69)
そこでこの秘議を探求するにあたって、我々が教会の教導職を星のように仰いで、これにつき従うのは理の当然である。神なる贖い主は、書き記され、あるいは伝承された神の御言葉をこの教導職に託して守らせ、言い表せ、我々は『例え理性でいかようにも探知できなくても言葉でどうにも説明が出来なくても、真のカトリック信仰を持っていにしえより述べ伝えられ、信じられて全教会に行き渡っている事柄を真実である』と確信するのである。
パウロ6世回勅『ミステリウム・フィデイ』より
わが主は、御聖体の秘跡の中に身を隠し、私達が訪問し、お願いするのを待っていらっしゃいます。どんなに寛仁にて在すかご覧なさい。今、主が天国の栄光に包まれて現れ給うならば、私達は、敢えて近づくことが出来なかったでしょう。しかし、牢獄に居る人のように、主は、身を隠されて私達に申されます。『あなたには、私が見えない。だが、それは何でもない。望むものは何でも願いなさい。私は、与えましょう』と。主は、この愛の秘跡の中に在して、罪人のために絶えず聖父に嘆願し、取り次いで下さいます。私達の中に留まるために、主は、どれほどの冒涜にさらされておられるでしょう。主は、私達を慰めるために御聖体の秘跡の中に在し給うのです。ですから私達もたびたび御聖体訪問をしなければなりません。仕事の合間を見て、あるいは、何か無駄な事をやめて、一寸の時間でも、御聖体の御もとに行ってお祈りし、訪問し、主が受け給う一切の侮辱をお慰めするならば、主は、どんなに喜ばれるでしょう。いそいそとやってくる清い霊魂を御覧になると主は、にっこりと微笑されます。聖ヴィアンネー
ジャンニーニ家の食堂の壁には、等身大に近いキリストの像が付いた十字架がかかっていた。聖ジェンマは、それに非常な敬意を表し、昼間、同情にこもった愛をもってたびたび訪問していた。するとたびたび行われてきたことであるが、この御像の脇腹に熱い口づけをしたいという熱望に駆られた彼女は、そこまで背が届かない事を悩んでいると、旋風に吹き上げられた藁くずのように、急に床から、上げられ、御像を腕で抱き、御脇腹に唇をあてることが出来た。1901年9月のある日、食事の支度をしながら御像を眺めていると、ついに耐えられなくなって叫んだ『イエズス様、御身にまで私を上げてください。また御血を頂きたいのです』 なんと不思議なことに、アッシジの聖フランシスコや御受難会の十字架の聖パウロの場合のように、御像は、イエズス御自身に変化したのである。イエズスは、十字架から右の手を離し、愛に満ちた御まなざしで、この忠実な浄配をご自分の方に招き、イエズスは、ジェンマを抱かれた。聖女は、御脇腹の御傷に口を当て、腕で御体を抱きしめながら、思いのままに神聖な泉より御血を飲んだのである。その体は、雲を踏むように宙に浮いていた。
御聖体は、聖ジェルトルジスにとって、信心の中心であった。御聖体拝領の準備として前晩から思い、望み、言葉、行いをよく糾明してこれを清め、拝領後の感謝としては、一日の勤めや仕事を神に捧げた。ある日、彼女が、舌の抑制について黙想していると、『無駄話や虚言、わいせつな話などの罪を犯していながら、聖体を拝領する者は、丁度、高貴なお客が門を入ろうとするとき、石を投げたり、その頭を殴ったりして迎える者に似ている』と言う、神の啓示を受けた。
福者イメルダ・ランベルティーニは、9才でドミニコ会女子修道院にあずけられた。イメルダは、毎日御ミサに与っていました。13才の頃、自分も御聖体を望みましたが、まだ許可されませんでした。丁度、主の昇天の祝日の前日、イメルダは、心の底から御聖体を望みましたが、この時も許可して貰えませんでした。御ミサの後、イメルダは、御聖体を熱望するあまり、聖堂に残り祈っていました。すると、突然輝く光に包まれた御聖体が、聖櫃から飛び出してきて、聖堂内を照らしました。人々が驚いていると、神父様がこの御聖体を取って、イメルダに拝領させました。イメルダは、そのまま愛の脱魂のうちに息絶え、天国に飛んでいきました。1333年5月12日のことでした。その後、数多くの奇跡が起き、およそ500年後に列福され、1908年には、教皇聖ピオ10世により、この少女は、『初聖体の子供達の保護者』に定められました。
私の希望は、全て御聖体の秘跡に根ざしています。私の希望は、全部その内にあります。御聖体の秘跡こそ、私の全てを支えてるもので、病気や意気消沈のためにベッドから出られないときも、御ミサを捧げたいと言う熱意と望みがあれば、新しい活力が出てきます。聖体の秘跡とは、なんと素晴らしい宝なのでしょう。地上の楽園です。何という愛の印でしょう。十字架の聖パウロ
生涯あれほど御聖体の聖主を礼拝し、賛美し、償いを捧げる事に最上の喜びを見出していた聖女ユリアナの臨終の時が来た。しかし、彼女は、この世の最後に、ついに御聖体を拝領せずに永遠に旅立たねばならないのだろうか? それは、彼女にとってあまりにも残酷のことではないだろうか? でもユリアナは、激しい嘔吐のために御聖体拝領が出来な事を知った時、静かに御聖体をチボリウムで運び自分のそばに安置して貰えないかと頼んだ。そしてその願いは聞きとげられた。その後、ユリアナは、御聖体のキリストと拝領によって一致できないのなら、せめて接吻させて貰えないだろうかと頼んでみたが、その願いは許されなかった。その代わりに、ユリアナの気持ちを気の毒に思い、同情した神父は、聖女の胸の上に白布を掛け、その上に御聖体を安置した。その時、不思議なことが起こった。胸の上に乗せられた御聖体がそのまま消えてしまったのである。そしてユリアナは、満面の喜びをたたえたまま息を引き取った。それは、本当に感激の瞬間であった。目撃者は、誰でも御聖体のキリストの優しさを目の当たりにして、胸を打たれずに居られなかった。ユリアナの死後、遺体を洗おうとすると、胸にくっきりと丸い御聖体の形が現れ、十字架の印まで明らかであった。
聖体拝領の前の晩には、私は、自分が深い静寂の中に深く沈むのを感じました。私は、聖体の拝領という自分が行うべき行為の偉大さのために努力しなければ、話すことも出来ませんでした。そして、私が、御聖体拝領をしました時は、飲むことも、食べることも、見ることも、話すことも望まないほど、私は感じた慰めと平和は、大きかったのです。その他、それほど強く、愛のために愛をお返しする事を求められた私の至高の善であるお方を愛することを悟るために、出来るだけ人目を避けました。聖マルガリタ・マリア
ある女性が、ホスチアを焼いて、聖グレゴリウスに納めていた。ある時、聖グレゴリウスは、ミサをたて、彼女に御聖体を授けながら、『願わくは、我らの主イエズス・キリストの御体があなたを助け、永遠の生命に導きますように』と唱えた。すると彼女は、笑い出したので、聖グレゴリウスは、彼女に御聖体を差しだした手を引っ込めて、ホスチアを祭壇においた。そして、なぜ笑ったのか、皆の前で彼女に尋ねた。彼女は、『私がこの手で焼いたパンをあなたがキリストの御体などと言われるからです』と答えた。そこで聖グレゴリウスは、ひざまずいて、この女性の不信仰のために神に祈った。ところが、聖人が立ち上がるとパンの一切れが肉に変わり一本の指になっていた。それを見て彼女は、信仰に目覚めた。聖グレゴリウスがもう一度祈るとその肉は、またパンに戻った。彼をそれを彼女に授けた。
祭壇に上がる前に司祭は自分の過ちを認める事によって、自らを清めなければならないのですが、信徒も同じようにしなければなりません。奉献の儀式が進むその度に司祭は、-自分とそこに参加して居る人々、そして生け贄が捧げられている全ての人のために- 罪の許しを更めて懇願しなければなりません。奉献そのものが贖罪の生け贄であって、その賜によって信徒を変容し、彼らに天を開いて、神に嘉せられる感謝を捧げるのに相応しいものとするのです。私達が、聖なる人々の交わりに、受け入れられるために必要な全てのものは、「天に在す」の祈りの七つの願いの中に集約されています。この祈りは、主がご自分の御名によって唱えられたものではなく、私達にこう祈るようにと教えられた祈りなのです。私達が聖体拝領の前に真剣に心底からこれを祈るのなら、また、相応しい心構えを持って、御聖体を頂くなら、聖体拝領によって私達の祈りは全て聞き入れられるのです。また私達を罪から清めて、悪から解放し、心の平和をもたらして、一切の悪の刺し針を取り除くのです。犯した過ちを許し、誘惑に陥らないように強めてくれるのです。聖体拝領は、私達が、永遠の生命に成長するために日々必要としている命のパンなのです。これによって、私達の意思は、神のご意志を行うための素直な道具とされるのです。これら全てによって、私達のうちに神の国が築かれ、神の聖なる御名を讃える為に唇と心が清められます。聖エディト・シュタイン
信用できる数人の人々が私(福者ライモンド)に断定した所によると、彼らは、シエナの聖カタリナが御聖体を拝領した御ミサに与ったとき、聖いホスチアが、司祭の手から離れて、口の中に飛んでいくのを見たというのである。私も彼女の口に御聖体を近づけるとき、ホスチアが震えているのをいつも感じていた。ホスチアは、遠くから力まかせに投げた小石のように彼女の口に入っていったのである。聖書学の教授で現在(当時)ローマ管区の管区長であるバルトロメオ神父も聖カタリナに御聖体を授けるとき、聖いホスチアが指を離れて、彼女の口に飛び込むのを感じた。と話してくれた。
『これは、私の体である』と、仰せになった主は、パンの外観のもとにお隠れになり、御自分を犠牲として捧げられた。そして今、そこに御体と御血、御霊魂、御神性をともなっておいでになる。トマが栄光に輝く御傷に指を差し入れた時と同じ主である。それにもかかわらず、あなたは、あまりにもしばしば素通りし、簡単な儀礼上の挨拶さえしない。通りすがりにたまたま知り合いに出会えば必ず挨拶するのに。あなたの信仰は、トマよりも薄い。福者ホセマリア・エスクリバー
御聖体を拝領してきた時に、誰かが『何を家に持って帰るのですか?』と尋ねるとすれば、『天国持って帰るのです』と答えることが出来ましょう。ある聖人は、私どもは、『神様入れ(生きた聖櫃)』だと言っていました。これは本当です。ですが、私どもには、十分な信仰がありません。聖体拝領後の深い潜心の中で、しっかりと」わが主をつかまえているならば、長い間あの全てを焼き尽くすような愛を感じるでしょう。そして、この火は、皆に善への愛好心と悪に対する嫌悪とを吹き込んで下さるでしょう。わが主を拝領した時、霊魂が清められるのを感じます。そして神様の愛の中に浸っていくのを感じます。聖体拝領をした時、何か異常なものを感じます。体中を駆け回る何かを、爪の先まで広がっていく満足を感じます。聖ヨハネのように『主だ』と言わざるを得なくなります。まったく何も感じない者は、実に可愛そうです。聖ヴィアンネー
あなたは、大変な冷淡な心で聖体拝領を繰り返していた。ほとんど主に注意を払わず、つまらないことにもすぐ気を散らしていたのである。しかし、神との親しい語り合いのうちに、天使達がそこに居てくれると考えるようになってからは、態度が変わった。『天使達がこんな私を見なくても良いように!』と自分に言い聞かせているからだ。『なんと言われるだろう?』と言う思いのおかげで、今回はそれが善い事の役に立ったわけだが、あなたは(愛)の方へわずかながら前進する事が出来たのである。福者ホセマリア・エスクリバー
ある朝、聖ヨハネ・ノイマンが御ミサの時、ホスチアを割くと血がホスチアから流れ出たという。
聖ヨゼフ・カラサンスがローマの大聖堂に訪れた時、多くの人々が、悪魔に憑かれた人を無理に大聖堂内へ入れようとしているのを見かけた。人々は、いくら努力しても悪魔憑きのものすごい力に負けて、その人を聖堂内に入れることが出来なかった。そこで聖ヨゼフは、近づいて、右手の親指と人差し指で、その悪魔憑きの人をとらえて、大聖堂内に連れて行った。そして周囲の人々に向かって、『ミサ聖祭の時、御聖体に触れることが出来るこの二本の指の力をあなた方は、知りませんか』と簡単に述べたのであった。
ある修道女がある日、御聖体の御前に出ると、主は、茨で囲まれた炎の玉座の上に十字架のある聖心を見せて『見よ、これ程に人々を愛し、何一つ惜しましまず、愛を示すためにまったく使い尽くしたこの心を。それなのにこの愛の秘跡において、大部分の者から不敬、冒涜、冷淡などの忘恩しか受けない。そして最も辛く感じるのは、私に奉献された人々のこのような態度である』と言われた。そして主は、聖体の祝日の一週間後の金曜日を特に聖心の誉れのために捧げ、主を愛する人々が、尊敬と愛情を持って、主が聖体の中で受けておられる軽蔑を償うように求め、このように、主の誉れを帰する人々に豊かな恵みを約束された。この事から主がかつて、預言者をによって、『私の楽しみは、人々の間にあることである』と言われたことが理解できる。実際、主は、見捨てられ軽蔑されても人々から離れることはない。またこのことから、たびたび御聖体を訪問し、主と共に留まる人をイエズスの聖心がどれほど喜んで迎えられるかが分かる。敬虔な人々は、皆度々御聖体を訪問し、そこで受けた賜物、光、炎、秘跡におられる神の現存によって、味わった天国について、語っている。聖アルフォンソ・リゴリオ
当時(今から約250年前)聖体拝領には、一定の年齢が定められれており、少なくとも、10歳か11才にならなければならなかった。だが、聖ジェラルド・マイエラは、まだやっと8才になったばかりであった。それまで、後2年は、待たなければならないのだろうか? 御ミサの時、我慢できなくなったジェラルドは、人々に混じって、聖体拝領台まで出ていった。司祭がジェラルドの所まで来ると、『ダメです。君は、まだ若すぎます』と言うと通り過ぎてしまった。聖体拝領は、子供の遊びではない。だがこの拒絶は、ジェラルドの心には痛すぎ、悲しすぎた。例え教会法の規定がそうであってもジェラルドのこのひたむきな愛と悲しみを前にして、イエズスもあと2年待つことが出来なかった。その夜、小さな寝床に入っても、ジェラルドはまだ、熱い涙を流していた、すると急に彼の貧しい小さな部屋が光でいっぱいになり、聖ミカエルが現れた。ジェラルドにはそれが、自分の大好きな天使の聖ミカエルに違いないことが本能的に分かった。大天使聖ミカエルは、そこに生きた姿で現れ、ジェラルドに聖櫃のあの聖別されたパンを差し出したのである、何といううれしさ。大喜びで、起きあがった、ジェラルドは、唇と心を開いた。この不思議な初聖体には、ただ天使達が驚き妬みながらあずかっていた。ジェラルドは、ただ幸福に浸りきっていた。
牢獄では、敵から辱められ虐待されたが、聖櫃の中では、私を父と呼ぶ者達から、子供らしくない態度でしばしばそう言う取り扱いを受ける。牢獄の中では、寒さと飢え渇きを忍び、痛み、苦しみの中で、ただ一人置き去りにされた。その時私は、幾世紀もの間、私の隠れ家として不足だらけの聖櫃や冷たく凍った心に苦しむことを思った。その心の多くは、傷つき凍えている私の体にとって、牢獄の堅く冷たい石のようである。
何度、私は霊魂の愛に飢えるだろうか? 私を訪れ、私を受ける者を何日、待たねばならない事であろうか? けれど仕事に追われたり、無関心になったり、健康を気にして来なくなる。また人々の忠節、寛大な心に飢えているのに、この聖なる飢えをどれだけ満たしてくれるだろうか? 小さな克己や僅かな制欲で満足させる事が出来るのに。私の苦しみに優しく同情はしてくれない。自然的に見て難しいと思うとき、『御身のお悲しみを和らげ、孤独をお慰めするためにこれを捧げましょう』と、言ってはくれないものだろうか? この時、私に心を合わせれば、心穏やかに、その困難に打つ勝つことが出来、どんなにこの聖心を喜ばせることが出来るか分からない。
牢獄では、聞くも辛い淫らな事を周りから聞かされたが、いつか私の愛する者の唇からそのような言葉を聞く事を思って聖心は、さらにかき乱された。兵士の手が私の肉体をむち打ったとき、罪に汚れた心が悔いることなく、私を聖体のうちに受けて打ち叩き、習慣的となった罪によって、私を殴り続けることを思った。
私の前には、忘恩の鎖をもって、私を引きずり回し、新たな辱めを与え、私を置き去りにしていく人々の姿が浮かんだ。ああ、選ばれた者達、顧みられないいくつかの聖櫃、冷ややかな霊魂の中でさらに繰り返されるその苦痛を顧みて欲しい。同情の印を与えたいと思わないのか? お前達の心を開いて、それを私の牢獄としてくれないか? お前達の愛の鎖で私を繋ぎ、細やかな心遣いで私を暖め、物惜しみしない心で、私の飢えを癒し、救霊の熱い望みで、私の渇きを潤し、忠実な伴侶となって、悲嘆にくれて置き去りにされた私を慰めておくれ。この聖心をかき乱す不浄を潔白と清い意向でぬぐい去っておくれ。
もし、私を憩わせてくれるつもりならば、情欲を沈めて、沈黙してくれれば私は安らかに眠ろう。また優しく囁く愛の声を聞くことも出来る。『選んだ浄配よ。私のために犠牲を捧げた事は、何一つ、悔いることはあるまい。愛深い心遣いで、おまえの心の牢獄に私を守ってくれたお礼として、私が限りない報いとなろう。お前は私を休ませてくれた。私は永遠にお前を憩わせてあげよう』by最愛のイエズス
参考及び引用文献:回勅『ミステリウム・フィデイ』、教書イネスティマビレ・ドヌム、愛の逃亡者、聖体訪問、幼きイエズスの聖テレーズの手紙、聖ピオ10世の公教要理詳解、聖ヨゼフ・カラサンスの生涯etc・・・。
【聖体】 教会生命の源 教皇ヨハネ・パウロU世の教え
1.司祭的共同体としての教会の真理は、秘跡を通して実現され、聖体において完成されると第二バチカン公会議は教えています。信者は、『キリスト教生活全体の泉であり、頂点である聖体の犠牲に参加して、神的生け贄を神に捧げその生け贄と共に自分自身をも捧げる』(教会憲章11番)
聖体は、キリスト教生活の泉です。聖体にあずかる事によって、真のキリスト信者として生きる動機と力を授かります。十字架上のキリストの犠牲(生け贄)が、信者にキリストの寛大な愛の力を注ぎ込みます。聖体祭儀は、私達の為に犠牲となられた神の子羊の聖体と御血で信者を養い、『その足跡を踏む』力を与えるのです。(Tペトロ2.21)
聖体はキリスト教生活全体の頂点でもあります。信者は、祈り、仕事、喜び、苦しみの全てを聖体に委ねます。このようなささやかな供え物がキリストの完全な犠牲(生け贄)と一つになり、神と親しい交わりにつながる完全な礼拝を通して余すところなく、聖別され、神に捧げられます。(ヨハネ6.56〜57参照)聖トマス・アクイナスが言うように聖体は、『霊的生活の中心であり、全ての秘跡が目指す目的』(神学大全Vq,66,a,6)なのです。
2.『天使的博士』アクイナスは、次のようにも述べています。『この秘跡の効果は、神秘体(教会)を一つにすることである。それがなければ救いがない。救われるためには、少なくとも聖体にあずかる望みを持たねばならない』(神学大全Vq,73,a,1,arg,2)これは、キリスト教生活には、不可欠であると言われたイエズスの言葉と一致します。『まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなた達の中には命がない。私の肉を食べ、血を飲む人は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は、復活させる』(ヨハネ6.53〜54)
イエズスがお示しになったように聖体は、来たるべき復活の印なのですが、すでに今から、それは、永遠の生命の源なのです。『永遠の命を有するだろう』とは言わず、『有している』と言われた通りです。聖体と言う食物を通してすでにキリストの永遠の生命が人間の生命に浸透し流れ込んでいるのです。
3.聖体は、各構成員が参加すべきものです。『生け贄の奉献においても聖体拝領においても、無差別にではなく、それぞれ固有な方法で、典礼行為の中で自分自身の役割を果たす』(教会憲章11番)と言う事です。参加すると言う事は、全ての『司祭的民』に共通の義務です。誰もが、生け贄の奉献と聖体に結ばれることが出来ます。しかし具体的な参加の仕方と言う点になると、教会の構成員の一人一人に、固有の役割があります。職位的司祭の役務は別ですが、それによって、共通司祭職が排除されるのではなく、逆に促進されます。それは、キリストがその記念として、聖体を祝うことを弟子達に委ねたときに計画された、特別な役務でした。その為にキリストは、叙階の秘跡を制定し、司教と司祭に(また祭壇の奉仕者としての助祭にも)権能を与えられたのです。(教会憲章11番)
4.職位的司祭職の目的は、神の民を集めることです。その結果『この民に属する全ての人が聖霊によって聖化され、「神に喜ばれる生きた聖なる供え物」(ローマ12.1)として自分を捧げる者』(司祭の役務と生活に関する教令2番)となるのです。前回述べたように共通司祭職が、霊的供え物を捧げることを目的とし、信者がそれを捧げることが出来るのは、信者が聖霊によって聖化されているからです。キリストの十字架の犠牲に生命を与えたもう聖霊(ヘブライ9.14)は、信者の供え物にも生命を与えてくださいます。
5.霊的供え物は、司祭の役割を通して、実現可能となります。『信者の霊的供え物は、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストの供え物との一致のうちに完成するものであり、このキリストの供え物は、主御自身が来るときまで、司祭達の手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく、秘跡的に捧げられる』(司祭の役務と生活に関する教令、2番)
前回述べたとおり、洗礼と堅信によって、キリスト信者は神への礼拝に『いわば職務により』参与する資格を得ています。その礼拝の中心、頂点は聖体に現存されるキリストの生け贄です。しかし聖体の奉献は、叙階された司祭を通して行われます。すなわちキリストの名において司祭の行う聖別によって、奉献が実現するのです。
このような司祭の役務のお陰で、普遍的司祭職が完成されます。これについて公会議は、聖アウグスティヌスの言葉を引用して次のように述べています。司祭の役務は、『贖われた都の全体、すなわち聖者等の集会または社会が普遍的な供え物として、我々を偉大な頭の体とするよう、受難において、我々のために自分の捧げた大司祭によって、神に捧げられること(神の国PL41,284)を目指している。』(司祭の役務と生活に関する教令、2番)
6.生け贄の奉献に続く聖体拝領は、『司祭職』を十分に発展させる為、とりわけ毎日の生活を通して、全てを供え物とするために必要な霊的力を信者に与えます。『司祭は、・・・信者達がミサの供え物において、父である神に神的供え物を奉献するよう、またこれと共に自分たちの生命の奉献をするように教える』(司祭の役務と生活に関する教令、5番)
聖体拝領は、イエズスが最後の晩餐でお命じになった新しい愛の掟の実行をも可能にします。『私があなた達を愛したように、あなた達も互いに愛し合え』(ヨハネ13.14、15.12)
7.聖体祭儀に与ることは、この一致を証言する事です。公会議は次のように教えています。『聖体の集会においてキリストの体によって養われた信者は、この最も神聖なる秘跡が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的な方法で現す』(教会憲章11番)
これは、教会の信仰が聖パウロから受け継いだ真理です。『私達が祝する祝聖の杯は、キリストの御血にあずかることではないか。私達が割くパンはキリストの体にあずかることではないか。パンは一つであるから、私達は多数であっても一体である』(Tコリント10.16〜17)と言うわけで、聖トマス・アクイナスは聖体を『神秘体の』一致(V,q.72,a.3)の秘跡と理解したのです。そこで教会と聖体の関するカテケージスの締めくくりとして強調したいと思います。聖体が一致の印であれば、それは必ず信者に、家庭内で、また教会でのより良い理解を保つために必要な相互の愛と和解、秘跡の力を与えるはずである、と。(92.2.8)
主憐れみ給え | ▲キリスト憐れみ給え |
主憐れみ給え | |
キリスト我らの祈りを聴き給え | ▲キリスト我らの祈りを聴き容れ給え |
天主なる御父 | ▲我らを憐れみ給え |
天主にして世の贖い主なる御子 | ▲我らを憐れみ給え |
天主なる聖霊 | ▲我らを憐れみ給え |
唯一の天主なる聖三位 | ▲我らを憐れみ給え |
永遠の御父の御独り子なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
人となり給えたる天主の御言葉なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
新たにして永遠なる契約のキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
ご心痛のうちに地に滴り落ちたるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
鞭打ちによりて多量に流されたるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
茨の冠によりて流されたるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
十字架の上にて溢れいでたるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
我らの救霊の代価なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
罪の赦しの条件なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
聖体の秘跡において心の糧にしてみそぎなるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
憐れみの奔流なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
悪魔に打ち勝ち給えるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
殉教者の勇気なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
証聖者の力なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
童貞者を育むキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
滅びゆかんとする者の救いなるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
重荷を負える者の支えなるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
悲しむ者の慰めなるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
悔い改むる者のキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
死に臨める者の助けなるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
心の平和と柔和との源なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
永遠の生命の保証なるキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
煉獄より霊魂を解放するキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
全ての栄えと誉れとにいともふさわしきキリストの御血 | ▲我らを救い給え |
世の罪を除き給う天主の子羊 | ▲主、我らを赦し給え |
世の罪を除き給う天主の子羊 | ▲主、我らの祈りを聴き容れ給え |
世の罪を除き給う天主の子羊 | ▲主、我らを憐れみ給え |
主よ御身は貴き御血によりて我らを罪より贖い給い | ▲我らをもって主の王国をつくり給えり |
祈願 ◇ 全能永遠なる天主、主は、御独り子を世の贖い主となし、その御血を我らの罪の代償と定め給いたれば、我らをして、救霊の代価なる御血をふさわしき心もて礼拝し御血の御力によりてこの世においては、もろもろの悪より逃れしめ、天においては、御血の永遠の実りにあずかるを得しめ給わんことを我らの主キリストによりて願い奉る。アーメン。
Imprimater : die 14 Auguesti,1961
† Joannes S.Ito Vicarius Generalis Yokohama
※御聖体訪問の時、御ミサ後の感謝の祈りの時、あるいは、ご家庭でのお祈りの時間にご利用下さい。
裏切り者の悪魔は、すっかりイエズス様のものになりたいと望んでいる霊魂には、罪を犯させることが出来ないのをよく知っているので、せめて、その霊魂に『私は、罪を犯した』と信じ込ませようと懸命になるのです。この霊魂に不安を起こさせるだけでも、悪魔にとっては、すでにたいしたことがないのですが、彼の激しい怒りが静まるには、まだこれだけでは足りません。彼は、イエズス様をその愛したもう聖櫃(御聖体を受ける人の事)に入れまいとするのです。自分がこの聖所に入ることが出来ないので、せめて、これをあるじのない空っぽのものにしておきたかったのです。
ある霊魂を聖体拝領から遠ざけることに成功すれば、それは、悪魔にとって大勝利です。そしてイエズス様はお泣きになるのです! ですから、イエズス様がわざわざあなたの為に、(教会の)ご聖櫃の中にいらっしゃり、あなたのお心に入りたいと熱く望んでいらっしゃることをお考えなさい。悪魔に耳を貸してはなりません。かえって嘲っておやりなさい。そして心配せずに、平和と愛のイエズス様をお受けにいらっしゃい!
あなたに断言します。私は、御聖体を拝領する事こそ悪魔を追い払う唯一の方法だと言う事を認めたのです。何故なら、悪魔は、時間を無駄にするばかりだと分かるともうあなたには、かまわないに違いありませんから! いいえ、いいえ『聖櫃を眺めることが唯一のいこいであるような』心が御聖体をお迎えできなくなるほど、イエズス様にお背き出来ようはずがありません。イエズス様に背きその聖心を傷つけるもの、それは信頼の不足です。
あなたのお心は、イエズス様をお愛しするために、しかも熱烈にお愛しするために造られているのです。あなたの御生涯の最良の日々をとんでもない恐れの中に過ごしてしまうことがないよう、よくお祈りなさってね。私達が、イエズス様をお愛しするためには、このつかの間の人生しかありません。悪魔は、これをよく知っているので、これをつまらないことで、浪費させようとやっきになっているのです。
たびたび、そう、本当にたびたび御聖体を拝領して下さい! 癒されたいとお思いなら、そのお薬は、これしかありません。イエズス様は、あの惹きつける力をただ無駄にあなたのお心に入れたのではありません。・・・マリア様をあまりお愛ししすぎはしないかと心配なさっては、なりません。あなたは、マリア様を愛しすぎるほど、愛することは、決してお出来にならないでしょうし、イエズス様もマリア様は、ご自分のお母様ですから、とても喜んで下さるに違いありません。
※ここでテレーズが話している相手は、小心に苦しむ者に対してです。大罪を犯していないのに、些細な事に自分は罪を犯したのでは?と言う悪魔の誘惑に苦しみ、それ故に御聖体拝領から離れてしまってる人に対して、それは、誤った考えであるからイエズス様に信頼して御聖体を受けなさいと励ましているのであって、本当に大罪を犯してしまった人は、必ず許しの秘跡を受けてから御子を受けて下さい。
キリストに倣う(W10.1〜7)
1.邪欲と悪行を癒され、悪魔の誘いとワナとに対して、よく警戒し、一層強くなろうと思うのなら、しばしば、神の御憐れみの泉、いつくしみと清さの泉に近づかなければならない。敵は、聖体がどれほどの効果があるかを知っているので、あらゆる方法と機会をとらえて、敬虔な信仰者を出来るだけ聖体から遠ざけよう妨げようと努めている。
2.そこで、信仰者は、聖体拝領の準備をしようとする丁度その時、サタンの悪い誘いに悩まされることがある。ヨブの書(1.6,2.1)に記されているように、悪霊は、例の通り悪意を持って、神の子らを動揺させ、恐れさせ、ためらわせる。聖体拝領をまったく止めさせるか、少なくとも冷淡にならせようとして人の心にもぐり込み、神への愛を奪い、突然襲撃して信仰を奪い取る。しかしその悪巧みや淫らな暗示が、けがわらし恐ろしくても、それを重視せず、むしろその考えを相手に投げ返さなければならない。浅ましいその霊は、軽蔑と無視と嘲弄を受けるべきものである。私達を攻撃し、動揺させようとしてもその為に聖体拝領を止めてはならない。
3.時にはまた、十分な敬虔を持ちたいと思って心配しすぎたり、告解(赦しの秘跡)に不安を抱いたりして、聖体拝領をためらうこともある。この時は、知識のある人々の意見に従い、神の恵みを妨げ、霊魂の信心をこぼちさる不安と小心とを取り去らねばならない。ちょっとした不安や煩いがあっても、聖体拝領を止めることなく、出来るだけ早く告解しよう。他人から受けた過失を心から赦し、もしあなたが、誰か他の人に、過失を犯したのなら、謙遜な心を持って、赦しを願いなさい。そうすれば神は、すぐ許してくださる。
4.告解や聖体拝領を後に延期して何の役に立つだろう。出来るだけ早く、自分の心を清めよ。すぐさま毒を吐き出せ。薬を早く飲め。そうすれば、すっと爽快になるであろう。もし今日何か理由があって、聖体拝領をやめるのなら、明日は、もっと重大な理由が起こるかも知れない。こうしてあなたは、長く聖体を拝領しないことになり、聖体拝領のために、一層ふさわしくなくなる。出来るだけ早く、心を重苦しくしているものを下し、不熱心をぬぐい去れ。長く不安のうちにおり、心配な生活をし、日々のあれこれの妨げのために聖体拝領を長くしないでいると、大きな損害を受け、危険な冷淡さを必ず生むに違いない。残念なことであるが、信心の生ぬるい、心の散漫な人は、機会を見つけては、告解をのばし、聖体拝領を怠り、自分を警戒する義務を逃れようとする。
5.ああ、聖体拝領を平気で怠る人は、何と乏しい信仰と弱い愛しか持ち合わせていないことだろう。許されるのなら、毎日でも聖体拝領できるほど、清く良心を守って生活する人は、何と幸せで、神に喜ばれることであろう。時として、謙遜のために、また何か正当な理由があって、聖体を控えることがあれば、その聖体への念は褒められて良い。しかし、控える場合にも、そこにいくらかでも冷淡があるのなら、出来るだけ熱心を奮い起こすようにしなければならない。そうすれば主は、その良い望みを見て、助けてくれるだろう。
6.正当な理由がある場合にも、せめて聖体を受けたいという熱心な望みと、敬虔な意向を、持たねばならない。そうすれば、秘跡の効果を失うことはない。どんな信者でも、毎日、いつでも、なんの困難もなく、霊的に聖体を拝領して、多くの利益を得ることが出来る。定めの日には、愛と尊敬とを持って、秘跡にこもる救い主の御体を受けるが良い。その時は、自分個人の慰めよりも、神の誉れと栄光とのためにせねばならない。信者は、キリストに対する愛を奮い起こすたびに、神秘的なこの宴にあずかり、目に見えない糧を受ける。
7.しかし、祝日だけに、あるいは、習慣のためだけに、聖体に近よる人には、適当な準備のない場合がよくある。御ミサをたて、あるいは、聖体拝領をするたびに、自分を生け贄として主に捧げる者は、幸せである。
「これから、私達は、聖母を『御聖体の御母』とお呼びしよう!そして主の最初の礼拝者であった聖母の御助けを願おう。聖エイマール(御聖体の聖人)」 教皇聖ピオ10世は、この呼名を正式に認可し、これについて多くの免償を作られた。
霊的聖体拝領
聖体訪問のたびに、霊的聖体拝領をするとよいので、霊的聖体拝領とは何か? どんな効果があるのかを説明しておこう。これは聖体拝領をしたいと言う熱い望みを持ち、実際に拝領したかのように、愛を込めて主を抱擁する事である。
主は、ある修道女に、金と銀の器を見せて、金の方には、聖体拝領を。銀の方には、霊的聖体拝領を入れておくと仰せられ、主が霊的聖体拝領をどれほど尊重し、それによって、いかに多くのお恵みをお与えになるかを悟らせてくださった。
また主は、別の修道女に、霊的聖体拝領をする度に、実際に聖体拝領をしたと同じ恵みを受けられると仰せになった。何よりもトレント公会議が霊的聖体拝領を讃えて、信者に実行するように推奨していることで十分であろう。
それゆえ敬虔な人々は、皆この霊的聖体拝領をたびたび行っている。ある福者は、多数行い、ある神父は、『良い聖体拝領の一番良い準備は、霊的聖体拝領である』と言っている。そこでイエズス・キリストへの愛に進歩したいと望む者は、少なくとも、ミサの時と聖体訪問のたびに、一回霊的聖体拝領すると良いのだが、始めと真ん中と終わりの三回すればなお良い。この信心は、考えるよりずっと有益で、そしてたやすい。一日に多数回行った,
上述の福者は、霊的聖体拝領は誰からも見られず、断食の必要もなく、指導司祭の許可もいらず、いつでもしたい時に出来、愛の行為をすればそれで良いのだと言っていた。
霊的聖体拝領の祈り
(その1)御聖体に居られる主を信じ、愛し、拝領したいと望みます。私の心に来て下さい。主を抱擁いたしますから、もう離れないでください。主イエズス・キリスト、私の心をあなたの愛で、焼き尽くしてください。主は、私への愛によって、死んでくださいましたから、私も主への愛によって、死なせてください。愛されていない愛。知られていない愛。私の希望、いつ、私を御許に引き寄せてくださるのでしょうか? イエズス、私の宝、私の甘美な愛、いつまでも主によって燃えるように、私の心を傷つけ、燃やしてください。私達の生命、全てであるイエズスの愛、万歳! 私達に希望であるマリア、万歳!アーメン。
(その2)イエズス・キリスト、我は主が、至聖なる聖体の秘跡のうちに在す事を堅く信じ、万事に越えて主を愛し、主を受け奉らん事を望む。されど今聖体を拝領することあたわざれば霊的に我が心に降り給え。---主よ、われ主を受け奉りし如く、主によりすがりて、我が身を全く主に一致せしめ奉る。願わくは、主を離なるるを許さず、悪魔のワナより救い給え。我が心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御為に燃ゆるを得しめ給え。アーメン
(その3)イエズスよ、主が御聖体の中におられることを信じ、全てに越えて、あなたを愛し、私の心にお迎えしたいと望んでいます。今聖体を拝領することが出来ないので、せめて霊的に拝領させて下さい。実際に拝領したように、主を抱擁し、全くあなたと一致します。あなたから、離れることが決してありませんように。
(その4)救世主イエズス・キリスト、主は、聖体をもつてかたじけなくも霊魂の糧となり給い、『我が肉を食し、我が血を飲む人は、我にとどまり我もまたこれにとどまる』とのたまえり。我は今、この幸いを得ざれども、願わくは、我が望みをみそなわし、聖寵をたれて、我が心に来たり給え。貴き聖体の御功徳によりて、信仰を強め、望徳を増し、愛熱を燃やし、もっぱら主の御為に生きながらえて、力を尽くすことを得しめ給え。
聖体訪問
友達と共にいるのは、誰にとっても楽しいことだが、この涙の谷で、友の中で最も優れた友、私達の為に何でも出来、私達を熱く愛して、いつまでもとどまっている友と共にいるのは、何にもまして、何と楽しいことだろう。御聖体において、私達は望みのままにイエズスと語り、心を打ち明け、必要を申し上げ、恵みを願うことが出来、天の王と親しく遠慮なく相談することが出来る。
『共に穴に入り、鎖を付けられた彼を見捨てなかった』(知恵の書10.13、14)とあるように牢獄にいるヨゼフを慰めるために神が恵みをもって降られた時、彼は、この上なく幸福だった。だが惨めなこの世で、私達に対する愛情と同情に満ちて、日夜実際に、私達と共に居られる人となられた神を持っているのは、それ以上の幸福である。哀れな囚人にとって、共に語り慰め、希望を与え、その惨めさを和らげようと思ってくれる情愛深い友人があると言う事は、どれほど慰めになることであろう? 聖体に居られるいつくしみ深いイエズスは、『私は世の終わりまで、いつもあなた達と共にいる』(マタイ28.20)と言って私達を元気付けられる。
『全くあなたの為に天からわざわざあなたを慰め、助け、解放するために私は、この牢に来た。喜んで私を迎え、いつも共に居て、私にしっかり結びついていなさい。そうすれば自分の惨めさを感じることなく私と共に天国に行き、そこで幸福に満たされる』と主は言われる。神よ、計り知れない愛よ。主は、私達のそばにいるために天から降って、祭壇上に居られるので、私はたびたび主を訪問し、天国の聖人達の幸福である主の甘美な現存を出来る限り、楽しみたい。主を礼拝し、愛の行為をするために、いつも御前にいることが出来たら・・・この世のことに追われて、主を訪問することを怠るのなら、どうか、私の魂を目覚めさせてください。御聖体のそば近くに居たいという熱い望みを燃やして下さい。
ああ、愛するイエズスを今までいつも愛し、お喜ばせしていたら・・・。でも来世ではむろん、この世でもまだ時間が残っていることだけが慰めです。私の愛、宝、全てよ。主を愛したい。真剣に主を愛したい。全力を尽くして愛したい。
私の聖心を焼き尽くす愛の炎を抑えきれないで、この愛の奥義である聖体の秘跡を思いついた時、この聖心が耐え忍んだ苦しみを記しておくれ。聖なる糧に養われる選ばれた霊魂を思いながらも、捧げられた多くの霊魂が、どんなに冷淡であるかも知っていた。多くの司祭の霊魂がこの聖心を傷つけること、だんだん習慣的なって、悪いことには、倦怠を感じ、疲れて気付かぬうちに生ぬるい心になってしまう。
けれども、私は、そのような霊魂を一晩中聖櫃の中で待っている。私のもとに来て私を受け、浄配としての信頼を持って話し、勧告を求め、恩寵を願うようにと切に望んでいる。ことによれば、家族の者が危険にさらされて私から遠ざかっているのかも知れない。私の元に来て、全てを打ち明けて依頼するのだ。罪人の事を気にかけて償いとして身を捧げ、今日、私を一人ぼっちにしないと約束しておくれ。
他の多くの者からも同じ事を希っている。--それなのに、聖体のうちに私を受けてもほとんど一言も語らない・・・せかせかして飽きっぽく、また気に入らない事があるとか、自分の考えにとらわれ、知人のこと、健康について恐れ・・・愛に冷淡で、くしゃくしゃした気持ちで、早く聖堂から出たい心地で--私が選んだ霊魂、夜じゅう愛に絶えきれない思いで待っていたのに、私をこのように受けるのである。
私は、本当にその心に憩い、その悩みを和らげてやりたいと待っていた。新しい恩寵も用意しておいた。それなのに、それを欲しいとも思わない。私になにも願わないどころか、自分勝手に苦情を言っている。聖体拝領の出来ないほどの大罪も無いので、形式的習慣的に来るとしか思われない。愛に迫られるでもなく、私と親しく一致したいと望むわけでもない。このような霊魂には、私が期待するような優しい愛情はない!
司祭については? ・・・今日、司祭は、祭壇で託された霊魂について、相談してくれるだろうか? 内密に打ち明けた私の受けた辱めを償うであろうか? その聖職を立派に果たす力を懇願するであろうか? 人々の救霊のために働く熱心を。 昨日にも増して今日は、もっと犠牲を捧げる勇気を、その全愛を傾けてくれるだろうか? 私の特に愛する愛しい弟子として、その心に憩うことが出来るであろうか? 『世の人々は、私の手足を傷つけ、私の顔を汚すが、この選んだ人々、私の浄配、私の司祭達は、ここ聖心を引き裂く』と、訴えなければならないこの聖心の悲しみの辛さ。
聖体は、愛の発明である。霊魂の生命と力、全ての弱さを癒す薬、またこの世から永遠への旅路の糧である。聖体拝領は、罪人に心の平和を与える。生温かい霊魂を活き活きとさせる熱である。清い心にとっては、甘い蜜であり、いつも妙なる糧である。熱心な人々はここで憩いを得、渇望をなだめることが出来る。聖なる霊魂にとっては、完徳の頂を目指して飛ぶ翼になる。捧げられた人々は、聖体のうちに、心の住みかを定め、愛の生涯をその中で送る。またその人々が求める聖き天配と親しき永遠の契り、聖なる祝された婚約の完全なる型を聖体のうちに見出すのである。by最愛のイエズス
参考及び引用文献:回勅『ミステリウム・フィデイ』、教書イネスティマビレ・ドヌム、愛の逃亡者、聖体訪問、幼きイエズスの聖テレーズの手紙、聖ピオ10世の公教要理詳解、聖ヨゼフ・カラサンスの生涯etc・・・。