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”イエズス、我 御身に信頼し奉る”
神のいつくしみへの礼拝
「苦難に満ちている人類にわたしのいつくしみ深い心によりすがるように言いなさい。そうすればわたしは彼らを平和で満たす」(日記1074)。
「人類は、信頼をもって、わたしのいつくしみに心を向けない限り、平安を見出さない」(300)。
主イエズスが聖ファウスティナに語ったこれらの言葉は、平和というすべての人々の共通の望みに目を向けさせ、また頼りにならないもの、即ち神以外のものに頼っているという多くの人々の心の不安の原因を示します。
この若い修道女は、生活を共にしていた人々にはほとんど知られないままでしたが、死後10年もたたないうちに、彼女の名前と写真は、全世界に広まりました。亡くなる数年前にシスター・ファウスティナはこう書きました。「わたしの使命は、死によって終るのではなく、死と共に始まるのだと確信しています。疑っている人々よ、あなたたちに神の善についてよくわかっていただくために、わたしは、天国の覆いをとり除きます。あなたたちがもう、不信の念によって、最愛のイエズスの御心を傷つけないように。神は、愛でありいつくしみなのです」(281)。
主イエズスは、神のみ旨やその恵みにいつも全力を尽くして協力した修道女を通して、神への絶対的信頼と他人に対する愛の行ないを中心とする神のいつくしみへの礼拝の新しい方法を全世界に伝えることを望まれました。確かに、教会は始めから神のいつくしみを礼拝し、願い求めていましたが、次第にそうではなくなりつつあったので、イエズスは、こんな使命をシスターに与えたのでしょう。
1. 神のいつくしみの使者
Helena Kowalska (ヘレナ・コヴァルスカ)は、グウォゴヴィエツというポーランドの村に1905年 8月 25日に生まれました。ヘレナは、貧しい農家の娘で、15歳から家族を支えるために、お手伝いさんとして働き始めました。20歳で、憐れみの聖母修道女会に入会し、Maria
Faustyna (マリア・ファウスティナ)という修道名を名付けられました。修道院での彼女の仕事は、台所、庭仕事や受付でした。
シスターの聴罪司祭で、指導司祭であったイエズス会のソポチコ神父の指示に従って、ファウスティナは『私の魂における神のいつくしみ』という題で日記を書きのこしました。またキリストも、聴罪司祭と同じように、ご自分がいつくしみについてシスターに語った全てのことを書きしるすように命じられました。「与えられている自由時間をわたしの善といつくしみについて書くため利用しなさい。それは、あなたの人生の任務と使命である。人々の霊魂のために抱いているわたしの偉大ないつくしみを彼らに知らせ、わたしのいつくしみの深淵に信頼するように彼らを励ましなさい」(1567)。
そのような使命を与えてから、イエズスはファウスティナのことをご自分の「もっとも深い神秘の秘書」(1693)と呼ばれました。イエズスの秘書となった日記の記者は、村の学校に三年間足らず通っただけでした。そのために、L.グリギエルが書いているように、シスターは、「日記の執筆にはたいへんな苦労をし、単語の綴りをまちがえながら書いていました。・・・・・・しかし、日記の内容は豊かなものであり、また日記に使われていることばも、素朴で、ところどころに田舎なまりがあっても、特殊な叙情性があり、的を得た表現を使った美しい散文で、この日記を読む者を驚かせます。さらにもっとも捕らえ難い霊的な体験をも詳しく、現実的に描写されています。彼女は、表現しがたい神との直接的、もっとも親密な交わりの体験を伝えています。」そのためにこの日記は、神秘主義文学の重要な作品となっています。
シスター・ファウスティナは、その日記において彼女の使命を説明する主イエズスの言葉を謙遜に書きしるしました。「旧約の時代には、預言者たちをわたしの民に遣わしていた。今日は、わたしのいつくしみをもたせて、あなたを全人類に遣わす。わたしは、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。わたしのいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々をいやしたい」(1588)。
聖ファウスティナの使命は、主に三つの部分から成り立っています。それは、
第一、神のいつくしみ深い愛について聖書に記されていることを全人類に思い起こさせること
シスターの使命は、この精神を述べ伝えることだけではなく、それを生きることでした。「わたしの娘よ。わたしは、あなたを通して、わたしのいつくしみのへ礼拝を人々から求めるので、あなたが先にわたしのいつくしみに対する優れた信頼を示さなければならない。わたしへの愛から出るいつくしみの行ないをあなたから求める。あなたはいつでも、どこでも隣人にいつくしみを示しなさい」(742)。福者ファウスティナの偉大さは、このイエズスの要求に応えて、神のみ旨を完全に行なったことにあります。それは特に、罪人のためにささげられた祈りと犠牲の生活においてはっきり表われています。
ある出現の時に、十字架に掛けられていた主イエズスは、彼のように、そして彼と共に苦しむようにファウスティナに呼びかけました。「わたしの娘よ、人々の霊魂を救うためにわたしに力を貸して下さい。あなたの苦しみをわたしの受難に合わせ、それを罪人のために天の父にささげて下さい」
(1032)。彼女は、すぐにこの「招き」を受け入れました。後にこう書きました。「わたしはキリストとかたく結びつき、世界のための懇願のいけにえとなります。神のおん子の声で願う時、神はわたしに何も拒みません。わたしのいけにえそのものは何の価値もないのですが、それをイエズス・キリストのいけにえに合わせる時に、わたしのいけにえは、全能のものとなり、神の怒りをなだめる力のあるものとなります」(482)。
シスターは、自分が言っている通り(1372)、もうすでに子供の時から偉大な聖女になりたかったのです。聖性へ導く道についてこう語っています。「わたしは、戦いながら一日を始め、戦いながら終えます。一つの困難を乗り越えたら、そこに立ち向かうべき十個の新たな困難が出てきます。しかし、それを気にしません。なぜなら、今は、平和ではなく、戦いの時だということをよく知っているからです。この戦いがわたしの力を越える時は、子供のように天の父によりすがります。そうすれば、滅びないと確信しています」(606)。
ファウスティナは、修道生活を始めてからまもなく結核にかかりました。回復、再発を繰り返し、また他の多くの苦しみを受け、シスターは1938年10月5日に、33歳の若さで亡くなりました。
シスターは生きている間には、修道女たちの中でほとんど目立たない存在で、彼女の神秘的な生活やイエズスから与えられた使命については聴罪司祭と修道会の上長以外は誰も知りませんでした。死後、彼女のことが知られるようになってからその墓は祈りと崇敬の場所となり、彼女の取り次ぎによって多くの人々が必要な恵みをいただいています。シスターを通してイエズスが示された礼拝が世界中に広がり、その精神を生きる人々も増えています。
1993年 4月18日にシスター・ファウスティナは、教皇ヨハネ・パウロ二世によって福者に、2000年4月30日に聖人にあげられました。
シスター・ファウスティナの日記には、神から委ねられたこの「いつくしみのわざ」の将来について書き記されています。シスターが記したように、このわざは、ある期間に、「完全に無に帰されたような状態になりますが、そのときから、真実を証明する力強い神の働きが行なわれます。このわざは、前から教会に存在しているにもかかわらず、教会の新しい輝きとなります」(378)。
1959年に出現についての不適切な情報を与えられた聖座は、シスター・ファウスティナの教えによる神のいつくしみへの礼拝を広めることを禁じてしまいました。この状態は、20年間続きました。
1967年に、当時のクラクフの大司教カロル・ヴォイティワは、シスター・ファウスティナの列福調査の第一段階を成功のうちに終えました。主に彼の努力と介入のために、聖座は1978年4月15日に、神のいつくしみへの礼拝についての前の決断と禁止を取り消しました。
禁止が取り消された六ヵ月後に司教カロル・ヴォイティワ枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロ二世になりました。
シスター・ファウスティナの列福式の時、教皇は新しい福者の使命についてこう言われました。「シスターの使命は続いており、驚くべき実りを結んでいます。シスターが伝えたいつくしみ深いイエズスへの信心は、現代の世界においてどれ程広がり、どれ程多くの人々の心を得ていることか、本当に不思議です。疑いもなく、それは時のしるし、わたしたち二十世紀のしるしなのです。それは、終わろうとしている今世紀の決算なのです。二十世紀は、過去の時代の進歩に勝る進歩があると同時に、未来に対する深い不安と憂慮があります。神のいつくしみ以外に、人々はどこに隠れ場や希望の光を見つけ出すのでしょうか。カトリック信者は、このことを知っています」。
神のいつくしみへの礼拝において最も重要なのは、神に対する人間の信頼なのです。従って、シスター・ファウスティナの使命の一つの目的は、人々の心の中に神への信頼を起こすことでした。この使命を果たすために、イエズスはシスターに神のいつくしみについて教え、このいつくしみの体験をさせてくださいました。イエズスから与えられた教えと体験を伝えるシスター・ファウスティナの日記は、神のいつくしみの賛歌となり、神のいつくしみについての聖書の教えを思い出させ、理解を深め、神に対するわたしたちの信頼を起こす原動力となっているのです。
1. いつくしみは、愛のわざ
聖ファウスティナの日記に書きしるされている神のいつくしみについての教えでは、いつくしみは神の最大の属性となっています。シスター・ファウスティナは、多くの箇所で、いつくしみを神の愛、神の善、または神の憐れみと同一視しています。その意味を説明する時、いつくしみは愛の実り、また別の箇所では、いつくしみは愛の花であると書いています。「神は愛です。いつくしみは神のわざです。愛から生じるものは、いつくしみによって表されています」(651)。存在しているすべてのものは、神の「いつくしみの深み」から出ました。神のすべてのわざは、その限りないいつくしみの現れなのです。神のいつくしみは世界を満たし、この世界の存在を保っています。それは、創造主と被造物との間にある底のないふちを埋めるものであり、人間に神の命、またはその神聖な幸福にあずかる可能性を与えるものなのです。
神のいつくしみの最高のわざとは、み言葉の受肉(イエズスの誕生)とその救いのみわざ、つまり御ひとり子の受難と十字架の死です。イエズスがこの世に来られたのは、神のいつくしみ深い愛を示すことによって、人間を神へと引き寄せるためでした。しかし、神の愛の最も完全な表現であった御子の死さえも、多くの人々にとっては、神の愛を信じそのいつくしみに信頼をおくには、まだ不十分であるということが、キリストの大きな悲しみの原因となっています。実は、神を信頼しないことこそ、イエズスのいつくしみ深い御心を最も強く傷つける罪なのです。
2. いつくしみの泉
キリストの十字架の死は、聖ファウスティナの神のいつくしみについての教えの中心にあります。十字架上で死に瀕していたイエズスの御心が槍によって開かれました。その時に流れ出た血と水は、いつくしみの泉となりました。人の罪の大きさを問わずに、誰でもこの泉からいつくしみを汲むことが出来ます。「わたしのいつくしみについて世界に話しなさい。全人類は、わたしの限りないいつくしみを見きわめるように。それは、終末の時のためのしるしである。その後正義の日がやって来る。まだ時間がある内に、わたしのいつくしみの泉に近づき、彼らのために流れ出た血と水を利用するように彼らに言いなさい」
(848)。実は、イエズスが求めているのは、人々が出来るだけたくさんこの泉から恵みを汲むことなのです。なぜなら、イエズスにとっては、少し与えるよりも、たくさん与える方が易しいからです。いつくしみの泉から恵みを汲む人は、神を礼拝します。神は、ご自分を「燃やす」いつくしみの炎をすべての人々に注ぎたいと望まれるので、神のいつくしみを受ける人は、神の最も強い望みに答えることになります。
いつくしみの泉がいつか渇いてしまい、神のいつくしみが足りなくなってしまうのではないかと心配する必要はありません。神のいつくしみは汲み尽くせないほど深いだけではなく、受け入れられることによって増えるのです。イエズスがシスターに教えられたように、人の罪が大きければ大きいほど、その人は神のいつくしみを受ける権利が大きいです
(723)。「わたしの秘書よ、わたしは、正しい人のためよりも、罪人のために気前がよいと書きなさい。彼らのために地上に降り、・・・・・・彼らのために血を流した。彼らが、わたしに近づくのを恐れないように。彼らこそ誰よりも、わたしのいつくしみを必要としている」(1275)。イエズスは、一人ひとりの必要に応じて十分にいつくしみを与えてくださいます。
人間の罪は、神の怒りではなく、その憐れみを引き起こすので、誰も神に近づくのを恐れる必要はありません。いつくしみの泉から恵みを汲むためには、ただ一つの器、つまり神への信頼が必要です。「人が、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」
(1576)。いつくしみ深い神は、自分自身を人間の信頼にゆだねました。そのために、イエズスはこう言われます。「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」
(1146)。「わたしは、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。わたしのいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々をいやしたい。人々が、わたしに罰を与えるように強いる時だけわたしはそうする。わたしの手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、わたしはいつくしみの日を送っている」
(1588)。
3. いつくしみと正義
神のいつくしみについての教えの中では、いつくしみと神の正義との関係の説明がとても重要です。イエズスがファウスティナに与えられた教えによると、いつくしみは十字架上で正義に対して勝利をおさめました。十字架の死に至るまでのイエズスの従順は、「正義の剣を遠ざけて、いつくしみの期間を延ばしまし
た」。そのために、現在はいつくしみの時なのです。この世に生きている間に誰にでも回心のチャンスが与えられています。神は絶えず人間の回心を待っています。実はそれだけではなく、神はあらゆる罪の中に生きている人間を、ご自分のいつくしみをもって追いかけています。いつくしみ深い神は忍耐強い方なので、すぐに罰を与えることはありません。罰のためには永遠があります。正義の日がやってくる前に、神はまずいつくしみの日を送り、いつくしみの王を遣わします。しかし、もしいつくしみの王であるイエズスを受け入れないならば、その人は正しい審判者であるイエズスの前に立つことになります。イエズスは、こう言われます。「正しい審判者として来る前に、まずわたしのいつくしみの戸口を広く開ける。この戸口を通って入りたくない人は、正義の戸口を通って入らなければならない」(1146)。しかし、この場合、どのような罪であれ罰なしに見逃がされることはありません。「誰一人も、わたしの手から逃げることが出来ないと罪人に言いなさい。彼らが、わたしのいつくしみ深い御心から逃げているならば、必ずわたしの正義の手に陥る。わたしはいつも彼らを待ち、彼らの心がわたしに向かって鼓動しているかを聴いていると罪人に言いなさい。書きなさい。わたしは、良心のかしゃく、失敗と苦しみ、または嵐と雷、教会の声を通して彼らに語っている。わたしのすべての恵みを無駄にしてしまうならば、わたしは、彼らに怒りを感じ始め、縁を切り、望みのままにする」(1728)。
神は、誰一人も滅ぼすことがありません。しかし、神は人間の自由、人間の選択を尊重するので、それを求めて選ぶ人が滅びるのです。
神のいつくしみを礼拝するように呼び掛け、このいつくしみを願い求める必要性を強調していたイエズスは、ご自分の望みを実行するために礼拝の具体的な方法をシスター・ファウスティナに教えてくださいました。
聖ファウスティナは、1931年 2月22日の出現を次のように描いています。「夕方、私が部屋にいた時、白い長衣を着た主イエズスを見ました。一方の手は祝福するために挙げられ、もう一方は、長衣の胸のあたりに触れていました。そして、長衣の胸元の開いたところから、赤と青白い二本の大きな光が流れていました。私は静かに主をじっと見つめていました。私の魂は、恐れと同時に大きな喜びに打ち負かされてしまっていたのです。暫くしてから、イエズスは私にこう言われました。『あなたが、見ているままに、「イエズスよ、あなたに信頼します」という言葉が刻み込まれている、わたしの姿を描きなさい。この絵姿を、先ずはあなたたちの聖堂、そうして全世界で崇敬してほしい。この絵を崇敬する人は決して滅びないと約束する。そして、既にこの地上にいるうちに、特に臨終の時に敵に対して勝利をおさめることをも約束する。私の栄光として、この人を私自身が守る』」(46-48)。
キリストの言葉によれば、この絵こそ、人々が「恵みをいただくためにいつくしみの泉へ近づく時、手にすべき器」(327)なのです。
指導司祭に頼まれて、ファウスティナは御絵の光の意味についてイエズスに尋ねました。イエズスは答えて、こう説明してくださいました。「この二つの光は水と血を意味する。青白い光は霊魂を義とする水、赤い光は霊魂の生命である血を意味する。この二つの光は、十字架上で死にかかっていた私の心臓が槍で開かれた時に、私のいつくしみの中から流れ出た。この二つの光のもとに生きる人は幸い、神の正義の御手は、この人を捕らえることがないからである」(299)。
いつくしみ深いイエズスの御絵が出来たのは、ファウスティナの指導司祭ソポチコ神父のおかげです。御絵の存在、またはその図解の形と神学的な内容に関するイエズスの望みがわかった後、神父はこの絵を画家のエウゲニュシ・カジミロフスキに描いてもらいました。
カジミロフスキ師はファウスティナの詳しい指示に 従って絵を描いたにもかかわらず、絵が出来上がった時、この「肖像」のイエズスが、ファウスティナの見たイエズスほど美しくなかったので、彼女は満足するどころか悲しみの涙を流しました。するとイエズス自身がシスターを慰め、その際神のいつくしみへの礼拝には何が大事かを教えました。「この絵の偉大さは絵の具の色や筆の美しさにあるのではなく、私の恵みにあるのである」(313)。
エウゲニュシ・カジミロフスキが描いた絵は、今日に至るまでヴィルノの聖霊教会におかれ、崇敬をうけています。しかし、全世界に知られるようになったのはこの絵ではなく、アドルフ・ヒワの絵なのです。
アドルフ・ヒワが戦争で家族全員が助けられたことへの感謝の奉納として1943年に、いつくしみ深いイエズスの絵を描いて、それを憐れみの聖母修道女会のワギエフニキ修道院にささげました。
礼拝に関する教えの中で、イエズスは復活祭日の次の日曜日(復活節第二主日)に祝うべきいつくしみの祭日についてもっともよく語っておられます。イエズスは、この日を選ぶことによって、神のいつくしみと過ぎ越しの神秘との密接な関係を表しています。救いのわざは、神のいつくしみの最高の表現であるというわけです。いつくしみの祭日は喜びに満ちたキリスト教の希望の祭日、神のいつくしみによって、復活された方と共にわたしたちも復活するという希望の祭日なのです。イエズスが求めているのは、いつくしみの祭日が、そのための特別な礼拝の日だけではなく、すべての人々、特に罪人のために恵みの日となることです。「わたしの望みは、いつくしみの祭日が、すべての人、特にかわいそうな罪人のための逃れ場と隠れ場になることである。この日、わたしのいつくしみの深みが開かれている。わたしのいつくしみの泉に近づく人の上にわたしはあふれる恵みを注ぐ。ゆるしの秘跡を受け、聖体拝領する人は、とがと罰を完全にゆるされる。この日に神から流れる恵みの全ての出口が開かれている。罪が深紅色のようであっても、わたしのもとに近づくのを誰も恐れないように」(699)。
イエズスは、この祭日の準備として、ノヴェナ(九日間の祈り)を行うことを求めています。このノヴェナは、毎日唱える神のいつくしみへの祈りの花束から成り立ち、聖金曜日に始まります。
福者の日記には、別のノヴェナ、シスターが個人的に行うためにイエズスに教えられたノヴェナが書かれています。このノヴェナは、神のいつくしみへの礼拝の一部として与えられたものではありませんが、信者も信頼を込めて、いつくしみの祭日の準備として、また普段の祈りにこのノヴェナを用いることができます。
いつくしみの祭日の前のノヴェナ
主イエズスは、シスター・ファウスティナにいつくしみの祭日に備えてノヴェナを行なうように命じた時、こう言われました。「この九日間に、あなたがわたしのいつくしみの泉に人々の魂を連れてくることを求める。この魂が、人生の苦難の時、特に臨終の時に必要としている力と安らぎ、そしてあらゆる恵みを汲むために。一日毎に、わたしの示す霊魂のグループをわたしの心に連れてきて、その人たちをこのいつくしみの海に浸しなさい。わたしは、このすべての魂をわたしの父の家に導き入れる。あなたは、この世においても、または来るべき世においてもこれを行いなさい。わたしのいつくしみの泉に導き入れる魂の願い事を拒むものは何もない。あなたは毎日、この霊魂のための恵みをわたしの辛い受難によってわたしの父に願いなさい」(1209)。
「今日、全人類、特にすべての罪人をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみの海に浸しなさい。そうすれば、あなたは失われた霊魂のために苦しい悲しみに沈んでいるわたしを慰めるあろう。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたは憐れみとゆるしそのものです。わたしたちの罪ではなく、あなたの限りない善意へのわたしたちの信頼を顧みて、その憐れみ深い御心にわたしたち一人ひとりを受け入れ、わたしたちがいつまでもそこに留まることができますように。あなたと御父と聖霊とを結ぶ愛によってお願いいたします。
永遠の父よ、イエズスの憐れみ深い御心に留まる全人類、特にあわれな罪人をいつくしみ深いまなざしで顧み、イエズスの苦しいご受難によって、わたしたちにいつくしみを注いでください。わたしたちがあなたの偉大ないつくしみをとこしえにほめたたえることができますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第二日
「今日、司祭や修道者をわたしのもとに連れてきて、わたしのはかり知れないいつくしみに浸しなさい。彼らは、苦しい受難を耐え忍ぶために、わたしに力を与えた。水が水路を通して流されるように、わたしのいつくしみが彼らを通して流されている。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたはすべての善の源です。わたしたちがあなたの御心に適ういつくしみの行いを成し遂げられるように、わたしたちを恵みで満たしてください。わたしたちを見るすべての人が、天におられるいつくしみの御父をほめたたえますように。
永遠の父よ、あなたのぶどう畑において選ばれたもの、司祭と修道者をいつくしみ深いまなざしで顧み、彼らにあなたの祝福の力をお与えください。彼らは御子の御心に留まっていますから、御心の思いやりによって彼らにあなたの力と光をお与えください。彼らが他の人を救いの道に導くことができ、共にあなたのはかり知れないいつくしみの賛美をとこしえに歌い続けることができますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第三日
「今日、すべての信仰深い忠実な人々をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみの海に浸しなさい。この人々は、十字架の道の途上でのわたしの慰め、海のように大きいな悲哀の中での慰めのしずくであった。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたはいつくしみの宝庫から、すべての人々に恵みをあふれるほどに与えてくださいます。あなたの憐れみ深い御心にわたしたちを受け入れ、わたしたちがいつまでもそこに留まれますように。天の父に対して燃えているあなたの御心のはかり知れない愛によってお願いいたします。
永遠の父よ、あなたの御子の相続人である忠実な人々を、いつくしみ深いまなざしで顧みてください。御子の苦しいご受難によって、彼らを祝福し、いつも保護してください。彼らが、愛と聖なる信仰の宝を失うことなく、天使と聖人の群と共に、あなたのはかり知れないいつくしみをとこしえに賛美できますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第四日
「今日、異教徒とわたしをまだ知らない人々を、わたしのもとに連れてきなさい。辛い受難のさなかに彼らについて考えていた。彼らの未来の熱心さがわたしの心の慰めであった。彼らをわたしのいつくしみの海に浸しなさい。
憐れみ深いイエズスよ、あなたは全世界を照らす光です。あなたをまだ知らない異教徒をあなたの憐れみ深い御心に受け入れてください。彼らもわたしたちと共にあなたの偉大ないつくしみをたたえ、いつまでも御心に留まれますように、彼らをあなたの光で照らしてください。
永遠の父よ、イエズスのいつくしみ深い御心に留まっている異教徒とあなたをまだ知らない人々をいつくしみ深いまなざしで顧み、福音の光に引き寄せてください。彼らはあなたを愛する幸福の大きさをまだ知りません。彼らも、あなたのいつくしみの寛大さをとこしえにほめたたえることができますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第五日
「今日、離れた兄弟たちの霊魂をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみの海に浸しなさい。辛い受難の時、彼らはわたしの体と心、すなわちわたしの教会を引き裂いていた。彼らが教会との一致に戻る際に、わたしの傷が癒される。そうすれば、彼らがわたしの受難を和らげる。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたは善そのものであり、求める人々に光を拒まれません。離れた兄弟たちの霊魂をあなたの憐れみ深い御心に受け入れ、彼らをあなたの光によって教会との一致へと引き寄せて下さい。彼らが、あなたの憐れみ深い御心にいつも留まり、あなたのいつくしみの寛大さをほめたたえることができるようにしてください。
永遠の父よ、わたしたちの離れた兄弟たち、特に自分の誤りの中に頑なに留まって、あなたの賜を無駄に使い、あなたの恵みを悪用した兄弟たちの霊魂をいつくしみ深いまなざしで顧みてください。彼らの誤りではなく、彼らのために辛い受難を受けた御子の愛を顧みてください。彼らも、イエズスの憐れみ深い御心に留まっているからです。彼らも、あなたの偉大ないつくしみをとこしえにほめたたえることができるようにしてください。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第六日
「今日、柔和で謙遜な人々や幼子の霊魂をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみに浸しなさい。彼らは、わたしの心に最もよく似ている。彼らは、最も辛い受難において、わたしを励ました。わたしは、わたしの祭壇のもとで祈る地上の天使として彼らを見た。彼らの上に、大河のように豊かに恵みを注いでいる。ただ謙遜な人だけが、わたしの恵みを受け入れることができる。謙遜な人にわたしの信頼を置く。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい」と言われました。柔和で謙遜な人々や幼子の霊魂をあなたの憐れみ深い御心に受け入れてください。彼らは、天国全体を魅了し、天の御父が特別に好まれる者です。彼らは、神の玉座の前のすばらしい香りの花束のように、神ご自身をその香りで楽しませています。彼らは、あなたの憐れみ深い御心に永久に留まり、愛といつくしみの讃歌をとこしえに歌っています。
永遠の父よ、憐れみ深いイエズスの御心に留まっている柔和で謙遜な人々や幼子をいつくしみ深いまなざしで顧みてください。彼らは、あなたの御子に最もよく似ています。彼らの香りは、この地上から立ち昇り、あなたの玉座にまで届いています。すべての善といつくしみの父よ、彼らへのあなたの愛と彼らがあなたに与える喜びによってお願いいたします。すべての人々は共にあなたのいつくしみに賛美の歌をとこしえに歌いますように、一人ひとりを祝福してください。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第七日
「今日、わたしのいつくしみを特別に礼拝し、ほめたたえる人々をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみに浸しなさい。彼らは、わたしの受難のために自分の心を深く痛めており、わたしの心を最も深く理解した。彼らは、わたしの憐れみ深い心の生きた写しである。来世において、彼らは特別な光で輝き、誰一人として地獄に落ちることはない。臨終の時に、彼ら一人ひとりをわたしは特別に守る。
いつくしみ深いイエズスよ、あなたの心は愛そのものです。あなたのいつくしみの偉大さを特別に礼拝し、ほめたたえる人々をあなたの憐れみ深い御心に受け入れてください。彼らは、神御自身の力によって勇気づけられています。彼らは、あらゆる苦難や逆境においてもあなたのいつくしみに信頼して、前進します。彼らは、あなたと一致して、全人類の重荷を背負っています。臨終の時に、彼らは裁かれることなく、あなたのいつくしみで包まれます。
永遠の父よ、あなたの最も偉大な特性であるはかり知れないいつくしみを崇め、ほめたたえる人々をいつくしみ深いまなざしで顧みてください。イエズスの憐れみ深い御心に留まっている彼らは、生きた福音であり、彼らの手はいつくしみの行いで満ちあふれ、喜びに満たされた心はいと高き方にいつくしみの歌を歌っています。神よ、彼らがあなたに置く希望と信頼のために彼らにいつくしみを注いでください。「わたしのはかり知れないいつくしみを礼拝する人を、生きている間に、また特に臨終の時にわたし自身が守る」というイエズスの約束が彼らにおいて実現されますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第八日
「今日、煉獄の中に閉じ込められている霊魂をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみの深淵に浸しなさい。わたしの血の泉は彼らの灼熱の苦しみを和らげる。わたしの正義に基づいてその罪のつぐないを果たしているすべての魂をわたしは大いに愛している。あなたは、彼らの苦しみを除去することが出来る。わたしの教会の宝庫からすべての免償をとり、彼らのためにささげなさい。もしあなたが彼らの苦しみを理解したなら、絶え間なく彼らのために霊的な施しをささげ、わたしの正義に対する彼らの負債を支払っていくだろう。
憐れみ深いイエズスよ、あなたは「いつくしみを望む」と言われました。あなたに愛されても、あなたの正義に基づいて償いを果たさなければならない煉獄の霊魂を、あなたの憐れみ深い御心に導き入れます。煉獄においてもあなたのいつくしみの力がほめたたえられるために、あなたの御心から流れ出た御血と御水の泉が、煉獄の炎を消しますように。
永遠の父よ、イエズスの憐れみ深い御心に留まっている煉獄で苦しんでいる霊魂を、いつくしみ深いまなざしで顧みてください。あなたの御子、イエズスの苦しいご受難によって、またイエズスの至聖なるご霊魂に満ちた悲痛によってお願いいたします。あなたの正義のもとにある霊魂にいつくしみを注いでください。いつも最愛の子、イエズスの傷を通して彼らをご覧ください。あなたの善と憐れみには限りがないとわたしたちは信じています。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
第九日
「今日、なまぬるい霊魂をわたしのもとに連れてきて、わたしのいつくしみの深淵に浸しなさい。彼らはわたしに最も苦しい傷を負わせている。ゲッセマネの園で、なまぬるい霊魂のために、わたしの魂は最も大きな嫌気を感じた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と言ったのは、彼らのためであった。彼らにとって、わたしのいつくしみに寄りすがる以外に、救いの希望がない。
憐れみ深いイエズスよ、あなたは憐れみそのものです。あなたの憐れみ深い御心になまぬるい人びとを導き入れます。死体に等しいもので、あなたに嫌気を感じさせるこの凍っている霊魂が、あなたの純粋な愛の火の中で熱くなりますように。憐れみ深いイエズスよ、あなたのいつくしみの全能によって、彼らをあなたの愛の火の中に引き寄せ、聖なる愛で満たしてください。あなたは、何でもお出来になるからです。
永遠の父よ、イエズスの憐れみ深い御心に留まるなまぬるい人びとをいつくしみ深いまなざしで顧みてください。いつくしみの父よ、あなたの御子の辛いご受難によって、また十字架上の三時間のはげしい苦痛によってお願いいたします。彼らがあなたのいつくしみの深淵をほめたたえることが出来ますように。アーメン。」
(神のいつくしみへの祈りの花束を唱えます)
いつくしみの祭日の祝い方
いつくしみの祭日では、いつくしみ深いイエズスのご絵が公に祝別されて崇敬を受けること、また司祭たちが「神の限りないいつくしみについて人々に語ること」を、イエズスは求めています。
信者は、イエズスが与えたい豊かな恵みを受けるために、まずゆるしの秘跡を受けることによって(祭日の数日前でもいい)神と和解をし、この日に信頼をもって、「命の源」であるご聖体を受ける必要があります。
シスター・ファウスティナの日記によると、主イエズスは、わたしたちがゆるしの秘跡を受けることによって、神のいつくしみを礼拝すると強調しています。
シスター・ファウスティナに向かって、主イエズスはこう語ります。「わたしのいつくしみについて書き、話しなさい。慰めを探すべきところを人々に教えなさい。それは、いつくしみの裁判所である。そこでは最も偉大な奇跡が絶えず繰り返される。わたしの代理者のもとに近づき、自分の全てのみじめさを話すだけで、神のいつくしみの奇跡は完全に現れる。魂は、腐りつつある死体のようであっても、あるいは人間にとっては、復活が不可能となり、すべてが失われたようになっても、神にとっては、そうではない。神のいつくしみは完全にこの魂を復活させる」(1418)。
「ゆるしの秘跡に近づく時、告解所には、わたし自身があなたを待っているということを意識しなさい。わたしは司祭の姿に隠れるが、魂において自分自身で働く。ここでは、みじめな魂は、いつくしみの神と出会う。このいつくしみの泉から、ただ信頼という器だけで恵みを汲むことが出来ると人々に言い伝えなさい。彼らの信頼が大きければ大き程、わたしの気前よさには限界がない」(1602)。
イエズスは、シスター・ファウスティナにこんな言葉を語りました。「わたしは、人間の霊魂と一致することを望む。霊魂と一致することは、わたしの大きな喜びである。聖体において人間のこころに入る時、わたしの手はあらゆる恵みで満たされている。この恵みを人々に与えたいが、人々はわたしを無視し、一人に残して、別のことに心を向ける。人々が愛を見きわめないために、わたしはとても悲しんでいる」(1385)。
「ご聖体において、わたしと一致する人が少ないので、わたしはとても苦しい。わたしは人々を待っているのに、彼らはわたしに対して無関心である。わたしはこころをこめて、これほど誠実に彼らを愛しているのに、彼らはわたしを疑う。彼らにたくさんの恵みを注ぎたいのに、彼らはそれを受け入れたくない。わたしには愛といつくしみに満ちあふれるこころがあるのに、彼らは、わたしを何か死んだものように扱う」(1447)。
シスター・ファウスティナは1935年 9月13日に与えられた神秘的な体験についてこう書いています。「夕方、自分の部屋にいる時、神の怒りの天使を見ました。・・・・・・世界が必ず悔い改めて、償いをはたしますから、しばらく待ってくださるように、天使に願いましたが、神の怒りに対してわたしの願いは無力でした。その時、・・・・・・わたしは内面的に聴こえる言葉で世界のために神に願い始めました。このように祈ると、天使の無力な姿を見ました。天使は、世界が罪のために受けるべき正しい罰を与えることが出来ませんでした。かつて、これほどの内面的な力を持って祈ったことはありませんでした。・・・・・・ 翌朝、わたしたちの聖堂に入ると、こんな内面的な言葉が聞こえました。『聖堂に入る度に昨日私があなたに教えた祈りを唱えなさい。この祈りを普通のロザリオを用いて次のように唱えなさい。はじめに主の祈り・天使祝詞・信仰宣言を一回ずつ唱えてから、主の祈りの珠のところで次の言葉を唱える。「永遠の父よ、私たちと全世界の罪のゆるしのために、あなたの最愛の子、私たちの主、イエズス・キリストの御体と御血、御霊魂と神性をあなたにおささげいたします。」天使祝詞の珠のところで次の言葉を唱える。「イエズスの苦しいご受難によって、私たちと全世界にいつくしみを注いで
ください。」最後に次の言葉を三回唱える。「聖なる神、聖なる全能の神、聖なる永遠の神よ、私たちと全世界を憐れんでください」』」(474 - 476)。
後にイエズスはシスターにこう言われました。「この祈りの花束を絶えず唱えなさい。この祈りを唱える人は、誰であっても、臨終の時には偉大な憐れみを受ける。司祭は、この祈りを最後の拠り所として罪人に与える。最も罪深い人であっても、この祈りの花束を一回だけ唱えれば、私の限りないいつくしみから恵みが与えられる。私は、全世界に私のいつくしみを知ってほしい。私のいつくしみに信頼する人々に、想像もつかない恵みを与えたい」(687)。
ある出現の時に、神が、主イエズスとその苦しい受難によって地球を祝福しているとシスター・ファウスティナは分かりました。「大きな光を見ました。この光のうちに父である神がおられました。この光と地球の間に十字架につけられたイエズスを見ました。神は、地球をながめようとされた時に、必ずイエズスの傷を通して見なければなりませんでした」(60)。
福者ファウスティナの日記によるとイエズスは特に、私たちにイエズスの十字架の死を思い出させる時間、つまり三時にご自分の受難を黙想し、この受難がもたらした恵みを求めて、祈ることを望んでいます。「三時に、特に罪人のために私の憐れみを願い、そうしてほんの短い間でも私の受難、特に死ぬ時の私の孤独について黙想しなさい。この時間は、全世界のための偉大ないつくしみの時間なのである。あなたに、わたしの致命的な悲しみを悟らせる。この時間に、私の受難によって私に願う人々をわたしは誰一人拒むことがない」(1320)。
イエズスは、この時間に十字架の道行きや聖体訪問をするように、またこれが出来なければ、その時間にいるところで短い祈りを唱えるようにシスターに言われました(1572)。わたしたちはたとえば、イエズスがシスターに教えた次の祈りを唱えることが出来ます。「わたしたちのために、イエズスの御心からいつくしみの泉として流れ出た血と水よ、あなたに信頼します」(187)。
イエズスは、神のいつくしみを宣べ伝えるように励まして、こう言われました。「わたしは、わたしのいつくしみへの礼拝を広める人を、母が自分の赤ん坊を見守っているように一生涯見守る。そして臨終の時に、彼らにとって審判者ではなく、いつくしみ深い救い主となる」(1075)。「わたしのいつくしみを賛美し、信頼するように他の人々を励ますことによってこの礼拝を広める人々は、臨終の時に決して恐れを味わうことがない。この最後の戦いの時に、わたしのいつくしみがこの人を包む」(1540)。
イエズスは、神のいつくしみを宣べ伝える司祭に特別な約束を与えてくださいました。「わたしの司祭たちにこう言いなさい。彼らが、わたしの限りないいつくしみについて、または、罪人のためにわたしの心にある憐れみについて語る時に、彼らの言葉を聞くかたくなな罪人が悔い改めるであろう。わたしのいつくしみを宣べ伝え、それを崇める司祭には、不思議な力を与える。彼らの言葉を祝福し、彼らの言葉を聞く人の心を動かす」(1521)。
神のいつくしみへの礼拝において最も重要なこと、その「心」とは、イエズス・キリストに対する絶対的信頼なのです。ファウスティナが日記に書き記した言葉を通して主イエズスは、それを強く強調します。「信頼をもって、わたしのいつくしみに心を向けない限り、誰一人も義とされない」
(570)。「最も大きな罪を犯している人がわたしのいつくしみに信頼するように。他の人よりも彼らこそ、わたしのいつくしみの淵に信頼する権利がある」
(1146)。「私のいつくしみから恵みを汲むためには、ただ一つの器しかない。それは、信頼なのである。人は、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」
(1578)。「わたしは自分自身をあなたの信頼に任せる。あなたの信頼が大きいほど、わたしは限りなくいつくしみを与える」 (548)。「わたしを信頼しないことが、何よりもわたしを大きく傷つける」(1076)。
要するに、シスター・ファウスティナに啓示された、神のいつくしみへの礼拝の価値やその効果は、主イエズスに対する信頼の大きさによるのです。シスター・ファウスティナの日記からわかるように、この信頼とは、信仰、希望、謙遜と痛悔という徳から成り立つ心得なのです。
そこは、信仰の徳が基礎となっています。「わたしが霊魂に働きかけるためには、霊魂が信仰を持たなければならない」(1420)ということをイエズスは思い起こさせます。実は、わたしたちは信仰によってのみ、超自然の現実、そしてそれによって神のいつくしみを見きわめることが出来ます。わたしたちが、神をより深く知るようになればなるほど、わたしたちの希望は生き生きとしたものになり、神に対する信頼が深まるのです。
神の善に対する信頼は、謙遜なものであればあるほど強くなります。実は、信頼と謙遜は不可分なものなのです。なぜなら、自慢する人、自分の力に頼って生きている人は、神に信頼する必要性を感じておらず、信頼することが出来ないからです。謙遜な人は、自分の限界や弱さを認め、自分の内に、または周りにあるすべての良いものは神の賜物であるということをよく知っています。そのために謙遜な人だけが、子供が自分のお父さんを信頼するように、神の智恵、神の力といつくしみを信頼し、すべてをゆだねることが出来ます。
信頼するようにと罪人に呼びかけるイエズスは、こう言われます。「痛悔する霊魂にとって、わたしはいつくしみのみである」(1739)。痛悔なしの信頼は破廉恥であり、いつくしみではなく、放縦を期待することなのです。
神に対する信頼の態度は、外面的に神のみ旨に適う行ない、つまり神の導きに従って神が求める道を歩むことにおいて表現されます。つまり、神に信頼するとは、実践において神をいつくしみ深い父、自分の子供たちの幸福のみを求めておられる父として認めることなのです。
神のいつくしみを礼拝しその憐れみを願い求める人は、自ら行いや言葉や祈りによっていつくしみを実行しなければならないと、イエズスは強調します。「わたしへの愛から出るいつくしみの行ないをあなたに要求する。・・・・・・隣人に対していつくしみを実行する三つの手段をあなたに教える。第一は、行ない。第二は、言葉。第三は、祈り」(742)。後にイエズスは、付け加えて「霊的ないつくしみの貢献」の力強さについて話し教えられました。霊的ないつくしみは、「許可も倉もいらない。すべての人に出来ることなのだ」
(1317)。ここで、イエズスが言っているのは、何も持たなくても、どんな状況にあっても出来る祈りと犠牲のことだと考えられるでしょう。しかし、「いかなる手段においても、いつくしみを実行しない人には、裁きの日にわたしのいつくしみは与えられない」
(1317)。
主イエズスがファウスティナに描くようにと命じた御絵は、崇敬の対象や主イエズスが恵みを与えるために用いる道具であるだけでなく、何よりもそれは、いつくしみの実行の要求を思い出させるしるしでなければなりません。この要求は、絶対的なものです。「・・・・・・それは、わたしのいつくしみの要求を思い出させるはずだ。なぜなら、行ないなしには、最も強い信仰さえも何の助けにもならない」(742)。
1935年の聖霊降臨の夜、シスター・ファウスティナは庭を歩いていた時にこんな言葉を耳にしました。「あなたは、あなたの同志と共に自分たちと全世界のためにいつくしみを願い求めることになるだろう」
(435)。シスターはこの言葉を、自分の修道会を出て、新しい修道会を創立するような命令として理解しました。シスターは、自分の弱さを言い訳にして、このインスピレーションを避けようとした時、「恐れないで。あなたに足りないところを、わたし自身が補おう」
(435) 。そして、「このような会が存在することを求める」(437)とイエズスは言われました。別の時にイエズスはもっと詳しく説明してミサの時にこのような言葉を語りました。「この会は出来るだけ早く創立されることを求める。そしてあなたは、あなたの同志と共にこの会に生きるだろう。私の霊があなたたちの生活の会則となる。あなたたちの生活は、馬小屋から十字架の死に至るまでのわたしを手本としなければならない。わたしの神秘に入り込みなさい。そうすれば、あなたは必ず、被造物に対するわたしのいつくしみの淵とわたしのはかり知れない善を悟る。あなたは、それを世界に知らせるだろう。あなたは、祈りによって天と地との間の仲介となる」(438)。
神の限りないいつくしみを宣べ伝えること、このいつくしみを全世界のために願い求めることを目的とする新しい観想修道会を創立しなければならないとシスターは確信していましたが、イエズスに言われた通りに霊的な指導者や上長の許可なしには、何もしないことにしていました。
一方では、新しい会を造るように言われ、またもう一方では、新しい修道会を創立するために退会することを許さない指導者や上長に従うように言われたファウスティナは、何をしても、イエズスの望みを実現出来ないようにみえる状態にありました。それは、何よりも神のみ旨を愛し、み旨を行うことを糧にしていたファウスティナにとって、非常に大きな苦しみとなり、シスターを完全に浄化する程の霊的な試練の時となりました。
この苦しい状態は、凡そ二年間続きました。最終的に憐れみの聖母修道女会を退会すること、また新しい修道会を創立することは、イエズスの望むことではなかったとファウスティナは分かるようになってきました(1155−1158)。
イエズスが求めた会というのは、観想会と活動会の修道者や司祭と一般信者などすべてのキリスト者が属することの出来る一つの組織を超える集会、言わば大きな運動のことでした。
聖ファウスティナの日記から分かる通り、この運動に参加する人は、教会の刷新を求めて、神のいつくしみへの礼拝の実践を通して福音的な信頼といつくしみの精神を生き、イエズスがファウスティナに与えた使命、すなわち世界のために神のいつくしみを願い求め、特に神のいつくしみを全世界に宣べ伝えるという使命を果たすように努めます。シスターの言葉によれば、運動の参加者は、一日に少なくとも一つのいつくしみの行ないをすべきです。
シスター・ファウスティナは、イエズスに教えられた精神を生き、与えられた使命を完全に果たすことによって、この運動の最初の参加者となり、それに参加しようと思う人々に優れた模範を示しました。
「教会は、十字架につけられて復活したキリストのうちに現れた神のいつくしみについて真実を宣べ伝え、さまざまな方法で証しします。さらに、人を通して人へのいつくしみを実行するように求めます。それは、きょう、またあすの世界が、よりよい所、つまりもっと人間らしい所になるために必要な条件であると認めるからです。教会は、歴史のどんな時代、どんな時期、特に現代のような危機に満ちた時代にも、祈りを忘れることはできません。その祈りは、人類の上に重くのしかかって脅かす多くの悪の形態のなかで神のいつくしみを求める叫びです。これはキリスト・イエズスに生きる教会の基本的な権利であり、義務です。神に対し、そして人類に対する権利であり義務です。人間の良心が世俗化に落ち込めば落ち込むほど、「いつくしみ」ということばの意味を忘れ、神から遠のき、いつくしみの秘義から隔たりをもてばもつほど、教会は、「大きな叫び」をもっていつくしみの神に訴える権利と義務とが増します。この「大きな叫び」、神のいつくしみを求める叫びは現代の教会の特徴でなくてはなりません。そのいつくしみは、十字架につけられて復活されたイエズス、すなわち過ぎ越しの神秘のうちに確かに表されたと教会が信じ、また宣べ伝えています。この神秘こそ、いつくしみのもっとも完全な啓示をうちに担っています。それは死よりも強い愛、罪よりも、どんな悪よりも強い愛の啓示であり、人間が深い淵に落ち込んだときに引き上げ、いちばん強大な脅威からも自由にする愛です。
・・・・・・十字架につけられて復活されたイエズス・キリストの名において、今の人類の歴史のこの段階において表されるように、そして御子と聖霊の働きを通してこの愛が現代世界にも身近にあって、それがすべての悪より、罪より、死より強いことが示されるようにわたしたちは声高らかに祈ります。「憐れみは世々に及ぶ」と宣言してやまないあのおかたの執りなしもあって、また「憐れみ深い人はさいわい、彼らは憐れみを受ける」との山上の垂訓のおことばが完全にその人のなかで満たされたような人々の執りなしをも、頼って祈ります」。
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神のいつくしみへの賛美 信頼の祈り 隣人愛を実行する恵みを求めて 神のみ旨を行う恵みを求めて 教会と司祭のためにいつくしみを求めて 聖母マリアへの祈り |