心は何のため?

〜キリストの教え 幸せへの道〜




シモンチェリ神父

叙階50周年記念







尊者チマッチ神父さまと若き日のシモンチェリ神父さま、子供達と共に





1. シモンチェリ神父によるキリストの教え


1. シモンチェリ神父によるカトリック要理

 シモンチェリ神父によるカトリック要理は
「キリストの教えは良い人生を送ることによって真の幸せに至る道の教え」
が基礎である。その理解には、

 @良い人生を送るために常識なものの理解
 A「聖書」に書かれている歴史的な事実と教会の歴史の理解
 Bキリストにより与えられた「秘跡」、神秘的なものの理解と 「信仰」

が必要で、
「これらをすべて信じて受け入れ、それらの内に生活を送ろうとする人がキリスト信者です」
とされる。
「宗教」には「教え」と「儀式」がある。
「教え」とはまず理性で真理を理解させることであり、
ここに常識的なもの、歴史的なものがふくまれる。
「儀式」は目にみえるものであり、心に力を与える。


@良い人生を送るために--常識的なもの

良い人生を送るためには、心を広くもって生きることが大切だが、
心を常にこのように保つのは簡単ではない。
人がそれを実行しないのは難しいからだけではなく
あきらめている人が多いからである。
常識的なものを理解するには「本物・仮の物・偽物」という考え方がある。
「本物」とは目的であり、「無くてはならないもの」のことで、
条件なしの絶対的なものである。
平和・愛・喜び・信仰・幸せ・恵み・善など目に見えない心の世界のことを言う。
「仮の物」とは「あったら良いが無くても目的を妨げないもの」を示し、
相対的であり、心以外の人の体と知識に関する世の中の殆どのものがここに所属する。
これらの仮の物は本物の手段として使う。
これに対し「偽物」とは「神との関係のもので、あってはならないもの」。
それは、悪と悪につながるすべてが含まれる
人は本物に生きることによって幸せになれる。
しかし現実には、仮の物に留まってしまうだけでなく
度々偽物に負けて不幸になってしまうのである。


A聖書に書かれている歴史的な真実と教会の歴史---歴史的なもの


「聖書」はどうして人間がこのような状態になったかを説明するもので、
人が悪魔に負けて神に背き、罪を犯したこと、
また神の子であるキリストの十字架のいけにえによって人の罪がゆるされ、
悪に打ち勝って善の道を進んでいけるようになったことが書かれている。
その内容は誰でも勉強すれば理解できる。
たとえ不思議な出来事である奇跡でも
歴史的に証明されていれば認めることができる。
奇跡のなかでもキリストの復活が一番大切なことである。
キリストの復活は神の子である証明であり、
キリストの十字架のいけにえはすべての人の罪(悪)を
あがなう価値があるということの証明でもある。


Bキリストにより与えられた「秘跡」---神秘的なもの


キリストは教会の中に神秘的なしるしで
神との結び付きとして「秘跡」を残された。
秘跡は説明や理屈で理解できることではなく、
ただキリストの証言にもとづいて、そのまま信じるものであり、
そこに本当の意味の「信仰」がある。

 シモンチェリ神父の教えの特長は
やさしい日本語で理解しやすいように工夫されている点であるが、
秘跡にその例をとると次のように説明されている。

洗礼: 
洗礼は父と結ばれ神の子として生まれるという
最高の幸せにあずかれる秘跡。
洗礼には勉強よりも信じることが大切。
たとえ要理は一日で覚えられても信仰は一生のもので、
洗礼はスタートに過ぎない。
神と人との関係を結婚にたとえた場合、
未信者とは見合い前の状態で、
キリストに興味を持ち未洗礼の時は婚約中の状態といえる。
そして洗礼は神との結婚となる。

御聖体:
御聖体はキリストの体によって心が養われてキリスト自身に出会う。
御聖体拝領はそれを頂く秘跡。

堅信:
堅信は物欲に打ち勝って、信仰を堅固にする。
三位一体という神の構成を受け入れられる年令に
なった時に与えられる秘跡。
大人として神から与えられた使命を果たせるようになる。

結婚:
結婚は神の子の家族を大きくするために与えられる使命。
幸せな家庭を作ることは信仰、
結婚式は儀式だから宗教である。
良い夫は妻を幸せにし、良い妻は夫を幸せにする。
良い親と良い子の関係、
良い信者と良い司祭の関係もこれと同じ。
お互いの幸せをお互いにつくりあげていくために
良い人にならなければならない。
これはすべての人と人の関係についていえることである。



2.人生のキリスト教的な見方 (図1)




図1の副題には
「心豊かな人生を送るために、良い人になれるために、幸せになるために」
と書かれている。
これこそすべての人のために人生の目的である。

この図はB超自然の道、A自然の道、@人間の構成の3部構成で出来ている。
図には「超自然の道」を上部に書いているが、
幸せになるために人間として何をためすべきかという
シモンチェリ神父の説明は番号に従って「人間の構成」から始める。


@人間の構成

 神は真・善・美そのものであり、そこから「喜び」が生まれ「幸せ」を作る。
「人間の幸せのために」を説く場合、
先ず「人間の構成」を理解することが要る。
人間は「精神と体」で出来ていて、体の状態が良いときは「健康」を意味し、
それが失われると「病気」となる。

「体」は親からもらうものであり限度があるが、
心に仕えるための「手段」として使う。
神から頂く「精神」は霊魂であり、人間の自由意志による「心」と、
「頭・理性」に分けられる。

「理性」は頭で、その働きは「考える」ことでその目的は「真理」を知ること。
「真理」の反対は「間違い」。
「頭」には限界があるため「間違い」は「悪」とはいえないが、
素直に認め、直すことが必要。
「うそ」は真理だと分かっていて隠すことであり悪となる。

 「心」すなわち自由意志の働きは「愛する」ことで、「人のためにする行為」となる。
心の働きの目的は「善」であり、その反対は「悪」で、善と悪は「両立しない」。
善悪の基準は神にあり、「真」と「善」は幸せにつながるものである。
「人格者」とは常に真理を求め善を行う人である。
心は「自由」であるから無限に広がるが、悪によってしばられてしまう。
苦しみ、病気、死、災害などは「悪」ではないから幸せを妨げない。
つまり幸せをさまたげるのは悪だけである。


A自然の道。自分の心を神と誰とでも結べる道。「恵みと愛」

 ここには「心は一番大切なものですが、一人では育てられないものです」と書かれ、
三つの道が説明されている。
「結ぶ」とは一致することであり、「道」とは方法を意味する。

a 「神から結ばれる道」とは神の愛のしるしである「恵み」を意味し、
それが「善」であり人の心の「喜び」につながる。

「自分から神へ結ぶ道」とは神を愛することであり、神の「喜び」となる。
そしてそれは神への「祈り」として行われる。
この「祈り」についてシモンチェリ神父の説明は、
「賛美(神の恵みのもと、最高の恩人と認めての礼拝)、
ありがとう(祈りの中で一番大切なものである感謝)、
ごめんなさい(罪と悪をこころであやまり、行動で改める償い)、
おねがいします(先ず神の義を求め、恵み助けを求める願い)とある。

「人と人を結ぶ道」として、
「同じ愛をもって神から頂いた恵みを人に分けてあげる」
ことの大切さを説き、それが人の「喜び」となる。
「毎日頂いている神からの愛のしるしの恵みを、人に分けてあげることは、
神への感謝であり、皆のために喜びのもとになる」ことは神の計画であり、
人が神からの恵みを活かした時、神の「喜び」ともなる。

 この心の働きが愛であり、
それは「人のためにする行い」であってその行為が幸せの道になる。
言い換えれば恵みは神から与えられるもので、その神から与えられる愛を、
恵みとして人に分けてあげるのが幸せの道といえる。
つまり神に応える道は心の働きであり、
このような神と人間の関係が「信仰」となる。


Bキリストによって開かれた道

 ここには「キリストによって開かれた超自然の道」が書かれている。
「超自然」とは神秘的部分であり、「信じる」ほかはない。
「神の構成」とは「神の命」を意味し、すべてに完全な神の本性は「愛」である。
しかし愛も喜びも一人ではできないので
父と完全に同一の「子」が「父」から生まれた。
そして父と子相互の愛である「聖霊」との三位で唯一の神、
つまり「三位一体」の神と呼ぶ。
これは人間の知恵では悟れない信仰の神秘である。

 神の最初の目的は人間を神の生命にあずからせること(成聖の恩恵)であった。
罪を犯した人間を救われるために、神はマリアから生まれた神の子キリストの
十字架のあがないによって人間の罪をゆるされ、
神との一致という最高の幸せを得る道を開かれた。

「秘跡」とは罪によって離れた人間を再び神の命につなぐ救いのしるしであり、
「人の心の命」と「父」を結ぶのが「洗礼」、
「子」と結ぶのが「御聖体」、
「聖霊」と結ぶのが「堅信」である。
神の住まいとなった自分の心が汚れた時、神に背いた時など、
心の病気(悪)を直すのが「ゆるし」であり、
危なくなった生命を助け強めるのが「病者の塗油」。
神からの使命として家庭を作るのが「結婚」であり、
神からの使命として教会のために司祭となるのが「叙階」
「使命」とは神から与えられ、人のためであるから喜びとなる。



3. 幸せになる道(図2)



 この図2で伝えたいことはキリストの「愛・恵み・喜び」を
人々が理解し、感謝を行動に表すことにある。

「愛する」とは苦労を捧げながら心から善を尽くすことであり、
心から善を尽くすと、その善は受けた人に恵みとなってその人に喜びが伝わる。
つまり愛は苦労から始まって喜びに至るものである。
愛は苦労がなければ本当の愛とは言えない。
「捧げる」ことは、消極的で暗いイメージの「我慢」ではない。
仕方がないからという義務感からでは本当の愛にはならない。
善は他人のためにするものであり、自分のためにすると「偽善」となる。

 「幸せの道は悪に打ち勝って善に向かって進む」とは人間の目的である
「良い人生」つまり「幸せになる」ことが「愛の完成」・「救い」であるのに、
幸せになれないのは悪によって心がしばられているからであり、
悪に打ち勝って愛の道を進まなければならないことを意味する。

 「人間」は親から体を受け、愛されて生まれてくるのであり、
子が親を信頼すると親孝行となる。
神からも心を受け、愛されて生まれてくる。
神を信頼し、自分のすべてをゆだねることが「信仰」であり、
「幸せの道」の出発となる。
信頼と信仰をもって、つまり親と神の助けのもとに目的の幸せに向かっていく。
その到着は「希望」。
人生の目的は幸せ・良い人になる・心広くなる・心広い人になるという
無限の大きな目的で最後まで希望するものである。
出発の「信仰」と到着の「希望」を結ぶ道が「愛」。
信仰・希望の土台は神であり、
信仰・希望が消えない限り愛の実行はできる。
愛は最終的に人間同士の愛となる。
「互いに愛し合うこと」これはイエズス様ご自身が残して下さった
最終的な教えである。
自分が愛されたように人を愛する。
そして相手からも愛が起きるようにする。
つまり本当に愛し合うところまで進む愛、
死ぬまで成長することができる愛である。
図2に描かれた渦巻き形の曲線は、「成聖の恩恵」を受けながら、
「神と共に天国」に入れるよう、つまり「幸せになる」よう広がっていく
この愛(こころの働き)を表している。

 人間は体と精神からなり、精神は頭と心からなる。
無限の「心」が目的であり、限度のある「体」は手段として使う。
つまり人間の体の目的は心に従うことである。
そのことは図1でも説明されている。

 キリスト教の教えは
「神と共に天国に至る、つまり幸せになるという良い人生」についてである。
人がそのようになるには聖霊の働きが必要で、
特に人が「悪に勝つ」には聖霊の働きが不可欠とされる。

 「聖書」には「父の働きの時代」としての旧約時代と、
「救い主キリストの働きの時代」としての新約時代、
そして聖霊降臨によって始まりずっと続いている
「聖霊の働きの時代」が書かれている。
聖霊は、神の本当の道、幸せの道、神に至る愛の道を
教会の中にもたらす導き手としてご自分の働きを続けられている。


*旧約聖書

 旧約聖書には悪に勝つための「父(神)の働きの時代」について記述されている。
人間はもともと幸せに向かって良い人になりたいものであり、
悪い人になりたいとは思わない。
しかし悪魔が人間を悪に誘って、人間がそれに負け悪になると愛の道が壊れ、
幸せに向かっていかなくなる。

@「すべての人のため」には「悪の元(悪魔)について書かれている。
悪魔とは神にそむいた天使であり、体のない精神である。
「悪」の特徴は、一つの悪ですべての善がなくなり、
一度心の中に入ると心がしばられて心が狭くなることである。

 人間の構成で一番あいまいなのが感情。
感情に属するものに「欲」がある。
欲は生きるために必要なものであり、
欲そのものは悪くはないが度を超えると悪となる。
なぜなら欲によって心がとらえられてしまうからである。
欲のうち「物欲」が一番あぶない。
なぜなら「物欲」は人間の欲の中で最後に現れるものであるが、
お金によって自分の物がほしくなり、
最終的にはお金によって自分が強くなり、
他の欲も満たしたくなってしまうからである。
「名誉欲」は生まれてから死ぬまで一番根深いといえる。
なぜなら人間は乳児でも高齢者でも誰かに認めてもらいたいものである。

 これらの欲に対し。悪に勝つためにすべての人が守るべき最初の戒めとして
神は「十戒」をモーセに与えられた。
これは、どのような民族の人にも、
どのような人にも一人ひとり良心にきざみつけられている。

第一戒から第三戒は、先ず神に対する信仰を持ちなさいということ。
第四戒は親を認めなさいということ。
神と親から愛されて生まれたと分かれば、
人間にはそれに応える義務があり、
心からの尊敬・愛・信頼が生じるはずである。

第五戒は体を殺してはいけないだけでなく、
精神的にも幸せを妨げるもの(心を傷つける、見下げる、差別するなど)
をどんなに小さくても神は禁じている。
生きていて幸せになる一人ひとりの権利を侵してはいけないという意味である。

第六戒から第十戒は三つの欲に対しての注意である。
物欲に対しては第七戒と第十戒、
肉欲に対しては第六戒と第九戒、
名誉欲に対しては第八戒となる。
偽証、不正、ごまかしは自分の名誉を自己防衛
するためのものだからである。

 ≪十戒≫

第一戒 わたしはあなたの主なる神である。
      わたしのほか、だれも神としてはならない。

第二戒 神の名をみだりに呼んではならない。

第三戒 安息日(主日)を聖としなさい。

第四戒 父母を敬いなさい。

第五戒 殺してはならない。

第六戒 みだらな行いをしてはならない。

第七戒 盗んではならない。

第八戒 偽証してはならない。

第九戒 他人の妻に思いをかけてはならない。

第十戒 他人のものをみだりに欲してはならない。



 十戒が消極的であったのに対し
A「ユダヤ人のため」には積極的に守るべき徳を定められた。
物欲に対して施し(困った人を助ける)、
肉欲に対して節制(快楽、ぜいたくに走らないよう自分の欲を控え、節度を守る。)、
名誉欲に対しては祈り(素直な心で神と対話。神にたてまえは通らない)である。

どの宗教でも、宗教を代表する人は
このような徳を守らないと信者の模範にならないし、
宗教に対しても不信感を抱かせてしまう。


*新約聖書

 新約聖書には「子」としての「キリストの働きの時代」について記述されている。
親と神から頂いた命以上に心を特別に生かす超自然の命を
キリストによって頂くようになる。それは秘跡によってである。

 B「キリスト信者のため」は、この「秘跡」について書かれている。
秘跡とは「イエズス・キリストの制定によるもので神の恩恵を示し、
キリストの働きによって与えるしるし」であり、式として行われる。
この秘跡は信者だけに与えられすべての人には強制できない。
洗礼を受けた人のみに与えられる「成聖の恩恵」は
幼児洗礼を除けば承諾を得てから与える恵みであるが、
すべての人にも「助力の恩恵」が与えられている。
「助力の恩恵」とはすべての人を救うために、
人間の頭を照らし心を強める神の助けである。

 秘跡には結婚・叙階・病者の塗油・ゆるし・堅信・御聖体・洗礼があり、
図1でも説明されている。
人間の欲との関係についてみると、
「洗礼」は人間の最高の資格である神の子になるなることであり、
神の子として名誉欲に負けず、素直な心で神に従うよう、
神のみ旨を果たすような姿勢をとらなければならない。
赤ちゃんの時から名誉欲は現れるから、
一日も早く洗礼を授けるようにと教会は指導している。
「御聖体」は欲を超えた復活されたキリストの御体であり、「肉欲」を押さえる。
そして「堅信」は聖霊と結ばれて人のために尽くし愛をふやす、
つまり「物欲」を押さえることになる。
3つの欲に対して、良い目的のために活かす最終的導きが
聖霊には与えられている。

 最後のC「修道者」のためには3つの欲を放棄する
修道生活について書かれている。
修道者とは家庭を作らなくても、
もっと大きな意味で人のために尽くす使命を持つ。
すなわち貞潔(肉欲を断つことで、結婚しない)・
清貧(物欲を捨て、私有財産を持たない)・
従順(名誉欲を望まない。長上を通じて神に自由意志を捧げる)
の三大誓願である。


4.シモンチェリ神父語録


 シモンチェリ神父は、キリストの教えを伝えるために大切なことを
分かりやすい言葉で誰にでも親しく話される。
神父は、教えを勉強・研究する時は覚えることよりも
毎日の生活の反省をして、
継続的な行動になることを期待なさっている。
そのため、同じ言葉を何回も使われ
信者の間では「語録」と呼ばれている。
毎日の生活の中では仮の物に追われてしまい、
本物の反省は難しい。
しかし反省は一人ひとりしなければならないものであり、
シモンチェリ神父はそのための沢山のヒントを与えるだけだと言われる。
神父から与えられたヒントについてよく考えるならば
結論は自分で見出せるはずであり、
そして実行するための励みにもなっていく。
勿論すべてを通して最終の目的は、
人を神とキリストの信仰に導くことである。


★ 心は何のため?
 
 これはシモンチェリ神父が初めて会った人に必ずする問いかけである。
体の部分について「目は何のため」「耳は何のため」「足は何のため」
「頭は何のため」と聞いた次に「心は何のため」という質問が来る。
答えは、目は見るため、耳は聞くため、足は歩くため、頭は考えるためで、
これは比較的簡単に答えられる。
しかし大切なのは「心は何のため」で、これにはほとんど答えがない。
思うとか感じるとか答える人もあるが、その答えは「人のため」である。

 心は人のために働くと、愛・喜び・善が生まれる。
心広い人は自分のことよりも・・・「他の人のことを考えて行う」。
心の明るい人は周りの人を・・・「明るくする」。
このように「心」について考えさせ、答えを引き出していく。


★ 幸せになりたい人は手を上げて!

 「幸せになりたい人は手を上げて」と質問されると、
この世の中で完全に幸せな人はいないから大半の人は手を上げる。
続いて「手を上げた人は、今は幸せでないのですね」と言われると、
多くの人は「幸せ」について考え直す。
真の幸せは一生の目的だからである。

 同様に「心広い人になりたい人は手をあげて」という質問をして
手を上げる人がいると、
心が狭いのは心が悪にしばられているからであり、
心が神の善・愛に満たされていないと、
そのすきまに悪が入りこみ良い人になりきれないという説明がある。


★ 心は幾らでも広くなる

 「善」は心を広くし、「悪」は心を狭くする。
心が広くなるのを妨げるのは自己中心である。
心を広くすると、幸せ・喜びも大きくなる。
神の愛は恵みで制限はない。
同様に人を愛することにも制限がなく、
心は幾らでも広くなれる。


★ 心を養うものは?


 心は自分では育てられない。
心を養うには相手の心が必要である。
つまりお互いの心の交流である愛が心を養う。
頭を養うのは知識、体を養うのは食べ物、心を養うのは愛である。


★ 心の専門家

 体の専門家は医師で、頭の専門家は学者・教師。
感情の専門家はカウンセラー・精神科医。
心の専門家は神で、心を広くしたいときに相談するのは神。
心に力をあたえるのみ神とキリスト。
その他すでに神とキリストに深く結ばれている人達も
心の専門家といえる。


★ 恵み

 恵みはすべての人に与えられるが、「聖人」には特に多く与えられている。
しかし恵みが多いと、それを人のために活かさなければならない責任も重くなる。
そのような人には悪魔の誘惑もかえって多い。
「神の恵み」を求めるのではない。
なぜなら自分の望む恵みさえ頂けると神を忘れてしまうから。
それに対し「恵みの神」を求めなければならない。
たとえ自分の望む恵みを与えられなくても、
神の愛自身を求めるのである。


★ 素直

 人に一番求められているのは素直な態度。
「謙遜」よりも「素直」の方がはっきりしている。
素直な人は自分自身をそのまま認める人。
自分には良いところと悪いところがある。
良いところは全部恵み。
素直な心で見れば何でも頂いたものと分かる。
頂いたということは下さった方がいる。
恵まれていると思ったらうれしい・幸せだけでなく、
恵みを下さった方に感謝しないといけない。
感謝するために、頂いた恵みを人に分けてあげるのが本当の道。
自分のためだけにとっておくと喜びにならない。
自分の頂いた恵みを人にあげると、
恵みを受けた人もうれしいし幸せになり、
自分も幸せになる。
そして自分に恵みを下さった方にも喜びが生まれる。

 心は善のため。善の反対は悪。悪は認めにくい。
たてまえでは「私が悪かった」と言っても
人から言われると認めにくい。
素直な人は悪があればすぐ認めて直そうとする。

 素直でない人は、自分の良いところを恵みとは思わず
自分のものと思って自慢する。
恵みを人に分けないから、自分にも人にも喜びが生まれない。
そして自分の悪いところを人のせいにする。

 人間同士で素直になるのは難しい。
常に本音とたてまえがある。

 神に対しては素直でないと、自分自身をだますことになる。
神にたてまえは通じない。神には本音だけけでなければならない。
こうして本音でお互いの幸せを祈れるのである。


★ 本物・仮の物・偽物

 「本物」は心のもので幸せになるために無くてはならないもの。
本物は内からのもので永遠に続く。
「聖書」は本物のヒントを与えるものである。
「仮の物」は心以外の外からのもので、いつか終わる。
人間のこの世での命・知識・財産・良い宗教などはここに属する。
「偽物」とは心のものだが、悪と悪につながるすべてが含まれ、
あってはならないもの。
なぜなら自分と他の人の不幸を招くものになるからである。


★ 信仰と宗教

 信仰は目的で宗教はその手段。
信仰に生きることが目的で、教えと儀式はその手段。
教えと儀式は宗教によって異なる。
信仰は内から、宗教は外から。
信仰は本物で宗教は仮の物。
信仰は内からの義務で宗教は自由。
信仰はすべての人にある内からの心の動きで神と結ぶ。
人間の心を満たす唯一のものだが
目に見えないので伝えるのは難しい。
宗教は宗教家と結び、国によって、時代によって変わる。
目に見えるもので雰囲気を出せるため、教えるのはやさしい。
宗教は信仰を育てるために人間が作ったものであり、たてまえでもできる。
信仰は本音で生きていなければ人には伝わらない。
信仰からは喜びが生まれるが、宗教からは楽しみしか得られない。


★ 楽しみと喜び

 楽しみと喜びは同じではない。
楽しみは外から、喜びは内から。
楽しみは一人でもできるが、喜びは一人ではできない。
楽しみは感覚的なもので、喜びは精神的なもの。
喜びは人から良いことをしてもらった時と
人に良いことをした時に生まれる。
本当の喜びは心からあふれて出会う人に自然に伝わる。
楽しみは良い場合と悪い場合があるが、喜びはいつも良いもの。


★ 愛

 愛そのものである神からの恵みは善であり、
その善を人に分けることが基本。
愛をもってその恵みを人に分けてあげる行為が幸せの道で、
毎日頂いている恵みを人に分けてあげることが神への感謝であり喜びのもと。
愛があれば規則はいらない。
自分を愛することは自分の心の成長を常に求めることである。
愛は一人ではできず、あげる相手が必要。
他者にでなく自分のみを愛する「利己主義」は愛の反対といえる。


★ 「愛」 「忙しい」 「詣でる」という字

 「愛」という字は心を受けると書く。
「忙しい」は心を亡くすと書くので、なるべく使わないように。
「初詣で」の時、自分の旨(願い)を神に言うのでしょうか、
それとも神の言われる旨を伺うのでしょうか。
どちらが人間にとって大切なのでしょうか。


★ 好き・嫌い

 好き・嫌いは感情であり、自分で思うようにできない。
しかし愛するのは心であり、本物。
従って、嫌いな人でも愛することはできる。
怒るのは感情で罪ではないが、憎しみは罪になる。


★ 善と悪

 善の反対が悪。本当の罪が悪。
罪には社会との関係があり、規則・法律が多いとふえる。
悪には神との関連がある。
知っていてするのが悪。
知らないでした場合、心の痛みはない。
神の意識が強くなると罪の意識も強くなる。
心がしばられると幸せにはなれない。
心をしばるのは悪。
人間との関係における罪は自分で直せるが、悪は直せない。
神によってゆるされると心は自由になり、新しい命が与えられる。
多くの悪はゆるされるが、聖霊に反する悪だけはゆるされない。
悪がゆるされるためにキリストは十字架上の上に
自分自身を父なる神に捧げられた。
 罪にも悪にも罰がつくものである。
あいかし罪の場合はほとんど自分で償うことができるが、
悪の場合はキリストのあがないが必要である。


★ 義務

 「本物」は自由でなく義務。
つまり、信仰・人を愛する・神に感謝する・心を広くする・善を行うなどは
内からの義務であり変えられない。
外からの義務は、人間がつくったものであり法律・税・学校の規則
などで変えられる。また例外がある。
内からの義務を果たす時に辛かったとしても喜びが生まれるが、
外からの義務の場合はうれしいかどうかわからない。


★ 一日一善?

 善は内からの義務であり、一日に何回でも出来る。
出来るだけ沢山の善を出来るだけ沢山の人に
毎日行うようにしなければならない。
それによって自分にも相手にも喜びが生まれる。


★ 幸せ

 幸せは自分では作れない。人の幸せを自分が作る。
自分の幸せは人が作ってくれる。
自分が幸せになるのは義務。
なぜなら神はすべての人が幸せになるのを望んでおられるのに、
自分が幸せでないと周りの人も幸せになれない。


★ 仕事と使命

 仕事は自分で選び、変えることもできる。
仕事は自分の都合(給料、自分の趣味など)で選ぶもので
自己中心的なもの。
しかし、仕事がうまくいかないで悩んだとき、
自分で解決しなければならず誰に相談したらよいか分からない。
そして仕事が終わると寂しくて無気力になることもある。

 使命は自分で選べない。
特に大きな使命は神から頂くもの。
自分のためではなく、人の幸せ・人の利益のためのもので
喜びにつながる。
困難なことが生じても使命をを与えた方に相談できるので
安心することができ力がわいてくる。
使命は終わらない。
人生全体を考えると神からの使命は死ぬまで続く。
神のもとで本当の報いを受けることになるので、
常に希望にあふれていることができる。


★ 教育と勉強

 教育は考えさせて中からのものを引き出す。
教育は心にまで届くものであり、
一生かかるので結果はすぐに出ない。
人を教育する教育者は神からの使命である。
心までも育てようとする人は教育者といえる。
 勉強は外からの知識を与え、すぐに結果が分かる。
知識ばかりを与える教師・教員は仕事である。


★ 人生の卒業おめでとう!

 生きている間に神から与えられた人は、死んだ後、神から報いを受ける。
それは神の栄光を受けるために永遠の住まいである天国に入ること。
仮の世で苦労した人生の完成であり、「人生の卒業おめでとう」といえる。
キリストの「すべては成し遂げられた」という言葉がそのものでしょう。
愛する人の死によって残された者は悲しみ、寂しいが、
天国に行かれた者にとってこの世との別れは喜びとなる。


★ 心は一つ

 死や別れによって体は離れても、心はいつでもどこでも一つになれる。


★ 結婚

 結婚する人に
「結婚してからと独身の時とどちらが楽ですか?」と尋ねると、
「独身」と答える人が多い。
では何故結婚するのかといえば、
一人では楽ができたとしても喜びが共有できないから。


★ 教会

 教会の中心は御聖体。
御聖体は永遠の命を与えるもの。
教会の目的は福音宣教。
キリストを通して神に至る道を教え、
神との関わりを深める。
 教会は信仰を深める雰囲気を作る責任がある。
特に日本では初めて教会を訪ねる人のためにそうである。


★ 努力と協力

 努力することは自分だけがするのではなく、
神様がなさることに対して協力する。
どんな努力も協力につながらないといけない。
神のみ旨に今日一日協力する。
協力は行動だけでなく、祈りもできる。
毎日の苦しみや辛さを捧げることも協力になる。


★ お金

 お金は沢山あっても良い。
なぜなら貧しい人を助けてあげられるから。
自分のために貯めるだけならば良くない。


★ 休み

 「休みは何のため?」と質問すると
多くの人は「疲れを癒すため」と答える。
しかし休みは手段であって目的ではない。
休みの目的は次にやるべきことの
準備をするためであり、そのためには休みも必要。


★ お友だち

 「神父さまのお友だち」と信者たちが呼んでいる
ホームレスの人達が神父を訪ねてくる。
彼らはお金・食べ物を貰いにくるだけでなく、
神父との話を求めている。
このような貧しい人に対する神父の接し方は幼い頃に見た、
神父のご両親の愛にあふれた行動の影響と言われる。





御聖体と聖母の使徒

http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp

http://church.jp/hushiginomedai