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尊き日本の殉教者たちよ、どうか我等を守り、導き、助け給え




日本殉教者録 (1597年 - 1873年)



純心なる魂

MARTYRES JAPONENSES

文 アントニオ・セルメニオ神父様
絵         横道  昴  氏




日本二十六聖人殉教者 百年記念  1962年



 キリシタンの歴史は、世界の歴代における一つの麗しいエピソードであるが、日本国民にとっては最も尊い涙ぐましい物語である。

 迫害者の誤解によって反逆者とみなされたキリシタンは、二百年間の残虐な迫害のもと惨々にされたにもかかわらず、惜しみなく身を恐ろしい拷問に委ねた。
あらゆる困難を忍耐強く堪え忍び、名誉や財産を失い、血にまみれた尊い信仰を最上の財産として子孫に残したのである。これこそ大和魂の典型とも言うべきである。



殉教者の元后



 殉教者の数は神様だけがご存知である。記録に残っている殉教者の名前とその死刑のありさまは、三千百二十五名ほどに上る。その他に大勢の人々が死刑に処せられたことはよく知られている。1624年には二千人ほどの信者が死を遂げたといわれている。また1638年には、海に投げ出されたキリシタンは四千人以上であったといわれている。新井白石によれば家光公の支配下の終わり頃に、飢えと貧苦によって倒れたキリシタンは二十万から三十万であったとのことである。

 本書において、その美しい殉教園よりいくつかの花を紹介したいと思う。
聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸(1549年)して以来、しばしばキリシタンへの圧政が起こったが、全国的迫害は秀吉の時(1587年7月24日)から始まった。




聖フランシスコ・ザビエル下関上陸



 九州征伐の時に、さまざまな誤解と施薬院(徳雲院)の進言により、秀吉はカトリックを公に禁じた。その最初の犠牲者は高山右近であった。

 九年の後サン・フェリペ号事件の関係で、秀吉は関西地方の全てのキリシタンの名簿を作るよう命じたが、奉行の石田三成の厚意によって二十六名が残された。





 高山右近その他のキリシタン武士は、聖パウロを初めその他逮捕された信者たちが、主の御ために迫害されることを心から喜び、励ました。





 石田三成の計らいによって殉教者の苦しみはいくらか軽くなった。左の耳の一部分が切られただけで車に乗せられ、堺や大阪、京都等をめぐり長崎までの長い旅路を始めた



 冬であったから旅路の困難は想像に余りあるものであったが、殉教者たちは聖歌を歌ったり、熱心な祈りや談話をもって互いに励まし合い、そのことは迫害する側の者たちに対しても大きな影響を及ぼした。



 茨木ルドビコという12歳の少年は、寺沢八三郎から、「キリシタンを捨てれば命を助けて武士に取り立ててやる」と優しくさとされた。

 ルドビコの答えは意外であった
「お奉行様、あなたこそキリシタンにおなりなさいませ。そして一緒にパライソ(天国)に参りましょう」

 翌日十字架につけられた時ルドビコはおどらんばかりの喜びにあふれていた。




 ルドビコと、13歳のアントニオと14歳のトマス小崎ら二十六名の殉教者は十字架につけられ、長崎の立山の上で神と日本のために慈しみの犠牲となった。(1597年2月5日)





 秀吉の死後、徳川家康が天下を取った。彼は熱心な仏教徒で、関ヶ原で戦ったキリシタン反軍への憎しみか、キリスト教を禁止するように指示したため、いろいろな大名がキリシタンを迫害し始めた。例えば山口の毛利公は、家老であった熊谷元直とその百人の家来を萩において死刑にした(1605年)。
加藤清正は、以前小西行長の領地であった所を獲得し、そこの信者を厳しく迫害し始めた。細川忠興も、亡き妻ガラシャや母もキリシタンであったにもかかわらず、セスペデス神父が死ぬや否やキリシタンの敵となった。有馬の直純ミカエルは家康を恐れて、父晴信の遺児フランシスコとマテオを殺し、次いで三人の重臣及びその妻子を火あぶりの刑にした。かれらの名はレオ林田助左右衛門とその妻マルタ、その子二人マグダレナとヤコボ、アンドレア高橋主水、その妻ヨハンナ、レオ竹富勘右衛門、その子パウロであった。(1613年)



 刑場のまわりには三万以上の大群衆が集まり、花やローソクを持って聖歌を歌いながら殉教者を迎えた。

 殉教者が火に包まれている時、十歳のヤコボはその縄が焼け切れて、いきなりお母さんの所へ飛び込んだ。イエズス、マリアの聖名を唱えて母の足下に倒れたのを、母は「我が子よ、パライソ(天国)を仰ぎなさい」と優しく慰めた。




 同時にマグダレナ(18歳)は死が迫っているのを見て、火を拾い頭の上に花の如く楽しげに置きながら、火の上に安らかに身を伸ばして永眠した。


 将軍秀忠や特に家光の支配下、迫害が激しくなって幼老を問わず信者は迫害を受け死人さえも許されなかった。彼等の墓が神の国日本を汚すという理由で骨は掘り出され火で焼かれてその灰などは海に捨てられた。
 妊婦のキリシタンに対しても妊婦は勿論のこと、生まれてくる子供をキリシタンにしないと約束するように強制されたこともあった。キリシタンの迫害者の中で最も残酷卑劣な仕業に関して著しい記録を残したのは梅目、大村、有馬豊後、長谷川権六、水野河内、今村伝四郎、長門、馬場三郎左衛門、神田又左衛門等であった。しかし彼等を激励したのは家光公であった。
 彼はエロニモ・デ・アンゼリスとフランシスコ・ガルベス両神父の逮捕されたことを聞いて、彼等が見いだされたことが、全国に革命が起こったことよりもくやしく思うと言った程であった。


 
 長崎の大殉教に当たって(1623年)7人の子供が含まれていたが、彼等は自分の形見として嬉しげに髪の一切を人々に与えて刑場へ走り出した。彼等はより気高い国のために生まれた者で、自分の首を刃に委ねながら塀の外で生け贄を眺めているキリシタン群衆と共に祈りをとなえ、また下の海では船に乗っている信者たちが、楽器をならし歌をうたって彼等の勝利を称えていた。




 その一人は小さきイグナシオであった。たき火にかくれて見えないのでスピラノ神父はイサベラ夫人に向かって「お坊ちゃんは?」とたずねると母は我が子を揚げて「ここですよ、私と一緒に死ぬことはとても嬉しいですよ」と言って神父に祝福を乞うた。まもなく母の首が切断されて坊やの側に転んだ時、頭を下げて美しい生命の花を神へ帰した。




 ある小さい子供は刑場で泣いていた。「泣けば殉教者になれないよ」と誰か言った。するとすぐ泣き声を止めてにこにこ笑った。


 
 八歳のフランシスコは父の亡骸の側に立って泣いていた。「おまえは石原孫衛門の子でしょう。お前もすぐパライソ(天国)へ行くのでお父さんにまた会える」と誰かが言った。フランシスコは「ああパライソ、パライソ」とうれしそうに繰り返しながら役人の腕で眠ってしまった。
彼はかわいそうに思って子どもを殺さないで優しく土の上に寝かせたが、もう一人の役人が来て短刀で心臓を三度貫いた。


 ある少年は「改心せよ、改心せよ。」と言われたが、知らん顔をしているうちに火がその掌におかれた。しかし彼は歯をくいしばって火が消えるまで我慢した。そして役人に向かって「今やったように今後も全身が火あぶりにされるとも信仰を捨てない」と言って退いた。堺のある一人の少年は、両親に一緒に殉教することを許して貰いたいと一生懸命願ったが、「お前は一寸の火に触れるだけでも耐える事が出来ないのにどうして火あぶりなどに耐えられるか」と言われた時、少年は黙って台所に行ってかまどの中の焼けている鉄棒をつかんだ。両親はあわてて捨てるように言ったが、少年は、少年は両親が殉教に加えてくれる約束をするまで放さなかった。


 
 シメオン末滝は16歳の青年であった。その家族はキリストのために殺されたが彼も幾度となく拷問を受け、特にあの恐ろしい雲仙のお湯をかけられたのである。
役人たちはその勇敢と信仰の固いことに驚いて、「どうしてか、いったいお前は何を勉強したのか」とたずねた。末滝は次のような不思議な返事をした。「私が勉強したのは死の学問だけだ」




 長崎奉行長谷川左兵衛はキリシタンを捕らえるように命令を発した。信者は大勢だったので、もし縄がなくて自分たちが捕らえられなければ困ると言いながら信者の多くは縄を持って行った。
15歳以下の少年による聖ヨゼフ会の会則の一つは次のようであった。
 一、我々は爪をはがれ歯を抜かれ、水責めや火あぶりをされようとも決して信仰を捨てないこと。




 「この指をきってよいか」と役人がパウロ内堀左衛門にたずねた。「思し召しのままになされませ」と答えた。役人はいきなり次男アントニオの両手の中三本の指を切断するやいなや、その長男バルタサルも同様にした。次ぎに三番目の子イグナシオ(5歳)の右の人差し指を切断した時、彼は顔をそむけもせず右手を出し両手の血の出るのを面白そうに眺めた。その勇敢さを兄たちは褒めた。




 続いて他のキリシタンと一緒に船に乗せられて沖に行き、そして海に投げ込まれたり又しばらくの間出されたりして遂にアントニオが溺死し、次ぎにバルタサルも死んだ。
イグナシオも波の上で長いこと弄ばれ他の人と共に波の上に捨てられた。




 生き残った13人のキリシタンは陸にもどされ、裸にさせられ両手の指を切られ「宣告の板」を肩に背負いながら、あっちこっちを引き廻された。「之等の宗門に世話をしてはならぬ、宿等を与える者は死刑にすべし」と宣告の板には書かれていた。
しかし信者たちは禁令にもかかわらず親切にしてくれた。




 その間幾人か亡くなって、生き残った殉教者は雲仙に上り、その地獄の中で惨々に責められた。最後に投げ出されたのは内堀左衛門であった。彼は死が迫っているのを覚り、水面に頭が浮かび上がった時「御聖体は讃美せられよかし」と言い残して死んだ。




 信仰のために勇ましく戦ったのは信者のみではなかった。その指導者も勿論だった。アウグスティノ会、ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会の無数の宣教師は惜し気なく命を捨てて殉教の栄冠をかちえた。
 聖ヨゼフのフェルナンドとアルフォンソ・ナバルテ両神父は死刑にされる時、一人はある枢機卿よりいただいた十字架を出しローソクを持ちながら、フェルナンド神父も己の首を切るべき刀にうやうやしく接吻して役人に感謝して命を捧げた。彼等の遺体はマチャド神父と御昇天のペトロ神父の遺体と共に沖に捨てられた。




 1623年10月4日。品川(江戸)における大殉教の時、18人の子どもが含まれていて、その母親の目前である者は首を切られたり、他の者は真っ二つに切断されたり、あるいは手足が折られたり抜き取られたりしている間、子供たちは無頓着に自分の番が来るまでお人形や花等で笑ったり遊んだりしていた。




 その殉教者で最も有名なのは原主水であった。彼は身分の高い人で家康の親戚であったが、信仰のために追放され財産を失い、手足の指を切断され、まるで浮浪者のような生活をしなければならなかった。落ちないように馬の上に結び付けられ、最後にエロニモ・デ・アンゼリスとガルベス両神父と共に火あぶりにされた。




 他の五十名余りの仲間は先立って拷問にかけられた後、刀や火あぶりで殺された。




 これらの遺骨などは三日間刑場に残されたが、土地のキリシタンは塀を倒して先を争うように拾った。それを聞いた家康は大いに怒り、彼等を逮捕することを命じたので、三百人以上が次の年に処刑された。




 キリシタン宗門をやめなければ裸にされひどい目に合わせる、とヨハネ内膳の妻モニカがおどされた。しかし彼女は、「信仰のためなら身体の皮膚さえも自分の手ではぎとる」と勇ましく答えた。その7歳と二歳の娘の水責めを見ながら、他の婦人たちと共に聖母の連祷を唱えているうち首が切られた。婦人達の亡骸は火あぶりにされていた主人たちの足もとに投げ捨てられ、一緒にキリストの犠牲となった。(1626年7月20日)




 10月7日(1619年)賀茂川(京都)の近くの大仏の傍らに二人づつ柱に縛られた52年のキリシタンが見えた。母親も幾人か我が子を抱いていた。その一人ヨハネ橋本の妻テクラは三歳のルチアを抱きかかえ他の子ペトロ(6歳)とフランシスコ(8歳と一緒に縛られていた。遠くない所に12歳の次男トマスと13歳の長女カタリナが見えた。「お母さんどこにいるの?」と煙に悩まされたカタリナが叫んだ「わが子よ、イエズス、マリアの聖名を呼びなさい」と母がすすめた。
あの昔の聖女フェリチタスと聖女シンフォローザのように、6人の殉教者の母であった。長女ミカエルは栄冠を得なかったが胎内に宿っていた子供はその席を補った。




 仙台の伊達政宗が江戸の七十二人のキリシタンの惨たらしい最後を見て、領地に戻って迫害を始めた。選ばれた一人はカルバジョ神父に宿を与えた七十歳のヨハネ安西とその妻アンナであった。
 まず水に責められた後、水の中に長く入れられ最後に裸にされて馬の上に乗せられ、町を引きまわされた。往来の人々が汚水を浴びせたりして侮辱をされた後、水の責めによって死んだ。


 同時にカルバジョ神父その他のキリシタンの殉教が行われた。1624年2月25日裸にさせられ川の近くにあった小池の中で、あるいは座ったり、あるいは立ったりしながらしきりに見物人の嘲り声を聞いていた。池から出された時二人は気絶していた。しばらくしてまた冷たい池の中に死ぬまで閉じ込められた。一番終わりに息が絶えたのでカルバジョ神父であった。


 雲仙の地獄は数知れぬ殉教者の勝利を眺めた名所である。アントニオ石田神父とその七人の伴は有名であった。その中の二人は女であった。毎日六回程あの熱いお湯を浴びせられ肉体が骨になる程責められた。
 終わりに火あぶりの宣告を受けたが、役人の計略に傾きもせず聖歌を歌いながらキリストの犠牲となった。


 トマス辻神父の親戚は自分たちの悲惨な状態を口惜しがって、彼の信仰の没落を試みた。しかし神父は十三か月の長い祈りと戦いによってびくともしないで、二人の仲間と共に火あぶりにされた。
 その折り不思議な出来事が起こった。今まで火に全然ふれていなかった胸から突然まぶしい光が立ち上り、しばらくの間続いたので見物の人々はおどろいた。




 殉教者の忍耐もはなはだしかったが、迫害者の頑固はいっそうひどかった。あらゆる方法をもって信仰の滅亡を試みたのである



 水の責めは恐ろしい試練であった。柄杓をもって腹が樽のようになるまで人の口に水を入れ続けた。それから役人が腹に飛び上り、振るっておどり、水は口、鼻、耳などを通して出、血や胃腸があたりに出るまで踏みつぶしたのである。聖ドミニコのトマス神父と同僚は、二百杯もの水を飲まされたことがあった。フランシスコ・マルケス神父は(母は日本人であった)百五回この責めを受けた後首を切られたのである。
 苦しい拷問のためにたくさんの人が信仰を捨てたことも不思議ではない。



 今までに述べたことのない、最も激しく類のない拷問があった。
 それは人を逆さにして汚い下水の中へ押し込めることであった。時として吊されていない片方の足に重い石を付けたり、または手に鈴をぶらさげて、手に鈴をぶらさげて、手を動かして鈴が鳴ると信仰を捨てる印とみなされた。



 弱い心を励ますために、殉教者の娘でマグダレナという美しい乙女が現れた。彼女は天使のような生活ぶりによって、その地方の人々からは聖人のようにあがめられた。またその美しさと才能によって、はなはだしい誘惑に悩まされたが潔く抵抗したため、最も長くひどい拷問にせめられた。骨が抜かれ指や爪をつぶされ、しばられた足を逆さに吊され、手に大きな石を付けたまま水の中へ入れたり引き上げたりして水の責め苦を受け、他の十人と共に下水の拷問にかけられた。



 仲間の十人がまもなく死んだが、マグダレナは飲食せずあらゆる苦しみを十三日間受けつづけた。その殉教にあたっていろいろな不思議な出来事が起こったがついに大雨のために縄がゆるんで溺れて死んだ。亡骸は火で焼かれ海に捨てられた。
 けれどその勇ましい精神はその時代のキリシタンの心の底まで深く刻み込まれ、彼等は死も拷問も恐れない勇敢な人となった。



 その激しい時代に島原の乱が起こった。原因は宗教的なものではなかった。土地の大名やその下役人の乱暴で発したものである。初めは信者も未信者も区別なく戦ったが終わりに城にとじ込められた。仏教徒は降参すれば許される。しかしキリシタンは惨々にされるとのことで前者が退いても後者は覚悟を固めて戦い続けた。
 真の自由のために潔く倒れた英雄は三万七千人であった。




 鎖国のために宣教師等がいなくなって、キリスト教は悲惨な状態におちいった。その全滅をねらって毎年節分の頃に踏み絵が行われた。踏み絵をしない者は火あぶりにされたのでキリスト教は次第に滅んでしまったような状態であった。
 しかし、長崎、五島その他離れた部落の中にキリシタンはひそかにその信仰を守り続けた。



 1865年2月に長崎の大浦天主堂の献堂式が行われてから後(3月17日)に、十五名位の田舎者が教会見物のために入ってきた。しばらくたって一人の女がプチジャン神父に近づき、耳に口を寄せてささやくように、「私たちはあなたと同じ心です。サンタ・マリアの御像はどこでしょう?」とたずねた。神父は驚き彼等を聖母の前に案内した。「ああ本当!幼きイエズス様を抱いていらっしゃる」とうれし涙を流した。この人たちは浦上の人であった。


 数ヶ月後、これらのキリシタンが発見されて最後の迫害が始まった。六千人が日本全国に散らばって追放されたが、幸いに、明治天皇の御慈悲によって嵐が静まり信仰の自由が与えられた。(1868年〜1873年)
 あの時代の犠牲の中で、山中鶴という娘は有名であった。萩においていろいろな方法で苦しめられ、終わりに一週間雪の中に埋もれたままで、役人共から「改心せよ、しなければそのまま死ぬのだ」とせまられたがそのままじっとしていた。後に修道女となって布教のために名を残した立派な方である。



 島根県津和野に流されたキリシタンたちもひどい目に合わされた。三十六名の信者たちが拷問の末に亡くなった。ドミニコ高木善衛門と森山甚三郎とは何度も氷の張った池に投げ込まれた。善衛門の話によれば、自分が死にそうになるたびに聖母マリア様が現れ、力を与えて下さったということだ。



 ヨハネ・バプチスタ安太郎は心の優しい人であった。狭い三尺牢という箱の中にとじ込められて外庭に出された。冬の厳しい時であったために寒さに耐えがたくなってきて、病気になり死が近づいた。賄いの知らせによってその危うい状態を知った深堀たちは夜を利用してこっそりと近寄った。そして「死が近づいてきてさぞお淋しいでしょう」と言うと、「いいえ少しも淋しくない」と彼は答えた。「毎晩美しいお姫様のような十六,七歳位の若い方がお現れになり優しいお声で私を非常に慰めて下さいます。私はきっとサンタ・マリア様でいらっしゃると固く信じております。でも、このことは私が生きている間はだれにも話さないで下さい。」と言って二、三日の後、主において永眠した。



 数十年の後、聖母の御出現と殉教者の光栄を得たこの聖地「乙女峠」は、後に教会の土地となり(1939年)1951年にかわいい小聖堂が建てられた




 聖母マリア様が迫害の受難にあって信仰の祖先であるキリシタンたちを慰め、力を授けられたように、主のお取り次ぎによって、流された多くの殉教者の尊き御血が大きな実を結びますように。
 そして日本がその功徳によって栄え、神の光に照らされて、アジアを始め全世界に向かって、信仰と愛とによる永遠の平和、真の幸福をもたらすことを祈りつつ・・・。



日本の聖母