(1)ファティマの預言
ポルトガル・コインブラカルメル修道会の聖母マリア様の御像
場 所:ポルトガルの首都リスボンの北方55Km(ファティマ)
年月日:1917年 5月13日から10月13日まで毎月13日
立会者:三人の牧童ルチア(9歳)、そのいとこのフランシスコ(8歳)、ヤシンタ(6歳)
内 容:<第一の預言>「戦争はまもなく終わる」
出現当初の続行されていた第一次世界大戦の終結についてです。翌年11月に終結しました。
<第二の預言>「神に逆らうことをやめないなら、もっと大きな不幸が起こるでしょう。夜間に大きな不思議
を見たら、それが戦争の始まりであり、神が世界に天罰を下されるしるしと考えなさい。
ロシアは、その俗説をあおり立て、教会に迫害を加えるでしょう」
1938年1月26日、太陽の異常現象が西欧全土にわたって確認され、翌年、第二次世界大戦が始まり
ました。ソ連政府は「宗教は人民の阿片である」というマルクス、レーニンの考え方に基づき、宗教その
ものを否定しています。
<第三の預言>「白衣の司教が銃弾の中で死んだように倒れる」2000.05に発表されました。
1981年にサンピエトロ広場で銃撃され、重傷を負った法王は、ファチマの聖母に
命を守られたと信じていることが広く知られています。
公 認:ご出現の13年目に「ファティマ聖母崇敬に関する教書」をもって公認されました。
後日談:ルチアはカルメル修道会の修道女になりました。
フランシスコとヤシンタは2000年に教皇ヨハネ・パウロ・2世によって列福されました。
シスタールチアは2005年2月15日に帰天されました。今はご出現をうけた3人が揃って私たちのために祈ってくださっています。
ファティマの聖母マリア様のご出現について 詳しくはこちらを読んでください。
(2)ロシアの回心
場 所:ファティマ
年月日:ロシア革命が始まってから5ケ月後の7月11日
立会者:
内 容:「教皇さまは、ロシアをわたしに奉献するでしょう。そしてロシアが回心し、世界に平和のひとときが訪れる
でしょう。」
1952年教皇ピオ12世は、ソ連とその支配下にあるすべての国民をマリアの汚れないみこころに奉献され
ました。
公 認:
後日談:
(3)ルルドの聖母
場 所:フランスのルルド
年月日:1858年3月25日
立会者:少女ベルナデッタ(14歳)
内 容:神学の知識もなにもないベルナデッタが不思議な光に包まれて出現された貴婦人に「お名前はなんですか?」
と尋ねるとその貴婦人は両手を合わせて、「わたしは原罪なくして、やどった者です」と述べました。聖母が
ベルナデッタに指示した所を掘ったところ、そこから清水がわき出て、多くの病人をなおしている。この水は
町の井戸水と同質であり、しかも医学の限界を越えた超自然の効力があることが実証されました。
公 認:タルブ司教は1862年1月18日「神の母、無原罪の聖マリアがマッサビエルの洞窟で、ベルナデッタに
18回にわたり、ご出現になったことを確実なこととして信者が信じるのは正当である」と判断して公認しま
した。
後日談:ベルナデッタは35歳でこの世を去りました。1933年12月8日に列聖され、その遺体は百年たった現在
でも奇跡的に腐敗せず、ヌヴェール修道院の聖堂に安置されています。
(4)ふしぎのメダイの聖母
場 所:パリの中心街、ルュ・ドュ・バック通り140番地、聖ビンセンシオ修道院の聖堂
年月日:1830年
立会者:カタリナ・ラブレ修道女
内 容:ヴェールを左右足までたれ、地球の上に足をのせ、十指には宝玉の指輪をはめていました。そして、その指輪
から不思議な光が出ていました。聖母の説明によると
「この地球は全世界の人々を表し、宝玉から放つ光はお恵みのしるしで、 わたしにより頼む者に
お恵みを雨と降らせましょう」
という意味でした。また聖母の姿全体が次の金文字で囲んでありました。
「無原罪のおんやどりであるマリアよ、あなたより頼む人のために祈ってください」
それから、金文字の輪の裏側にマリアの頭文字Mが現われ、その近くに十字架とその下にはキリストと聖母の
みこころが並び、この全体を囲んで聖母の特権を示す12の星が散りばめられていました。
最後に聖母はカタリナ・ラブレ修道女に
「このようなモデルのとおりにメダイをつくりなさい」
と勧めました。1832年からこのメダイが制作されて全世界に普及され、おおくの奇跡がおこりました。
公 認:教皇グレゴリオ16世は1836年ふしぎのメダイの聖母出現を確認し、「地球儀の聖母像」といわれる出現
は、聖カタリナ・ラブレの死後、レオ13世教皇の世に公認されました。
後日談:聖ビンセンシオ修道院の門をくぐると、すぐ左側のところに聖女カタリナ・ラブレと聖母マリアのご像が立っ
ています。聖堂内の正面に向かって右側に聖カタリナ・ラブレの遺体がガラスの棺の中に収められ、その前方
に聖母マリアが聖女ラブレと話されたときにお掛けになったとつたえられる椅子が置かれてあります。
日本では、このメダイを首にかけた鉱山技師が廃坑から奇跡の生還をしました。技師は北海道支笏湖の廃坑調
査にいき3Kmほど入ったところで天盤から落ちる雨水でカンテラの火が消え、線路にそって歩いていると交
差点にぶつかりました。疲れ果てた技師は横になりました。その瞬間、天盤からの水滴が首筋にひやりと落ち、
首にかけていたメダイに気づきました。技師はメダイを首からはずし、左右に振り動かし自動的に止った線路
にそって歩きだし無事生還したそうです。
(5)スペインのガラバンダル
場 所:スペイン北部のガラバンダルという小さな村
年月日:1961年
立会者:11歳、12歳の女の子4名
内 容:特に聖職者の刷新を求めて次のようなメッセージを伝えました。
「たくさんの犠牲と償いをしなければなりません。しかし、それよりも先に、善人とならなければなり
ません。あなたたちの母である私は、聖ミカエルを通して回心を勧めます。すなおな心で祈りなさい。
わたしは、願いを聴き入れるつもりですから・・・」
聖母の勧める祈りとは、聖祭にあずかること、聖体拝領をすること、聖体訪問すること、ロザリオをとなえる
こと、イエス・キリストのご受難を黙想すること、スカプラリオを身につけることなどです。(出現を受けた
少女のひとりコンチータがまとめたものです)「犠牲のためには、どうすればよいのでしょうか?」とたずね
ると聖母は、
「従いなさい、がまんしなさい。・・・この苦しみと悩みを全世界の罪の償いと、特に司祭の罪の償い
のためにささげるようにと、神は願っておられます。」
公 認:公認はされていません。
後日談:教会の態度は厳しいものでした。教皇ヨハネ・パウロ2世の口添えでだんだん和らいでいます。
(6)仙台キリシタンに伝わる聖母像
場 所:仙台
年月日:昭和11年5月23日に発表(伊達忠宗300年祭のとき)
立会者:
内 容:北海道生まれの青年が家宝という小さな象牙の聖母像を公表しました。青年の祖先は仙台のキリシタンで伊達
忠宗から迫害されて北海道に逃げていたのでした。
聖母像の足元には「スブ・トゥウム・プレシディウム・・・」(おん身のご保護によりすがり奉る・・・)と
ラテン語で書かれています。青年の祖父が聖母像の秘密を以下のように話された。
「これはビルセン(処女)、サンタ(聖)、マリアというものだ、私が11歳のとき、父が亡くなって
私と二人の妹はおじいさんの家に引き取られていた。11歳のある夕方、わたしの病気が重くなり医
者もさじをなげていた。おじいさんは私に晴着を着せ、私の腕をとって、この聖母像に目をすえなが
ら祈った。”ビルセン(処女)、サンタ(聖)、マリアさま危険なときわたしはいつもあなたを守り
続けました。おん身は今、わたしの苦しみをご存知あそばすゆえに、この子を救いたまえ。わが家系
の希望・繁栄はこの子の将来にかかっております。もしこの家に死が必要ならば、わたしの生命をこ
の子の代わりにささげ奉る”おじいさんはそれからも熱心に祈り続けた。翌日目が覚めたとき、おじ
いさんは亡くなっていた。私の生命は明らかにビルセン(処女)、サンタ(聖)、マリアさまによっ
て助けられたのだ。」
公 認:
後日談:
(7)お泣きになる聖母
場 所:フランスのサレット(アルプス山中)
年月日:1846年
立会者:少女メラニー(15歳)、少年マクシミン(12歳)
内 容:出現された聖母マリア様は、
「もっと償いと祈りに励みなさい」
と告げられました。このとき聖母は石の上に座り、両手でみ顔をおおって泣いておられました。後にこの聖マ
リアは「お泣きになる聖母」と呼ばれるようになりました。聖母は主のはしためを表すエプロンをつけ、首に
は十字架のついた小さな鎖をつけていました。
公 認:公認されていません。
後日談:聖母から子供たちに託された秘密は公表されず、秘密に関する論争はしてはいけないとされています。
(8)イタリアのモンティキャリ
場 所:イタリアのモンティキャリ
年月日:1947年から1976年
立会者:若い女性ピエリーナ・ジリ
内 容:たびたび出現され、ロザリオの祈りをするよう、大天使聖ミカエルのご保護を願うよう勧められました。19
76年の出現のときには、悲しげな顔で
「聖職者が・・・母であるわたしを教会から追い出し、信心の心をわたしから引き離そうとしています。
・・・どれほど大勢の人が滅びの道を走っていくことでしょう」
と。これに続いて聖母は祈りと犠牲と償いを勧め、教会と教皇への忠誠を求めました。
公 認:公認されていません。
後日談:
(9)津和野の乙女峠
場 所:津和野の乙女峠
年月日:明治2年
立会者:ヨハネ・バプチスタ・榊安太郎(30歳)
内 容:キリスト信者という理由だけで長崎の浦上から津和野へ連行されて三尺牢(約91センチ立方メートル)に閉
じ込められ、洗脳を飢えで棄教を強いられました。しかし、安太郎は信仰を捨てるくらいなら死を選ぶという
覚悟で迫害者に抵抗しました。夜中に青い着物を着た聖母のような女性が現われ、話しかけるので、安太郎は
寂しくなかったそうです。
公 認:公認されていません。
後日談:三尺牢にいる安太郎と聖母の像の除幕式が1987年5月3日の乙女峠祭りにおこなわれました。
(10)星の聖母
場 所:フランスのポンマン
年月日:1871年1月17日
立会者:6人の子供たち
内 容:谷間の部落の一軒の屋根の上に美しい貴婦人の姿で聖母が現われたのです。そのすぐ背後には特に3つの星が
三角形の間隔で大きく輝いていました。ポンマンの聖母は「星の聖母」と呼ばれています。不思議な光につつ
まれ、優しい微笑みをたたえて子供たちを見おろしておられました。この聖母は終始沈黙し、ただその表情を
おかえになるばかりでした。たくさんの奇跡が行われ、大聖堂がたてられました。
公 認:ラヴァル教区の初代司教ヴィカルによって公認されました。
後日談:
(11)ユーゴのメジュゴルユェ村
場 所:ユーゴのメジュゴルユェ村
年月日:1981年6月24日
立会者:6人の子供
内 容:聖母は出現のときに以下のようにいわれた。
「この地に住む人々は、みな信心深く、何百年も神に忠実に生きてきました。その人々に神は特別の祝
福をお与えになるのです。」
そして、聖母のメッセージは要するに、現代世界と人間に回心と祈りと断食を勧めて平和を築きあげなさい。
というものでした。出現は6人の子供にしか見えなかったそうです。
公 認:されていない。
後日談:出現地に訪れて目や耳の障害、リュウマチ、神経痛などがなおったという人達が大勢います。
(12)カルメル山の聖母
場 所:イスラエルの北西にあるカルメル山
年月日:1251年7月16日
立会者:聖シモン・ストック(カルメル会第6代総長)
内 容:聖母は茶色のスカプラリオ(肩衣)を手にして聖シモン・ストック(カルメル会第6代総長)に現われ、こう
約束されました。
「この肩衣を受けなさい。あなたにもカルメル会全員のためにも、これは特典のしるし、救霊のしるし、
危険の際のお守り、平和と永遠の約束の保証です、、、」
一般信者もスカプラリオの信心会に入会すると着用できるようになり、これを着けた人にはカルメル会員と同
じ特典が与えられようになりました。
公 認:レオ13世教皇によって公認されました。
後日談:
(13)ベルギーのバンヌ村
場 所:ベルギーのバンヌ村
年月日:1933年1月15日
立会者:マリエッタ
内 容:庭の土から30センチばかり浮かんだ雲状のものの上に立って少女(マリエッタ)を小川の淵まで連れていき
ました。その小川について聖母マリア様は、少女に小川に手をいれなさい、と言いました。少女が言われたよ
うにすると聖母は、
「この小川はわたしのためのもの。では、さようなら」
といって姿をけしました。少女も「さようなら」とこたえました。そのあとをつけていたマリエッタの父親は
この娘の声しか聞きこえませんでした。聖母の姿は見えませんでしたが、この出来事を主任司祭にはなして
「わたしは明日告白して、聖体拝領をします」といいました。
翌1月19日の夜、マリエッタは再び、例の小川のほとりで「出現」を目撃しました。
「この小川は私のためのものであり、また、すべての人々のためのもの、特に病人たちのもの。わたし
は病人を慰めるために来ました」
と答えたそうです。
公 認:1949年公認されました。
後日談:小川のほとりに礼拝堂、聖母病院、学校が建てられれました。
(14)シラクサの涙の聖母像
場 所:イタリアのシラクサ
年月日:1953年8月29日〜9月1日の4日間
立会者:アントニーナ・ヤヌーソ
内 容:アントニーナ・ヤヌーソが中毒症に悩まされ、8月29日には視力さえ失いましたが必死に聖母に(寝室に置
いてある聖母像に)助けを求めました。「ここを見上げなさい」とよばれその聖母像から涙がおちました。こ
の涙は4日間つづき多くのひとが聖母像に集まりました。その涙は科学的に分析した結果、人間の涙であるこ
とが確定しました。
公 認:公認されています。
後日談:
(15)秋田の聖母像から涙
場 所:秋田の聖体奉仕会
年月日:1975年1月4日〜1981年9月15日
立会者:シスター笹川
内 容:身長70cm木彫りの像、アムステルダムに出現された聖母を模倣して専門彫刻家の手で製作されたものです。
その聖母像からは、人間の涙のように水が流れたり、ご像の右手から血が流れたり、香のよい汗のようなもの
が流れたり。という不思議な現象が起きました。シスター笹川の耳が聞こえなくなり3回のメッセージがあり
ました。
最初のメッセージは1973年6月6日初金曜日
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ、あなたはすべてを捨ててよく従ってくれました。耳の不自由は苦
しいですか。きっとなおりますよ。忍耐してください。手の傷は痛みますか。人の罪の償いのために
祈ってください。・・・・・」
第二のメッセージは1973年8月3日
「・・・世の多くの人々は主を悲しませています。わたしは主を慰める者を望んでいます。天のおん父
のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、
おん子とともに望んでおります。・・・わたしはおん子の十字架の苦しみ、おん血を示して・・・災
難を引きとめてきました。祈りと苦業、貧しさ、勇気のある犠牲的行ないは、おん父のお怒りをやわ
らげることができるのです。」
第三のメッセージは1973年10月13日
「・・・前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大きな罰を下そ
うとしておられます。そのときおん父は、今までにないような罰を下されるに違いありません。その
とき、火が天から降り、その災いによって、人類の多くの人々は死に、司祭も信者もともに死ぬでし
ょう。生き残った人々は、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。
そのとき、わたしたちに残る武器はロザリオとおん子の残されたしるしだけです。毎日、ロザリオの
祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。悪魔の働きは教会の中まで入り込み、カルディ
ナルはカルディナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、
攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされ、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によ
って、多くの司祭、修道者が聖職を離れるでしょう。特に悪魔は、おん父にささげられた霊魂に働き
かけております。たくさんの霊魂が失われることが、わたしの悲しみです。これ以上、罪が続くなら、
もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」
耳が聞こえないシスター笹川さんに以上のメッセージは聴こえるだけでも不思議ですが、聖母月の最後の日曜
日、1982年5月30日の聖霊降臨の主日の午後、聖体賛美式のとき、一瞬のうちに完全にいやされました。
公 認:木彫の像から涙や汗や血が流れ出るのは、現代心理学上、必ずしも超自然的現象とは断定できない。また重要
な理由は、「おん父は・・・罰を下そう・・・」とか「これ以上、罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくな
るでしょう。」とかいう表現は、福音の愛とゆるしと救いの精神に反するからです。
後日談:
(16)アムステルダムで出現
場 所:オランダの首都アムステルダム
年月日:1945年〜1959年
立会者:アイダ・ペールデマンという中年の女性
内 容:1951年5月31日の出現の際に、十字架の前に立って、みずからを「共贖者」と名のり、教会の伝統的な
教えを確認されました。
公 認:
後日談:この聖母の姿を模倣してつくられたのが、秋田の聖母マリア像です。
(17)ベルギーのボーラン村で出現
場 所:ベルギー南部のボーラン村
年月日:1932年11月29日〜1933年1月3日(33回の出現)
立会者:5人の少年少女
内 容:光輝く金の冠をかぶり、白衣を着て、大通りの橋の上や女子修道院の庭のサンザシの木ノ上に現われ、両手を
広げ、子供達に優しくほほえみかけたのです。連れ立った大人たちには何も見えませんでした。「わたしたち
に何をお求めですか」とたずねると、
「よい子でいなさい」
と勧めました。また「小さな礼拝堂を」とお望みになり後に聖堂が建てられました。出現が重なるたびに、聖
母は「わたしは罪人を回心させます」とか、「わたしは神の母、天の女王、祈りなさい」と告げました。
公 認:
後日談:
(18)メキシコのグァダルーペの聖母
場 所:テノチティトラン村のテペイヤカクの丘
年月日:1531年
立会者:ファン・ディエゴ(アステカ人)
内 容:第一の出現1531年12月9日の早朝、ファン・ディエゴがテペイヤカクの丘を通り過ぎようとすると、音
楽が聞こえました。丘の頂上まで昇るとそこには神々しい婦人が立っていて
「司教のところに行ってわたしのための聖堂を建ててください」
と伝えてくださいと命じました。
第二の出現は同じ日(1531年12月9日)の午後、スペイン人の司教が信じてくれなかったので、ファン
は悲しみにくれて丘に戻りました。そこには聖母が立っていて、もう一度司教のところへいくように命じまし
た。
第三の出現1531年12月10日(日)の昼下がり、ファンは丘の上の聖母に司教が「何か証拠をもってき
なさい」と言ったと告げました。聖母はファンに「証拠を渡すから翌日来なさい」とこたえましたが、ファン
は伯父が疫病にかかって重態なので行きませんでした。
第四の出現1531年12月12日(火)の早朝、ファンは伯父の臨終に間に合うように首都から神父を呼ん
でこようとして道を急ぎました。聖母に会うと遅れてしまうから会わないようにと願って問題の丘を迂回して
歩いていきます。すると丘の上から聖母がおりてきてファンに向かい、
「伯父の病気はもうなおっていますよ。丘の上にあがって花をつんで、それを証拠として司教のところ
へもっていきなさい」
と命じました。ファンはその花をつみマントにつつんで司教のところにいきました。マントを司教に差し出す
と、マントの上に聖母像が現われていました。
第五の出現1531年12月12日(火)の早朝(ファンと丘で話していたと同じ時刻)ファンの伯父(ファ
ン・ベルナルディノ)は、テノチティトラン村の自宅で聖母の出現を受け、たちどころに病気をいやされたの
です。
公 認:公認している。
後日談:テペイヤカクの丘には聖母堂が建てられた。
(19)エジプトのカイロで出現
場 所:エジプト・カイロのトウマン・ベイ大通りにあるゼイトン大聖堂のドームの上
年月日:1968年
立会者:バスの運転手、修理工ら5人のイスラム教徒
内 容:ゼイトン大聖堂はカトリックから分離したコプト派キリスト教の聖堂です。白い長い衣をきて、中央の大ドー
ムに立ち(大ドームの四方には4つの小さなドームが囲んでいる)、手には十字架を持っていました。一週間
後の4月9日の夜2回目の出現がみられ、以後14ケ月間約100回もありました。聖母マリアはいつも黙っ
たままで一言も発言しなかったが、よく歩いたり空中を移動するように見えた。見上げる群衆におじぎをした
りしていたが、いつくしみのまなざしは変わらなかった。頭の回りを光輪が囲んでいた。胸に幼いイエス様を
抱いているときもあった。巡礼者の数が増え、キリスト教徒はカトリックもコプト派も熱心にマリア様の賛歌
を歌いました。こうして回心し、信仰を深め、強めたのです。
公 認:カトリックの総大司教イスタファノスは「この奇跡は、いつくしみに満ちた神のメッセージであり、全世界か
らゼイトンを訪れる人は、信仰を深めることができるだろう。」といっています。しかし、カトリック教会局
としては公式判断を下していません。
後日談:小児マヒの少女が出現中に奇跡的に立って歩けるようになりました。
(20)緑のスカプラリオ
場 所:パリ
年月日:1840年9月1日
立会者:ユスティン・ビスケ・ブル(修道女)
内 容:聖母はユスティン・ビスケ・ブル(修道女)に緑の小さなスカプラリオを授けて、
「この小さなお守りを身に付けて聖母に祈る者には信仰の恵みが与えられ、罪の許しを受け、臨終のと
きには大きな恵みが与えられます。できるだけ早く、そして多くの人に信仰をもって、これを配布し
なさい。」
とおっしゃいました。その結果、冷淡な信者は信仰を取り戻し、たくさんの病人がいやされ、その他の恵みが
与えられました。京都のレオ・スタインバック神父も、緑のスカプラリオとその祈りで、悪魔つきの少女から、
学校の中で2回も大勢の生徒の見ているさなかに悪魔を追い出したそうです。この神父はその後も信者、未信
者を問わずこの緑のスカプラリオの配布を続け聖母信心を勧めています。
公 認:カトリック教会局としては公式判断を下していません。
後日談:
(21)ローマの聖マリア大聖堂
場 所:ローマ
年月日:365年(教皇リベリウスの時代)
立会者:ローマの貴族ヨアンとその妻
内 容:ヨアンとその妻は子供も相続人もいなかったので、自分たちの財産を聖母にささげたいと思い、聖母に祈りま
した。8月4日の夜二人の枕もとに聖母がたたれて
「わたしのために、エスクィリーノの丘に聖堂を建ててください。その位置は雪で示しておきましょう。」
その丘へ行ってみると聖堂建設に必要な広さだけ白い雪が積もっていました。
公 認:
後日談:サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂と呼ばれています。日本では徳川時代に、サンタ・マリア・マジョーレ大
聖堂にある「雪のサンタ・マリア画像」の写しが長崎奉行所で踏み絵として使われていました。「雪のサンタ
・マリア」の絵巻物は、長崎県外海(そとめ)町立歴史民俗資料館に保管されています。
(22)イタリアのサンダミアノで出現
場 所:イタリアのサンダミアノ
年月日:1961年〜
立会者:マンマ・ローザ(農婦)
内 容:1970年5月31日「聖母訪問」の祝日にあらわれて
「わたしの子らよ。わたしが来たのは、あなたがたの上に多くの恵み、多くの愛、多くの喜びをもたら
すため。わたしは天の元后、宇宙の母です。わたしが与える愛は、あなたがたを天へ導きます。わた
しはあなたがたに呼びかけます。この愛を心に保てば平和と喜びと静けさを感じることができます。
みんな心を一つにして、愛と祈りと犠牲をささげましょう・・・」
1961年9月29日ローザは腹膜に穴があき、医者から見離されて家で療養していると、若い女性が預言と
病人の治療などの奇跡で有名なピオ神父のいるサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にローソクをささげに
行きたいので、500リラ恵んでくれというのです。おばのアデーレはこの家には1000リラしかなくそれ
も借金したもので、重病のローザのために使わなければなりませんから、お許しくださいとことわりました。
すると女性はローザのところえいき
「元気をおだしなさい、さあ立ち上がるのです」
といって両手をさしだした、はじめは拒んでいたローザが女性の両手をとったとき、全身に衝撃が走ったそう
です。その瞬間ローザは立ち上がり、女性と一緒にアンジェラスの祈りと、ピオ神父の勧めたという主の祈り、
天使祝詞、栄唱5回ずつ唱えました。女性がローザの手術跡に手をあてると傷跡はなくなり腹膜の穴もふさが
っていたそうです。女性はローザに南イタリアのサン・ジョバンニ・ロトンドにいるピオ神父のところへいく
ように勧めました。「わたしはお金をもっていません」というと女性は、
「心配ない、必要なものは与えられる」
といいます。そのうちにローザあてに無名のさし出し人から旅行に必要なだけの金額が送られてきました。ロ
ーザはピオ神父のところへ旅立ち、その町についた日、教会前の広場であの不思議な女性に再会しました。
「わたしは慰めの母、苦しむ人々の母です。このことを他の人々に知らせなさい」
とおっしゃいました。ローザはピオ神父の頼まれたとおりに神父の手伝いを2年半していました。突然神父が
「もう家に帰りなさい。そこでまた、大きな新しいできごとに出会うだろう」
と言いました。故郷に帰ったローザに星の冠をかぶった聖母の姿が空中に現われてローザにいいました。
「わたしの小さな娘よ、わたしは遠いところから来ました。あなたは世界中の人々に、祈るべきことを
つげなければなりません。イエスの十字架は、今や耐えがたいほど重くなっています。わたしはすべ
ての人が、善人も悪人も救われることを望んでいます。わたしはすべての人の母、愛の母だからです。
わたしは世界中の人々がみんな救われるため、祈るべきことを告げにやって来ました。わたしはこれ
から毎金曜日ここにきます。そして、あなたにわたしのメッセージを告げます。あなたは、それを全
世界の人々に知らせるのです。」
ローザは答えました
「わたしは貧しく無知な女です。だれがわたしの言うことなど信じるでしょう。かえってわたしは牢に
入れられてしまいます。」
聖母はそれをさえぎって
「恐れてはなりません。わたしは今、しるしを見せます。このナシの木が花を咲かせます。」
ナシの木はいっぱい花をつけ秋の冷たい大雨の降った間も含めて3週間咲き続けました。以来「出現」は毎金
曜日続きました。
公 認:カトリック教会局としては公式判断を下していません。
後日談:巡礼者が各国から殺到し、その中には膝の関節硬直のなおった人もいました。
(23)ドイツの各地で出現
場 所:ドイツの各地
年月日:
立会者:
内 容:北ドイツのヒードで1937年から3年間、5人の女子小学生に出現され
「もっと熱心にいのりなさい。特に毎日ロザリオをとなえなさい」
と勧めました。
1641年のクリスマスのころ、西ドイツのゲルダンのブッスマン夫妻に出現され
「30年戦争で国土や人心が荒れているが、それを復興するために、ここに小聖堂を建てなさい」
となんども出現されるので夫妻はお金を貯めて小聖堂をたてました。1642年の聖霊降臨の1ケ月前に、今
度はブッスマンの妻が幻を見ました。それは光り輝く小聖堂であり、その中には聖母の絵が安置されてありま
した。それはルクセンブルグで崇敬されている聖母の2枚の絵でした。その絵を探し回ったあげく、その絵を
譲り受けケルダンの小聖堂に安置しました。
公 認:カトリック教会局としては公式判断を下していません。
後日談:毎年夏の晩には、ここの聖堂を中心に聖母をたたえてローソクの行列が行われます。
(24)ローマのトレ・フォンターネで出現
場 所:ローマのトレ・フォンターネ
年月日:1947年4月12日
立会者:ブルーノ・コルナキオーラとその3人の子供達
内 容:トレ・フォンターネは聖パウロが打ち首にされたときに首が3ケ所にころがったところ、その3ケ所から水が
噴出したそうです。そこを囲んで修道院を建てました。聖母の出現はこの修道院から道路をへだてた向かい側
の丘の上です。ブルーノはプロテスタントの熱心な信者でした。子供がボールを洞窟に入れてしまい。ブルー
ノ親子は聖母の出現にあいました。洞窟はまぶしいほど光輝き、その女性の髪は黒く、少し肩にかかり、頭か
らかぶっているマントは春の草の色で、着物は真白でした。赤い帯をしめ、その帯の端はひざのあたりまでた
れ、足ははだしで、大谷石お上に立っていました。
「わたしは三位一体のうちにいる者。わたしは啓示の処女。あなたはわたしを攻撃していますが、もう
よしなさい。再び羊の群れ(カトリック教会)に帰りなさい。あなたは以前に(カトリック信者だっ
たとき)みこころの9つの金曜日の聖体拝領(イエス様の聖なる心にささげられた毎月の第1金曜日
に聖体拝領し、これを9回続けると特別の恵みが与えられるという17世紀に始まった信心業)を守
りましたが、これがあなたを救ったのです。」
と。これに続いて聖母は教皇12世にあてた秘密のメッセージをブルーノに託されました。さらに洞窟の中の
罪の土(この洞窟はよくアベックに利用され、みだらなことが行われていた)を用いて、不信仰者を目覚めさ
せるために奇跡を行うこと、そしてブルーノが今後、迫害されても聖母から守られることも約束されました。
公 認:教会当局は、まだ公式結論は出していませんが、この出現に対しては好意的態度を示しています。
後日談:罪の土によって多くの病人やけが人がなおされ、ブルーノも回心して多くの迫害を受けての信仰を守り通りま
した。