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聖ボナヴェントゥーラ司教教会博士  St. Bonaventura Ep., Doct. Eccl.  記念日 7月 15日


 聖トマス・アクイナスと共に公教神学界の双璧と称えられる聖ボナヴェントゥーラ、彼の遺した偉大な足跡は中世紀はもちろん現代までもなお燦然たる光輝を放っている。この二大学者はその著書、ならびに弟子の多いことにかけても互いに譲らぬが、聖トマスがその教の平明かつ深遠な所から天使的博士と呼ばれるに対し、聖ボナヴェントゥーラ敬虔と愛とに優り。熾天使的博士といわれる。また聖トマスの説き方が論理的であれば聖ボナヴェントゥーラのそれは心理的であり、文章の甘美流麗を以て世に名高い。
 彼等は二人とも修道者であった。しかし聖トマスが聖ドミニコの流れを汲んでいるのに反し、聖ボナヴェントゥーラはアッシジの聖フランシスコの跡を慕い、その修道会の第二の創立者と称せられるほど、正しい言行を以て人々の鑑となった。

 ボナヴェントゥーラが中部イタリアのバンニョレアに産声を挙げたのは、まだアッシジの聖者が存命中の1220年のことであった。受洗の時にはヨハネと命名された。幼少の頃大病に罹り、既に命も危うかったのを信心深い母がアッシジのフランシスコの許につれゆき、もし幸いに全快したら必ずその修道会に入れますという願を立てて、その祈祷と掩祝を願った所、たちまち効果ががあって平癒したから、聖人も大層喜ばれ「おお、ボナヴェントゥーラ(何という善い出来事だろう!)」と思わず叫ばれた。小さいヨハネがボナヴェントゥーラと呼ばれるようになったのは、実にこの時からである。そして彼が17歳を迎えるや、母は先の願を果たすためにこれをフランシスコ修道会に入れたのである。
 修練を終わるとボナヴェントゥーラは先ずオリヴィエトで一般の学問を習い、後パリの大学に派遣され、同じ修道会の碩学アレクサンドロ・ハレス教授に師事して3年の研究を積んだ。
 彼は24歳にして叙階の秘蹟を受け司祭の資格を得た。それからしばらく修道院で教鞭をとっていたが、やがて26歳の弱冠でパリ大学教授の栄職につくことが出来た。
 その年は聖トマスも同じ大学の教授となった。かくて二人は互いに親友となり、聖なる好敵手として励まし合い、相共に中世紀神学の確立に努めた。されば諸国の青年学生は彼等の学徳を慕ってわれ先にとその傘下に馳せ集まり、両聖人の声望は隆々としてあたりを圧する概があった。
 高い木には風当たりも強い。彼等の名が轟くにつれ、嫉妬の感情から彼等を誹謗し、その修道会を攻撃する小人も幾人か出たが、ボナヴェントゥーラはこれに対し、いかにも柔和に、噛んで含める如く、諄々と修道会の存在理由を説明弁駁したので、さしも盛んであった反対の火の手もいつか収まり、再び非難がましい口をきく者も出ぬようになった。ボナヴェントゥーラがあまねく衆人の讃仰を集めるに至ったのは、右の場合にも見られるとおり、その学殖の豊かさより、むしろその愛の深さに基づいているのである。
 彼は又教授たる傍ら、筆をとって数多の書物をも著したが、ある日アキノの聖トマが訪れて「あなたの得る所最も多かった書物は何でしたか」と尋ねたところ、ボナヴェントゥーラは十字架を指さし、「私が最も多くを学び、又今も学びつつある書はこれです」と答えたという。その敬虔の程もそぞろに偲ばれて床しい話ではないか。
 さてボナヴェントゥーラはパリ大学の教授たること8年、1257年に開かれたフランシスコ会総会議の席上、管区長等会員一致の推薦を受け、36歳にして総長に就任することとなった。同会の創立者聖フランシスコについては、それまでさまざまな伝説こそあったけれど、系統的組織的に書かれた伝記は未だ一冊もなかった。で、ボナヴェントゥーラは会員のたのみを受け、始めてその編纂に着手し、材料の選択、排列の順序も入念に、麗筆をふるい、期待に背かぬ立派なものを作り上げたが、これが「聖ボナヴェントゥーラの聖フランシスコ伝」として前後700年間にわたり数百版を重ね、各国語にも翻訳され数多の人々の愛読を受けたことを思えば、いかにその価値の優れたものであるかも伺われる次第である。
 その執筆中のことであった。ある日アキノの聖トマが二、三の従者をつれて訪れ、その部屋の戸を叩いたが一向に返事がない。それでどうしたかと怪しんで隙間から覗いて見ると、ボナヴェントゥーラは机の前にひざまずいて祈りに耽ったまま脱魂していた。これを見たトマは「聖人が聖人の伝記を書いているのを邪魔してはならぬ」と、人々を促してそのまま静かに立ち去ったという。これによってもボナヴェントゥーラがフランシスコ伝を著すのに、どれほどの心構えで筆をとったか察するに難くあるまい。
 総長になったボナヴェントゥーラは、また聖フランシスコの定められた戒律を会員に厳守させる為に、身を以て範を垂れ筆と舌とを以て説き勧め、暇あれば各修道院の巡回視察に努めた。されば部下の修道者達は従来冷淡であった者までも聖なる熱心に燃え立ち、修徳の一路を邁進するようになったのである。

 1265年、教皇クレメンス4世は彼を英国ヨーク市の大司教に任命しようとされたが、謙遜な彼は切にこの栄転を辞退した。
 ボナヴェントゥーラほど聖母マリア崇敬の念に厚かった人は聖人方の中にも少ない。彼は総長になってから毎土曜日その修道院付属聖堂で聖母讃頌の歌ミサを献げ、毎晩鐘を鳴らして天使祝詞を誦え、御托身の玄義を偲び、修士達に命じて機会ある毎に一般信者にもこれを奨励させた。これこそ後に全聖会の習慣となった、一日三度御告げの鐘を鳴らしてその祈りを誦える信心の務めの起こりに他ならない。ボナヴェントゥーラはフランシスコ会の総長たる傍ら、また度々パリに滞在して、教授、説教を為し、殊にフランス国王ルドビコ9世や王族の方々の前で説教の光栄を得たことも稀ではなかった。

 1273年春、53歳になった彼が、あたかもパリ大学で教授連及び多数の修士等を相手に、天地創造の六日間に就いて説明していた時であった。教皇グレゴリオ10世から、彼をアルバノの司教ならびに枢機卿に挙げる故この度は辞退せず必ず受けるべき旨を諭し、かつ即刻ローマに上るべきことを命じた書簡が来た。で、彼は早速パリを出発し、途中ムジェロの小さな修道院に泊まったが、ちょうどそこへ彼に対する枢機卿任命の位階章をもたらした教皇使節も来着した。その時当のボナヴェントゥーラは何をしていたかといえば、台所の片隅で食後の皿洗いをしていたのであった。もちろんこれは謙遜の為であったが、高位の人となっても思い上がらぬ彼の心がけには大いに学ぶべき所があるではないか。
 なお彼の謙遜については次のようなエピソードもある。ある時彼は親友アキノの聖トマと共に、教皇ウルバノ4世から御聖体の大祝日用典礼の為聖歌を作るよう命ぜられた。で、二人は各々最善を尽くして作歌したが、その後打ち合わせの為出逢った時トマが自作の歌を読んで聞かせると、ボナヴェントゥーラは「それで申し分ありません」と言って、自分の苦心の結晶を惜しげもなく破り捨てたという。これはなかなか常人のよく為し得る所ではないが、その折りトマの作品が今もなお典礼中に燦然と輝いているのを見るにつけ、優れた詩人であったボナヴェントゥーラの、失われた珠玉の如きその作が、かえすがえすも惜しまれる次第である。

 1274年、リオン市に公会議が開かれるや、教皇グレゴリオ10世はボナヴェントゥーラを従えて臨御、彼に司会を命ぜられた。この会議の結果は、聖会及びギリシャ教会の合同が一時首尾よく成立したが、それにはボナヴェントゥーラの情理を尽くした名討論があずかって大いに力があったのである。
 両教会合同の祝賀は、6月29日、聖ペトロ聖パウロ両大使徒の記念日を期して行われた。その席上ボナヴェントゥーラは、教皇を始め公会議に出席の司教博士達がきら星の如く居流れる前で、一場の説教を試みたが、これははからずも彼が最後の説教となった。何故ならば彼は日頃の過労のためか間もなく病臥する身となり、再び起つことが出来なかったからである。彼は教皇の御手ずから終油の秘蹟を拝受した後、十字架を仰ぎつつ愛し奉る主の御許に旅立った。時は1274年7月14日の夜。享年54歳。その葬儀には教皇以下数多の高位聖職者が参列し、盛大を極めた。

 帰天後9年、教皇シクスト4世は彼の名を聖人名簿に記入され、ついでシクスト5世は彼に聖会博士の称号を贈られた。
 聖ボナヴェントゥーラの遺著は8巻の大冊にまとめられたが、その深遠な学識、その敬虔な心情の伺われぬ所は一頁とてなく、さすがに聖トマと共に公教神学界の明星と仰がれる所以がうなずかれる。

教訓

 聖ボナヴェントゥーラは学深く位高く、しかも傲り高ぶる心は毛頭もなかった。世間に少しく学問があれば之を鼻にかけて、他人を見下す浅はかな人がしばしばあるが、人間の知る所は知らざる所に比して九牛の一毛といってよい。かような人々は聖ボナヴェントゥーラの謙遜を思うて慚愧すべきである。我等はもし完徳に進もうと思えば、何よりも先ず謙遜を学ばねばならぬ。


いばらと十字架、釘と槍、そして御傷。
これらはわたしたちの豊かな遺産である。
これらのすべてがわたしたちの心を満たし、
愛をもえたたせるように。
キリストは卑怯な者により裏切られ、
わたしたちのために捕らえられて、
万民のために十字架の上で殺された。
すべての賛美はキリストに向けられるように。

          聖ボナヴェントゥーラ