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聖王カヌト4世殉教者 St. Canutus IV.M. 記念日 1月 19日
天主より受けた主権を乱用せず、人民を正しく治め、之に諸徳の模範を示す国王こそ、真に尊敬すべく心服すべき仁君であると言わねばならぬが、聖カヌトもそういう一人であった。
カヌトは11世紀の末頃、北欧デンマークの国王であった人である。幼少の時から高貴な身分に相応しい教育を受け、武勇も勝れ、信心も篤かった。父王スウェーノ2世が崩御されるや、勿論彼がその後を襲うて王位に登る筈であったが、彼のあまりにも敬虔なのを毛嫌いした諸侯は、彼の弟ハラルドを選挙して国王としたのである。
柔和なカヌトはそれでもその不義をよく耐え忍び、隣国スウェーデンの王ハルスタンの許に身を寄せた。ハルスタンも彼の為に義憤を感じて、デンマークに対し軍を起こす事を勧めたが、彼は自分一個人に対する不義から、全国民に迷惑をかけるに忍びないと言って肯んじなかった。然し数年の後ハラルドが死去すると、カヌトの立派な心がけに感心した諸侯は、前の埋め合わせに今度こそ彼を国王に推戴した。当時デンマーク及びその領分の島々は、海賊の襲来を受ける事がしきりであったので、カヌト王は人民の心を安んずべく、自ら軍を率いて遠征し、悉くこれを平らげ、また部下の者にもかような奪略行為は之を厳しく禁じたのである。然るに或る地方の総督にアイギルという男があって、豪奢な生活を望むあまり矢張り海賊を働き、良民の物を掠めとっていたが、王が再三使いを派して、家来召使いの数を減じ、財政の緊縮を計り、善良な生活をなせと忠告しても、一向聞き入れる様子もなく、却って舟に乗じて隣国に赴き、大仕掛けな掠奪を行った。そこで流石のカヌト王も遂に堪忍袋の緒を切って、アイギルを呼びつけ裁判を開いた。アイギルの親戚朋友達は、王の寛大な処置を願って、莫大な金品を贈ろうと誓ったが、王は「今私が正義を曲げて彼を罰せぬとすれば、私も彼の罪にくみする事になるから、どうしても赦すことは出来ぬ」と断固としてその申し出を拒絶し、とうとうアイギルを縛り首の刑に処した。かくの如くカヌト王は常に心して、良民を悪しき官吏の圧政から救うように努めたのである。
彼はまた、人民の安寧幸福を希って善政を布いたのみならず、彼等を善導する司祭や修道士をも厚く保護し、修道院や聖堂を建て、その維持にも力を尽くした。貧民の救済という事も彼の大いに意を用いた所であった。
カヌトは華美贅沢や享楽を好まず、宮廷に於けるその日常生活の如きも極めて質素、かつ謹厳なものであった。その上聖会に命ぜられた大斉小斉なども、怠らず之を守り更に命ぜられぬ苦行までも自ら心がけて、柔らかい帝王の美服の下には人知れず肌触りの悪い苦行用の粗服をわざわざ纏っていたと伝えられている。
かように威を張らぬ王の態度は、一部重臣の間に不満を招き、遂にヴェンシッセル州に反乱を惹起するに至った。カヌトはそれと知ると早速妻子をフランダースなる父君の許に託し、忠臣を糾合してフーネン島の首都オデンセに赴き、叛徒ち戦いを開いた。王の軍隊は敵軍に較べると遙かに小勢であったが、敵は王の武勇を恐れて、和議を結ぶ如く見せかけ、町に入ってこれを占領してしまった。
あたかも王が或る聖堂に於いてお祈りをしていた時の事である、叛徒は十重二十重にその聖堂を取り囲んだ。カヌトの弟ベネディクトえを始め、忠義の家来17人は王を危難より護るべく、聖堂の扉を堅く閉ざしたが、敵は窓から雨霰のように矢や石を浴びせかけた。ここに於いてカヌト王は潔く討ち死にの覚悟を定め、告解、御聖体両秘蹟を受け、心静かに祭壇の下に平伏したのである。
ところが敵はなおも一策を案じ、わざとエドウィンという者を使者として王に謁見を求めさせた。王弟ベネディクトはこれを疑い、拒絶を勧めたが、平和を愛する王は遂に相手の要求を容れて使者と対面する承諾を与えた。エドウィンは中に入ると王の御傍近く進み、恭しく敬礼したが、突然マントの下に隠し持った短刀を閃かすや、王の腹部にぐさとばかり突き刺しその倒れるのを見ると身を翻して祭壇の後ろの窓から逃げようとした。しかしカヌトの家来の一人がとっさに払った一太刀に、血煙立てて身体の半ばは聖堂の中に、半ばは外に切り落とされてしまった。
王は深手を負うたけれど、すぐにはこときれず、苦しい息の下から不忠な輩の為、罪の赦免を願っていたが、そこへ敵の投げ槍が飛び来って当たったので遂に落命した。王弟ベネディクト及び17人の忠臣も共に討ち死にした。時に1886年の事であった。
教訓
聖王カヌトは正義を重んじ正義を行った為に、奸臣に憎まれ、遂に命までも失うに至った。もし彼が臣下の不義を黙過していたらその怨みを招くような事もなかったであろう。然し人の上に立つ者の最も大切な務めは正義を行う事である。この意味においてカヌトの如きは、誠に模範的の君主と言わねばならぬ。彼が主の聖手より如何なる報いを受けたかは問うに及ばぬ。主御自身「幸いなるかな、義のために迫害を忍ぶ人。天国は彼等のものなればなり」と仰せになったからである。