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スウェーデンの聖女カタリナ乙女 St. Catharina a Suecia V. 記念日 3月 22日
一口に善と言っても、天主の御命令を果たした善もあれば、その御勧告に従った善もある。御命令の場合には之を怠れば罪になるが、御勧告の場合には従わずとも別に罪にはならぬ。しかし従えば特別の功績となるのである。本日語らんとするカタリナはかような功績を立てた聖女であった。
彼女は聖女ビルジッタの四女で1331年北欧スウェーデンに生まれた。母は彼女の為を思い、7歳の幼時に之を手放し、リセベルグの修道院に入れて教育する事にした。後カタリナは同院に於いて、自ら望んで終世童貞を守る誓願を立てたが、それと知らぬ父は独断で彼女をエドガーと呼ぶ貴族の一青年の妻とする取り決めをしてしまったのである。
これを聞いて驚いたのはカタリナである。彼女は父に我が心を打ち明けて、修道女として一生を送りたいとひたすら願ったが、父はどうしても結婚せよと勧めて已まぬ。で、彼女は愛する父に背く心苦しさと、天主は必ず自分の童貞を護って下さるに相違ないという確信から、遂に父の意志に従う事としたのであった。
かくて嫁いだカタリナは、自分が貞潔の誓願を立てた事実を話して了解を求めると、夫も一時は大いに驚いた様子であったが、幸いにもやはり敬神の念の篤い人であったから、よく彼女の願いを容れ、名は夫婦ながら兄弟の如く、あくまで清い交際に終始し、互いに愛し慰め励まし助け合って徳の道に精進した。カタリナの伝記を著した修士ウルフォは、この気高い夫妻について「二人は天主の園に相並んで生い立った二本の白百合の如く、麗しい貞潔の光に照り映えていた」と言っているが、蓋し適評であろう。
彼等の結婚後間もなくの事である。カタリナの父は死去し、母は天主の召し出しを受けてローマに赴いた。この永遠の聖都はカタリナにとってもかねてからの憧れの土地で、わけても母が行ってからというものは一層そこへ巡礼したい望みが熾烈となり、殆ど抑えかねて果ては鬱々として病気にさえなった。夫エドガーはいたく之を憂え、いろいろと親切に問いただすので彼女がその訳を語ると、彼は快くローマへの巡礼を許してくれた。
そこでカタリナは同じ年頃の友三名を選び、之と共に遙かな旅路に上った。当時はまだ汽車などの便もない頃とて18歳のうら若い女性には道中危険もすこぶる多かったが、幸いにしてつつがなく目指す都に着くと、カタリナはすぐその足で母の許を訪ねて見た。所が意外にも母の行方が解らない、方々探した揚げ句、やっと八日目にローマからやや離れた某修道院で対面する事が出来た。
それから彼女は母に案内されてローマの諸聖地を巡礼すること数週間、念願を果たして帰国しようと思っている矢先、意外にも夫の訃報に接した。彼を愛していた彼女は一時悲嘆にくれたが、ようようにして気を取り直し、その後は母の許に留まり、二十四年間共に聖い生活を送り、病者を見舞い、助け、その為に祈り、仕え、善終の覚悟をさせるなどして働いたのである。
巡礼好きなカタリナはその後も暇ある毎に市中の聖堂を参詣したがった。しかし当時教皇はアヴィニヨンに聖座を遷して居られ、ローマは甚だ風紀が紊乱していたから、母はまだ若い娘の身を心配してその一人歩きを禁じた。カタリナは始めそれが不満でたまらなかったが、天主の御光を受けて、巡礼するよりも母に従順であるこそ主の聖旨に適う所以と悟ったという。
カタリナはまた聖母の小聖務日課、心霊修行、黙想等を好み、殊に主の御苦難を偲ぶには往々数時間に亘ってなお且つ倦む気色がなかったそうである。
1372年カタリナは母と共に聖地パレスチナの巡礼に赴いたが、その際母は病を得て帰り遂に永眠した。カタリナはその遺骨を携えてスウェーデンに帰り、かつて母の建てたワドステナ修道院に葬り、自らも同院の修道女となり、数ある姉妹に言葉を以て行為を以て模範を示し、人々の尊敬をかちえて1381年50歳を一期としてこの世を去った。
教訓
聖女カタリナは立派な志から童貞を守る願を立てたのに、父に悲しみをかけたくないばかりに、天主の御保護を確信して結婚を敢えてした。妻にして終世童貞!之は聖母にあやかるものである。されば天主も彼女の崇高な理想と、厚い信頼をよみしてその夫の心を和らげ、彼女の望み通りに計らい給うた。之は又彼女が父への孝心の為とも言えよう。何故なら孝行な子に特別な報酬のある事は、天主が第四戒於いて明らかに約束し給う所だからである。