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シェナの聖カタリナおとめ聖会博士  St Catharina Sinensis V.    記念日 4月 29日


 シェナの聖女カタリナの生涯は、聖パウロが記した「神の愚かなる所は人よりもさとく、神の弱き所は人よりも強し」(コリント前書1−25)という言葉の、良き例証とも言えよう。何となれば、彼女は別に深い学問もないか弱い女の身を以て、当時の紊乱した教会を粛正する上に、他の何人も及ばぬ偉大な影響を与えたからである。

 彼女は1347年聖母御告げの大祝日に、染物師ベニンカサ家の第二十四子として、イタリアのシェナに生まれた。信仰の厚い父母は生計も豊かであったので、数多い子供たちながら何不自由もなく十分に教育を与えることが出来たが、中でもオイフロシネ(朗らかの意味)と呼ばれたカタリナは他の兄弟姉妹と異なり、早くからイエズスその他の御出現を見たり、脱魂状態に陥ったりして、天主の特別の御寵愛を蒙っている者であることを察せしめた。

 かように豊かな霊的恵みを受けていたカタリナであるから、僅か7歳で終生童貞の誓願を立てたのもさこそとうなずかれるが、父母は後にこの美貌の娘を他家に嫁がせようとしてはじめてその事を知り、烈火の如く怒って彼女を下女同様にこき使うこととした。しかしカタリナはただ天主の御慰めを力として、この酷遇を忍ぶこと、実に三年の久しきに及んだのである。

 その内に両親も彼女が天主に選ばれた者であることを悟って、その志を妨げようとはしなくなった。けれどもカタリナが耐え難い心の悩みに襲われ出したのは、却ってその後のことであった。というのは、今まで天使のように清浄だった彼女の胸に、どうしたものか絶え間なく穢わしい思いや想像が起こるようになって、いかにそれを防ごうとしても防ぎ切れなかったのである。
 勿論これは天主の試練に過ぎなかった。しかし彼女には、自分は到底滅亡を逃れ得ない身ではないかと思われるほど絶望に満ちた期間であった。その頃の話である。彼女が例の如く激しい誘惑に苦しめられ、思わずも「ああ主よ、主は私をこの悩みの中に見捨ててどこにおいでになるのでしょう」と怨んずると、胸裏に響く声あって「お前の心の中に!」と答えるので、「でも、私の心にはこんなに穢らわしい思いが充満ちておりますのに」と申し上げた所、更にその声が言うには、「しかしお前はその思いを喜ぶか、どうか?」「いいえ、心底から憎んでおります」「そうであろう。それが即ち私がお前の心の中に留まっている証拠である」カタリナはこれを聞くと深い慰めを覚え、以後は如何に誘惑の嵐が吹き荒れても、毅然として起ち、不動の信念を以て立派な勝利を得たという。

 彼女は三年の間祈り、黙想、労働の中に召し出しに対する準備をし、18歳の時いよいよ許されて聖ドミニコの第三会に加入した。この会の会員は、修道院に入って同志と共同生活をせず、在家のまま聖ドミニコの精神に従って、及ぶ限り福音の勧告を実行し、また他人の救霊の為につくすのである。さればカタリナも入会の後は町中を廻り、貧民には己の持ち物すべてを恵み与えなおその為に施し物を集めてやり、病者には力を惜しまずに仕え、殊にらい病、ペスト等恐るべき伝染病に罹れる者をも厭わず看護し、その他手の足らぬ家の掃除を引き受けるなど、まめまめしく立ち働く有様は、実に感嘆すべき限りであった。にも拘わらず、人間は心のひねくれたもので、かような彼女に就いても悪言を放ち、その名誉を害せんとする者もないではなかった。わけても乳癌を患っていた一人の婦人の如きは、かねてカタリナに一方ならぬ恩誼を受けていながら、その長上に根も葉もない讒訴を試みたりしたが、彼女は少しも悪い顔をせず、なおもその婦人の為に懇ろな介抱を怠らなかった。母がそれを歯がゆい事に思ってたしなめると、カタリナは「イエズス様は恩知らずのユダヤ人等が主を罵詈雑言し、侮辱したにも拘わらず、彼等を救う聖い御事業を決して中止なさいませんでした。それを思えば私も僅か二三度悪口されたからと言って、主の命じ給うた隣人愛の業を捨てる訳には参りません」と気高くも答えたそうである。



 カタリナは度々主の御出現を拝んだ外に、唯飲み物のみで生命をつなぐ恵みをも受けた。その為しばしば厳しい調査が行われ、それにつれて様々の風評も立ち、彼女は衆人の誤解に苦しめられなければならなかったが、ある日イエズスは片手に黄金の冠、片手に棘の冠を携えてお現れになり「わが子よ、いずれか一つを選べ!」と仰せられた。するとカタリナは言下に棘の冠を取って頭に押し戴き、「私はかたじけなくも主の浄配と選ばれました者、主と同じ苦しみの棘の冠こそ似合わしうございます。」と申し上げ、勇ましくも主に倣って十字架の道をゆく覚悟の程を明らかにしたのであった。

 


 かくも殊勝な心がけをよみされたのであろうか、1374年主は又も彼女に現れてその身に五つの聖痕を印し給うた。それらの傷は目にこそ見えなかったが、痛みは極めて甚だしく、死に至るまで癒えなかった。その折り主はまた宣うた「我は汝に知識と雄弁との恵みを与える。往きて各国を廻り、その権力者、指導者に我が望みを伝えよ。」と。
 この聖言に従って、それからカタリナに諸所方々を旅行し、王侯貴族や高位聖職者達を訪れ、平和を守るべき事を説き、書簡や著書を以ても之を勧め、この世に主の御国を来たらしむべく努力した。のみならず当時教皇領内の二都市の市民が時の教皇グレゴリオ11世にそむき皇帝より追放されようとしたのをとりなしたり、七十年程前から教皇が都合によりフランスのアヴィニヨン市に移して居られた聖座を、再びローマに復帰せしめる為奔走したり、そういう方面にも大いなる功績を残した。が、シェナの聖女の使命はそればかりではなかった。その頃教会の上に立つ人々の間に、奢侈贅沢に流れる風があるのを憂えたカタリナは、はばかる所なくその改革方を教皇に進言した。この彼女の勧告は、次の教皇ウルバノ6世に依って実行されたが、不幸にもその方法がやや過激であった為、幾多の枢機卿は不満から離教し、別の教皇を押し立てるに至った。
 カタリナはこの面白からぬ状態を救うべく、彼等に或いは書簡を送り、或いは逢って懇願し、どれほど調停に努めたかわからない。彼女は衆人の躓きとなるその離教者等が、幸いにやがて再び聖会の懐に帰るべき事を主に示され、之を世人にも預言したが、彼女自身はその喜びを見る前に、此の世を去らねばばらなかった。

 一生を主への犠牲として献げた彼女の霊魂が、苦行に病苦に衰え果てた肉体の絆を断ちきって、在天の愛する浄配の御許に急いだのは、1380年の4月29日のことであった。彼女の最後の言葉は「ああ主よ、わが魂を御手に任せ奉る」の一句。享年は33歳、それといいこれといい、奇しくも御主の御最期に似通っているではないか。
 その後彼女の取り次ぎによる奇跡は無数に起こり、1461年、同じシェナ市生まれの教皇ピオ2世は彼女を挙げて聖列に加え、以てその偉徳を讃えられた。

教訓

 聖女カタリナは僅か33年年の生涯を献げて、主の御旨に従い、聖会の為、世の安寧幸福の為、かほどまで尽くす所があった。我等も彼女の如く天主に与えられた使命に忠実に、時を惜しんで勉めるべきである。