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聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教        記念日  2月14日




 聖書に「良い便りをもたらす者の足は美しい」(ローマ、10−15)とある。この言葉はスラヴ民族の使徒として崇敬される両聖人にもぴったりと当てはまる。両聖人は9世紀現在のチェコスロバキアを中心とする中部ヨーロッパのスラヴ族に福音を述べ伝え、これを多数改宗させたことで有名である。また聖チリロはスラヴ語の文字を創案し、これでもって聖書を翻訳したのでスラヴ文字の創始者としても名高い。

 この両聖人は兄弟でチリロは802年、メトジオは810年、共にギリシャのテサロニケ市に生まれた。当時ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄え、さまざまな民族が居住していた。その為チリロとメトジオはスラヴ人と交わる機会を得、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけた。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげた。チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられていた。彼は謙遜と清貧を好み、心から宮廷の豪奢な生活を嫌い、とある小島に隠遁した。しかし皇帝の命で再び宮廷に連れ戻され、哲学の教授に任ぜられた。
 メトジオはテッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入った。

 862年モラヴィアの国王ラスティツは使者をコンスタンチノープルにつかわし、東ローマ帝国皇帝ミカエル3世に宣教師を送ってくれるよう請願した。それは教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからである。そこでその最適任者にチリロとメトジオが抜擢され、モラヴィアに派遣された。二人とも着任そうそう巧みなスラヴ語で人々の教化にあたり、説教やスラヴ語での典礼運動に東奔西走、席の暖まる暇もなかった。またこの当時この地には文字も書籍もなかったので、チリロはバルカン地方の方言を基礎にしてスラヴ語の文字を新たにつくり、これをもってギリシャ語の聖書や信心書をスラヴ語に訳し、布教に用いた。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗した。

 こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化したふたりは868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向かった。ときの教皇ハドリアノ2世は二人を大いに歓迎し、両人から各地における布教活動の様子を聞かれ、その熱心と布教の成功を喜ばれた。二人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとしたときチリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養したが、ついに五十日後の869年終油の秘跡を受けて安らかにこの世を去った。

 その後、メトジオは司教に叙階され、再びモラヴィアに帰った、まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧が出来なくなったので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗につくした。ところが許可なく布教したという理由で訴えられ、ドイツ王から投獄された。教皇はこれを遺憾に思い使節を遣わしてメトジオを弁護し、その温情あふれる懇願でついに彼は釈放された。

 それから数年して「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」とざんげんされたので、彼はローマに赴き教皇ヨハネ8世に謁見し、身の潔白を立証した。晴れの身となったメトジオは、再びモラヴィアを司牧した。この時の新しいモラヴィア王は暴政をしき、人民の自由を奪っていた、メトジオはこれを王に忠告したところ王の怒りにふれ、国外に追放された。しばらくして後悔した王にふたたび迎えられ、その後は王の協力もあって大いに活躍した。
 老後にはいったメトジオはやがて臨終の近きを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年平和にこの世を去った。