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ピアツェンツァの聖コンラド修道者 St. Conradus a Piacenza C. 記念日 2月19日
物質的不幸がかえって精神的幸福を招く事はしばしばあるが、聖コンラドの生涯もその一例であるといえよう。
彼は北イタリアのロンバルジア州ピアツェンツァ市に生まれ、地位も高く財産も豊かで、何不足ない身であった。別に働かずとも食うに困らぬ彼は道楽として狩猟を殊の外好んでいた。
ある日コンラドは例によって山へ狩りに行ったが、その時射損なった一匹の獣が、とある藪の繁みに逃げ込んでしまった。すると彼はそれを追い出したいばかりに、浅はかにもその藪に火を放った。所が折からの晴天続きで、草木がすっかり乾ききっていたからたまらない。火は見る見るうちに燃え広がって、手のつけようもない山火事になってしまった。
それと知った近所の人々は、急いで駆けつけて消火に努めたが、鎮火した時は既に広大な山林耕地が燃え尽き、その被害は極めて甚大であった。
自分の軽率からこの大事を引き起こしたコンラドの驚愕と痛心はどれほどであったろう!彼はその場にいたたまれずして、密かに我が家に逃げ帰ったのである。
その内にたまたまそこに居合わせた一農夫が、憐れにも放火の嫌疑を受けて、官憲の手に捕らわれた。そして当時の習慣である拷問にかけられ、苦痛に耐えかねて、心にもない自白をし、いよいよ真犯人と決定されて濡れ衣のまま死刑台に上る事となったのである。
このことを伝え聞いたコンラドは、良心の呵責に胸も破れそうであった。遂に彼は何度も煩悶を繰り返した後、堅い決意を以て自首し、憐れな百姓の無実を晴らし、自分を如何様にも処刑して頂きたい、また人々にかけた損害は、自分の全財産で能う限り償いたい、と至誠を披瀝して申し出たのであった。
が、その頃はもう人々の激昂もだいぶ鎮まりかけていた。そして結局コンラドは暫く禁固された後釈放されるに至ったのである。けれどもこの恐るべき体験は、彼に霊の覚醒を促さずにはいなかった。彼は獄中にあって、しみじみこの世の事物のはかなさを悟った。そうなると今までは通り一遍であった彼の信仰も、熱烈さを加えずにはいない。彼は出獄帰宅するとすぐ妻と相談し、共に天主に身を献げる事とし、妻がピアツェンツァ市にある聖クララ修道会の修院に入るのを待って自分は一介の巡礼に身をやつし、永遠の都ローマに向けて旅立った。そしてそこに数ある大聖堂を巡礼し、またアッシジの聖フランシスコが創立された第三会に入会し、後南下して、シシリア島のノトにある或る病院に人知れず看護人として住み込み、更に山中に庵を結んで祈りと苦行の隠遁生活を始め、四十年の久しきに及んだ。その間彼は金曜ごとに下山し、或いは生活の必需品を求めたり、或いは告解したり、或いはその町に名高い聖十字架に尊敬を献げたりした。彼の祈りを求める人々が絶えず訊ねてきて、病気を癒してもらう者もあった。シラクサの司教さえもコンラドの祝福を受けるために訪れた。
いよいよこの世を去る日の近づいた事を知ったコンラドは1351年2月19日程近い村の聖堂を訪れ、ミサ聖祭にあずかり、御聖体を拝領し、御ミサが済んでも席を去りやらず、なおも祈りにふけっていた。しばらくしてその聖堂の司祭が、食事を共にしようと呼びに行って見ると、コンラドは主イエズスの御像の前に、祈りに我を忘れた如く、跪いたままこときれていたという。その後コンラドの遺体はノトの聖ニコラス教会の中に葬られ、そこは多くの巡礼者たちが来る場所となっている。
教訓
聖書に「火もし飛びていばらにうつり、その積み上げたる穀物、或いは未だ刈らざる穀物、或いは田畑を焼かば、その火を焚きたる者は必ずこれを償うべし」(出エジプト記 22−6)とあるが、聖コンラドもはからず大事を引き起こして人々に損害をかけた時潔く全財産をなげうってこれを償った。じつを言えばもとは悪意から出た行為ではなく、ただ軽率のために起こったことであるから、罪という程でもなく、従って償いも義務ではなかったであろう。しかしこれを敢えてした彼の心は誠に高潔で、さればこそ天主も彼を聖人の道へ招き給うたのである。始めから人に損害を与えるつもりでした場合はもちろん罪で、ただ告白するのみならず、できる限りその償いをしなければこの罪は赦されない。