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聖グリニヨン・ド・モンフォール 英知修道女会創立者 記念日 4月 26日
「私はよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。」(ヨハネ 10−11) 聖グリニヨンの生涯はこの福音の生き写しであった。「よい牧者」として人々の為に絶え間なく祈り、勉強し。一般の冷遇を忍耐しながら、典礼をもって、人々の信仰の熱をあおった。また、御聖体、十字架、聖母に特別の信心をつくし説教、賛美歌、著書などでこれらの信心を広めた。
聖グリニヨン・ド・モンフォールは、1673年、フランス北西部ブルターニュのモンフォール町に生まれた。敬虔な特の高い両親に育てられ、のち土地のイエズス会の学校に学んだ。品行、学業共に優秀だったので、学期末ごとに表彰された。
哲学を終了してパリのサン・スピルス神学校に入学したが、そのすぐれた徳行はたちまち学生の模範となった。司祭に叙階されると、彼は海外布教を志望し、カナダへ出発しようとした。その時の教皇クレメンス11世の勧めに従い、ヤンセニストの異端すなわち、キリストは全人類の為に死ななかったとか、人間は神のおきてを全部果たすために十分な恩恵を与えられていないし、内的恩恵に抵抗することもできないとか主張する誤った説を反駁しながら、フランス西部地方のいなかを巡回布教した。
「私はよい牧者で、わたしの羊を知っている」と聖書にあるとおり、グリニヨンは受け持ちの信者の気質、傾き、志望、困難、誘惑などを知り、これを導き、助け、慰め、励ましていた。黙想会などの時、一人でもこれに参加しない信者があれば、さっそく自分でその家をたずね、説得してこれを教会に連れ帰ってきた。
グリニヨンは好んで人生の目的、罪、死、審判、天国、地獄などの大真理をはじめ、信心生活の根源である御聖体、十字架、聖母に対する信心について語った。頻繁な御聖体拝領は霊的ぜいたくだという厳格なヤンセニストに対して、彼はしばしばの御聖体拝領をすすめ、御聖体に親しみ、これを崇敬するため数多くの賛美歌をつくった。その一つに「ああ、わが心は御身をあえぎ望む、主よ、いずれのときにか、われに臨み給う。御身いまさずしては、わが心はさびしさにたえず。来たり給え、わが最愛なる魂の浄配よ」とある。
グリニヨンは十字架を愛して、いつも胸にかけ、各家庭にもこれを飾るようにすすめていた。黙想会が終わると、その記念として野外の丘や人通りの多い街角に十字架を立てさせた「悩める者よ、汝の避難所はここにあり。もろびとよ来たれかし、来たりて神のつきざる宝をここに得よ。とこしえにイエズスに栄えあれ。またその十字架に誉れあれ」とはグリニヨンのつくった十字架称讃の一節である。
また聖母をあつく信心したグリニヨンは、ロザリオの祈りを奨励し、イエズスに至るには聖母を経て行くのが一番近道であることを教えた。「イエズスの怒りをなだめるためには聖母の御取り次ぎにすがるのが最もよい。聖母のたもとに隠れて『見よ、汝の母を』と叫べば、イエズスの御怒りはすぐにもなごむ」と彼は歌っている。
そのうえグリニヨンは「聖母マリアに対する真の信心」「聖母の秘密」などの名著を著して聖母の信心を広めた。しかしこのような布教は当時としては革新的であったため、すぐにこれを聖会の精神にもとる運動であるかのように非難した者がいた。のみならずかれを聖務執行禁止の懲戒処分に付した教区もあったくらいである。
こうした人々の讒言、脅迫などにくじけず、かえった彼は「み名のためにはずかしめられるのに足者とされたことを喜びつつ」(使徒行録 5−41)布教に専念した。
また彼は自分の事実を永続させるために宣教を目的としたマリア宣教会と貧困救済を目指す英知の童貞会を創立し、1716年、43歳の働き盛りで帰天した。