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聖ヘリベルト大司教 St.Heribertus Archep.             記念日 3月16日


 古来政治家にして聖人となった人は割合に少ない。しかしかかる人は何れも君主に忠実で、人民を憐れみ、国家を安寧幸福に導く。聖ヘリベルトもそういう偉大な人物の一人であった。

 彼は970年頃ドイツ中央ウォルムス市の侯爵家に生まれ、同地司教座聖堂付属学校で教育を受け、後ロートリンゲン州ゴルゼにあるベネディクト修道院で研究を続け、帰郷後間もなくヒルデバルト司教に叙階されて大聖堂の主任司祭となり、傍ら同地にあるイタリア政策局に勤めることになった。
 その内にドイツ皇帝オットー三世がウォルムスに行幸の際、彼ヘリベルトは見いだされて侍従に任ぜられ、その後は常に皇帝に随従して奉仕する身となった。他の侍従達はその官職地位を利用して、殆ど私利を計らざるはなっかたのに、ヘリベルトだけはひたすら滅私奉公の精神から、皇帝の身を思い国家の為に尽くす遺骸に念とする所はなかったのである。
 さればオットー皇帝は深く彼の忠誠をよみし、彼をヴェルツブルグの司教に挙げようとされたが、謙遜なヘリベルトは切に之を辞退した。然るに999年たまたまケルンの大司教エヴェルゲリオが死去したのを機として、又もその後継者に擬せられ、ケルンの聖職者や平信徒は一致して彼を選挙し、皇帝もその就任を望まれ、皇帝シルヴェストロ2世も正式に彼をケルン市大司教と認定されたから、さすがのヘリベルトも今は拒む途なく、あたかも滞在中であったラヴェンナからケルンに赴き、寒気厳しい冬の候を粗衣裸足で同市に入ったのであった。
 前任者のエヴェルゲリオは聖職者にふさわしからぬ派手好きな人で、甚だ豪奢な生活を送っていただけに、信者達は新任の大司教のこの質素な有様を見て大いに感動したと言うが、実際ヘリベルトの日常は「貧者の父、修道院の庇護者、霊魂の善牧者」たるに恥じぬ生活振りであったのである。

 1002年オットー皇帝がイタリアを訪問されるや、彼もまた之に従ったが、不幸皇帝は重患を得てパテルノの地に崩ぜられた。その折り秘跡を授けて皇帝の宸襟を安んじ、臨終に対する聖会の祈りを唱えてその冥福を祈り、またあらゆるさまたげに打ち勝って御遺骸をドイツへ運び帰り、アーヘンなるカロロ大帝の墓側に葬るよう計らったのは、実にヘリベルトその人であった。

 やがてハインリッヒ二世が諸侯の選挙を受けて帝位に即かれた。その時ヘリベルトは他の人を選挙したのであったが、それにも拘わらず彼は快くオットー皇帝より託された皇帝の印なる槍をハインリッヒに渡した。しかし後讒言する人があって、皇帝は彼の忠誠を疑い、之を罰すべくケルンに赴かれた。が、取り調べの結果彼の罪なき事を悟られ、かえって長い間不義を甘受していた彼の柔和に感じて、その後は一層厚く之に目をかけられるようになった。
 1021年管轄内の地方教会視察に出かけた大司教ヘリベルトは、途中大病に罹ってケルンに帰らねばならなくなった。かくて再起不能を覚悟した彼は遺産を聖会と貧民救済とに寄付するように遺言し、「我等の貧しき兄弟達が困窮することのないように・・・」と言いつつ息を引き取った。帰天の日は3月26日。遺骸は彼自身が建てたドイツの修道院に葬られた。「ローマ殉教録」は彼を「完徳の聖人」と激賞している。



教訓

 聖ヘリベルトは君主に対する忠節の模範である。不幸、帝の誤解を受け、御不興を蒙っても、更に恨む気色もなかった。これは彼がカトリックの教える所に従って、皇帝を天主から権力を与えられた方と堅く信じ尊敬していた為に他ならない。されば我等も尊王愛国の至情を聖教の権利思想に依って、より深くより強いものとしようではないか。