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聖ヨハネ・クリマコ山修士 St. Joannes Climacus Monachus 記念日 3月 30日
第4世紀には、修道的な目的として或いはエジプト、或いはアラビアの砂漠に隠遁する信者が甚だ多かった。で、ローマ皇帝ユスチニアノは、モーゼが十戒を授かったシナイ山の付近に住むこれらの山修士等の為、その山上に一つの修道院を建てれれた。するとある日の事である、まだ16歳にしかならぬというヨハネと名乗る一少年がその修道院の門をたたいて、切に入院を請い願った。かくてその願いは一応ゆるされて、少年は修道者の群れに加えられたが、何分まだ若年でもあり、体格も極めて華奢なので、その指導を命ぜられたマルチリオ老修士も、果たして彼が長くその厳しい生活に耐えうるかと危ぶまずにはいられなかったのである。
ところがヨハネ少年は入院の日から他の人々に優る熱心を示し、マルチリオの指導のままに嬉々として修道の業にいそしみ、清貧、従順、貞潔等の緒徳も非難の余地のないまで立派に守り、短時日の間にその徳の進歩は真に驚くべきものがあった。その内に恩師のマルチリオが聖なる死を遂げると、ヨハネは更に完徳に向かって邁進すべく、修院を出てシナイ山のほとりに庵を結び、唯一人そこに籠もった。かくて彼は毎週土曜日曜の両日にミサ聖祭にあずかり、天使のパン(御聖体)を受け、聖書や教父たちの修徳に関する著書を熟読し、苦行黙想労働を行い、ますます身を修め徳を磨いた。されば彼がたぐいまれな聖人であるとの噂はいつか世間に立ちそめ、その教えを請わんものと遠近から訪い来る者は次第に多くなってきたのである。
しかし喬木風強しの喩えにもれず、彼の名声がいよいよ旭日昇天の勢いを示してくると、妬みに駆られてこれを陥れようとする者もまた出でて来て「いや、彼は聖人ではない、ただ多弁な傲慢者に過ぎない」などと悪声を放った事もあった。けれどもヨハネはその話を聞いても少しも心を乱さず、快く相手を赦したばかりか、却ってその罪の償いにその後は全く沈黙を守る決心をしたのであった。その為先に彼を多弁と誣いた者も、遂に自分の非を悟って衷心から痛快するに至ったという。
ヨハネはそれからも益々完徳を目指して不退転の精進を続けたが、75歳の高齢に達したときシナイ山修道院の修士等に推されてその院長に就任した。そしてモーゼの如く天主より特別の御照らしを受けて一般修道者の為「クリマク」訳せば「完徳への梯子」という霊感に満ちた一書を著した。彼がヨハネ・クリマコと呼ばれるに至ったのはすなわちこれによるのである。ヨハネの名声はその後も益々高まるばかりで、遠くローマにまで及び、教皇大グレゴリオさえその聖徳を讃える書簡を送って彼の代祷を願ったと伝えられている。なお彼に関してはある年大干ばつで作物がことごとく枯死しようとした折り、その熱烈な祈りが聴かれて慈雨沛然として至り、人民は凶作飢饉の憂いから救われ、ヨハネを第二のエリアとして尊敬したという話もある。彼は院長たること五年、よくその務めを果たしたが、善終の準備をするため適当な後継者を得て勇退し、もとの庵に帰って一年の間心ゆくまで祈りと償いの業を行い、遂に老シメオンの如く「主よ、今こそ僕を安楽に逝かしめ給え、そはわれ主の救いを見たればなり(ルカ2−29)と叫びつつ、安らかに目を瞑じた。時に605年3月30日の事であった。
教訓
我等は昔の山修士の如く深山や荒れ野に逃れる事は出来ないが、わが心を庵とし、度々世間を離れてその内に籠もりよくよく黙想反省するならば、たとえ聖ヨハネ・クリマコの如く長足の進歩は望まれずとも、完徳への梯子を一歩一歩昇ることは出来るであろう。
王が国を統治するように、自分の心を治めなさい。
しかし、すべてに越えて絶対的な統治者である神ご自身に従いなさい。
聖ヨハネ・クリマコ