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聖ヨハネ・ユード司祭証聖者    St. Joannes Eudes C.      記念日 8月 19日


 世にはカトリックの聖人方を目して、社会国家に何の貢献する所もない世捨て人、無為徒食の徒輩とする者もないではないが、これはもとより大いなる誤りである。なるほど聖会初代の隠修士などには、我が身の救霊を第一として、世間を離れ、独り節を清うした方々もあったが、これとてその没我禁欲の生活により利己貪欲の世人に与えた精神的好影響は決して少なからずその他の聖人方に至っては、或いは自ら何等かの博愛事業を起こし、或いはこれに関与して世道人心を益すると共に直接社会の福利に寄与する所が多かった。聖ヨハネ・ユードの如きも倫落の女達に温かい救いの手を差し伸べた感ずべき聖人の一例である。
 彼は1601年11月14日、北フランスのノルマンディー州リー村に生まれた。父は農を業としていたが多生医術の心得もあり、近隣の誰彼が怪我をしたり病気に罹ったりした場合にはしばしば招かれて手当をしてやったものであるという。母は極めて篤信の人で、幼いときから我が子の心に天主のこと、わけてもその遍在の観念を植え付けるように努力した。さればヨハネの信仰に対する理解の深さは普通の大人も及ばぬばかり、当時に在っては異例の幼年で初めての御聖体拝領を許され、間もなく終身童貞の誓願をたてた位であった。
 彼が14歳になると、父はこれをカレン市に送って、イエズス会経営のある中学に入れた。ヨハネの勤勉と敬虔とはそこでも同輩を凌駕し、学業に於いては一級の優等生となり、信心に於いては同校に組織されているマリア崇敬会会員達の鑑と仰がれるに至った。
 中学の課程を終えたヨハネは引き続いて哲学を専攻したが、彼はこの頃から己の将来に就いて種々考えを廻らせ、自分の召命を知るべく熱心に祈祷や苦行を行い、ついに司祭となることこそ主の御旨と確信し、これを父に打ち明けてその許可を願った。父はかねがね息子の世間的立身を夢み、彼の配偶としてある富豪の令嬢を娶る手筈まできめていたので、この話を聞くと一時は大いに驚いたが、根が物わかりのよい人だけにやがて快く彼の望みを容れてくれたけれども、世俗司祭となるか修道司祭となるかの点についてはなかなか意見が一致しなかった。即ち父を始め一家の者は前者をすすめヨハネのみは後者を望んだからである。とはいえ彼の熱心な祈祷と根気のよい嘆願とは結局父の心を動かさずにはいなかった。父はとうとう彼に同意し、温かい親心をこめた掩祝を与えてくれたのである。
 かくてヨハネは聖フィリポ・ネリの創立にかかるオラトリオ会に入り、24歳にして叙階の秘蹟を受け、憧れの司祭職につくことが出来た。が、幾分健康を害していた為まだその働きも十分せぬ中に、保養を命ぜられてパリ近郊の田園に送られた。しかし生来勤勉な彼は為すこともなく日を送ることに耐えられなかったので、聖書の研究を続けることとしたが、その敬虔さは聖書を手にするや必ずひざまずいてこれを為し、玩味熟読、黙想に耽るときには、一切を忘れて天主に遊ぶが如く、見る者も思わずかたちを改めずにはいられぬほどであったという。「聖書は御聖体に次ぐカトリック信者の宝である」とは彼の常々口にしていた言葉である。
 あたかも1627年、彼の郷里には悪性のペストが発生し、伝染猛烈を極め、これに冒される者は巷に満ち、看護に当たる人々は著しく不足を告げた。そこでヨハネはこの時とばかり修院長の許可を得て、同志の司祭数名とその地に急行し、昼夜を別たず憐れな病者の看護に努め、臨終の人には秘蹟を授け、席の温まる遑もない活動を続けた。そして自分の休養といえば、一日の中僅か二、三時間、それも椅子にかけたままとろとろとまどろむだけで過ごす事さえしばしばあった。
 それからヨハネは人々を促して疫病終息祈願の行列を行い、この地方を聖母に献げて熱心に御保護を求めたところ、さしも猖獗を極めた病魔も次第に衰え、やがて全くその跡を絶つに至った。しかしこの禍に人心はいたく荒み、信仰の念も薄らいだように思われたので、ヨハネは憂慮に堪えず、これが救済策として、先ず黙想会の開催を思い立ち、各町村の教会に於いて一ヶ月から三ヶ月に亘る心霊修行を行った、この試みは大いなる反響をよび、時には4万人からの参加者があったので、彼も益々気をよくし、黙想会を開くこと実に百十回以上の多きに及んだ。そして説教聴聞者の便宜を思い別に解りやすい宗教書を著し、その購読をすすめた。
 当時フランスではヤンゼニズムの主義が甚だ勢を得、為に聖教の真理も危機に瀕するばかりであった。ヨハネはこの時に当たり信者達に立派な指導者がないことを憂え、良き司祭の養成こそ刻下の急務と感じ、司教達にその目的の適う神学校の必要を説き、その賛成を得てこれが設立経営に当たる修道会を創立し、会員たる者はイエズス・マリアの聖心を特に崇敬するよう定めた。
 それから彼はまた先の黙想会に於いて、倫落の女の改心者を数多出したが、これをそのままに放置すれば再び以前の生活に戻る懼れがあるので、彼らの保護事業を起こす必要を痛感し、始めはかかる改心者を熱心なカトリック婦人、わけても寡婦に託するようにした。しかし後間もなくこうした事業はどうしても修道女の犠牲敵献身的な愛によらねばならぬ事を思い、訪問修道女会を招いて右の仕事を委ね、その戒律に新会則若干を加えて「善き牧者の愛の修道女会」と改称させた。
 ヨハネはこの事業の為に随分峻烈な攻撃の矢玉を浴びねばならなかった。思慮ある人々も「貞潔の誓願を立てている修女達を、如何に改心したとはいえ身の穢れている婦人達に接触せしめるのはどんなものであろう」と反対した。そういう非難に対しヨハネは常に答えて言った。「貞潔の徳は真の愛に伴えば、決して穢される憂いがない。それはちょうど太陽の光が汚い泥に当たっても穢されないようなものである」と。実際攻撃者等の考えは杞憂に過ぎずその修道女会には何の醜聞も起こらなかったばかりか、それによって救われた不幸な女達はどれほどあったか知れぬのである。
 ヨハネはその後もかくさまざまの使徒的事業に活躍を続けていたが、1680年病を得、8月19日眠るが如く大往生を遂げた。時に享年79.彼の列福は1909年ピオ10世教皇により、列聖は1925年ピオ11世教皇により、厳かに宣言された。

教訓

 聖ヨハネ・ユードが「善き牧者の愛の修女会」の為に定めた戒律に二つある。一は主の聖心の会則と呼び、主のお命じになった数々の掟を含み、他は聖母マリアの御心の会則と名付け、聖母により最上の模範を示された修道実践上の方法であった。実際信者にとって主の御掟を守り、聖マリアの御生活に倣う以外に何の望むべき所があろうか。
 されば、至聖なるイエズスの聖心、我等を憐れみ給え。
汚れなきマリアの御心、我等の為に祈り給え。