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聖マルコ福音史家       St. Marcus Evangelista.            祝日 4月 25日


 使徒行録(12・6−18)によれば、ヘロデ・アグリッパ王の迫害に捕らわれて投獄された聖ペトロはある夜二位の天使の力で不思議に牢から救い出されて後、マルコと呼ばれるヨハネの母マリアの家に至り、追っ手を逃れる為に更にローマに向けて出発したとあるが、ここにマルコと呼ばれているヨハネこそ、福音史家として名高い聖マルコに他ならない。聖ペトロ、聖パウロがそれぞれシモン、サウロというユダヤ名を持っていたように、聖マルコもユダヤ風にはヨハネと呼ばれていたのである。

 彼の母マリアに就いては之も聖書に、エルサレムの新信者は主に彼女の家に集まって祈りやミサ聖祭拝聴を行ったように記してあるから、恐らく広い邸をもつ裕福な寡婦で、かつ熱心な信者であったのであろう。そうとすればその息子ヨハネ・マルコが母の立派な鑑としつけに依って、同様敬虔篤信の心を持ち合わせた青年であったことも想像するに難くないのである。

 古来の伝説によれば、マルコとその母マリアとは、聖霊降臨の日にペトロの受洗した三千人の信者中に加わっていたという。ペトロは彼マルコを殊の外愛していた。それはこの大使徒が小アジアの信徒に送った書簡の末尾に彼を「我が子」と呼んでいることによっても知れよう。また実際マルコはその使徒的精神の盛んな点においても聖ペトロの子と呼ばれる値打ちがあった。最初彼は聖バルナバと共に聖パウロに従い第一回伝道旅行の途に上ったが、道半ばにしてある事情の為エルサレムに引き返し、やがて再びバルナバとクプロ島に赴き主の福音をのべ伝えた。

 その後マルコはローマに行き、聖ペトロをたすけて教会の発展に力を尽くした。彼が信者の希望に従い、ペトロの説教を材料として、あの簡潔にして力強い筆致の聖福音書を著したのは、実にその頃のことである。主の公生活三年の間、朝に夕にその御傍にあり、親しく聖い御感化、御薫陶を受けた聖ペトロの、愛する主を偲び奉る物語は、マルコの素朴な筆を通して今も読者にその御一挙御一動を目に見る如く感ぜしめずにはおかない。この書こそは聖会史上世の終わりまでも不朽の光を放つ大金字塔の一つで、筆者マルコの功績も永久に燦として輝くのである。

 彼はネロ皇帝の迫害でペトロ・パウロ両大使徒が殉教して後、ローマを去ってエジプトのアレクサンドリアに行き、そこの司教として、恩師ペトロの精神にのっとり人々を導き、よく教勢を隆盛ならしめたが、その内に彼も同じく自分の血を以て聖なる信仰を証せねばならなくなった。すなわち彼がその地に赴任後僅か十年ばかりして、やはりキリスト教に対する迫害が起こった時、異教徒は彼を捕らえて首に縄をかけ、荒々しく町中を引き回し遂に惨殺してしまったのである。この殉教の最期も聖ペトロの子たるにふさわしく、今も二聖は天国に於いて永福を共に頒つていられることであろう。

 聖マルコの遺骸は後にイタリアの水の都ヴェネチア市に移され、その名も高い聖マルコ大聖堂に今なお保存されている。

 ついでながら西洋諸国では聖マルコの祝日に豊作祈願祭を行う習慣があるが、これの始まりは至って古く、異教人の霜の神に五穀成就を祈るお祭り騒ぎに対抗して起こったキリスト教的行事である。その後一時中断したが、グレゴリオ一世教皇の時に復興され年々盛んになって今日に及んだ。

教訓

 聖マルコは主の聖教を、福音書中に記したばかりでなく、又以てこれを実行した。我等も聖書を度々通読するだけでは足りない、その中にある聖教を力の及ぶ限り完全に実行してこそ救霊が得られるのである。