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聖マリア・ドミニおとめ    St. Maria Dominica              記念日 5月 15日


 聖マリア・ドミニカ・マゼレロおとめは1951年6月24日にピオ12世によって列聖された、彼女は我が国において宮崎教区をはじめ大分教区、東京大司教区、大阪大司教区等で活動している「扶助者聖マリアの修女会」(扶助者聖母会)の創立者にして「モルネーゼの天使」と呼ばれている。
 
 彼女は1837年5月7日北イタリアのピエモント州モルネーゼ村に呱々の声をあげた。両親は農業を生業とし、雇い人と力をあわせてぶどう園の栽培などしていた。共に熱心な公教信者で我が子の宗教心を養うことに深く意を用い、母が聖堂に参詣する時には、必ず幼いドミニカをも同伴するのが常であった。彼女はそれを非常に喜んだ。ただし説教だけは好まぬ風であったという。それは、まだ小さい子供であるため司祭の言葉が十分理解出来なかったであろう。けれどもすこし大きくなって母に告解、御聖体両秘跡の準備をしてもらう頃になると、そういう説教を厭う様も次第に見えなくなった。

 彼女が御聖体拝領を始めて許されたのは、その12歳の時であった。それからというもの、彼女は雨の降る日も風の吹く日も毎朝欠かさず聖堂に参詣して御ミサにあずかり、日曜毎に御聖体拝領した。公教要理の勉強では常にクラスの首席を占めた。モルネーゼの村人達は毎晩教会に集まって共に祈るのを習慣としていたが、マリアは留守番を仰せつかってこれに出席出来ない時など、よく窓から聖堂を眺めながら、遙かに人々と心を合わせて祈ったと言うことである。

 当時田舎にはまだ学校というものがなかったから、彼女は暇々に父から読み書き算術を教わった。そして昼は父を助けて孜々として労働にいそしんだが、その熱心な働きぶりは、奉公人達が「ドミニカさんと仕事をすると、一服する暇もないので往生する」とこぼしあう位であった。

 1854年12月8日、聖母マリア無原罪の御宿りが、教皇ピオ9世によって新たに信仰箇条の1つと定められた。モルネーゼ教会の主任司祭ペスタリノ師は、その記念として「無原罪の聖母マリアの処女会」を創めたが、ドミニカもそれに入会した。その時彼女は17歳で会員中の最年少者であった。

 その頃ちょうどモルネーゼ付近には腸チフスが流行し、彼女の伯父一家もこれに冒され、枕を並べて病床に臥した、ドミニカは伯父の依頼を受けて彼等の介抱に赴き、鋭意看護のかいあって一同全快の喜びを見たが、今度は彼女が罹病し、しばらくは高熱に苦しまねばならなかった。幸い命拾いはしたものの、その後は以前の健康を快復する事が出来ず、労働も思うにまかせなくなった。それでマリアは裁縫を習い、村の少女達にこれを教える傍ら、彼等の信仰心を温めようと思い立ち、間もなく友人ペトロネラとささやかな裁縫教授所を開いたが、後見る所あってそれを託児所にかえた。
 ところがその時分ペスタリノ師と親しくなったドン・ボスコが彼女の事業に注目し、ペスタリノ師の手を通じて彼女に聖母のメダイを送ったり、折りに触れて忠告を与えたり、日々の生活の規則を定めたりして好意を示した。そしてサレジオ会を起こし世に捨てられた憐れむべき青少年の救済保護を計った後は、同様修道会を設けて寄る辺なき婦女子を救おうと企て、無原罪の聖母マリアの処女会員の同意を得、同会をそのまま修女会とする事となり、ドミニカの託児所を修道院に宛て、1872年8月5日雪の聖母聖堂奉献記念の吉日を卜し、最初の修女11名の着衣式を挙行した。

 かくてドン・ボスコはマリア・ドミニカをその会長に任命しようとしたのに、彼女はどうしてもこれを受諾しなかったからやむなく聖アンナ修道女会から二人の童貞を招聘し、これに新修道女会の指導を託した。しかし2年後ドン・ボスコがマリアに再度会長就任を慫慂するやさすがの彼女も辞退しきれずに之を受け、それからは修女一同に慈母の愛をもって臨み、あるいは教え、あるいは誡め、あるいは慰め、あるいは励まし、ドン・ボスコの与えた会則を自分も守れば人にも守らしめ、あっぱれ一院の総帥たる大任を果たした。そしてその修女会を聖母マリアの御保護に委ね、「扶助者聖マリアの修女会」(扶助者聖母会)と称したのである。
 同会は経済上甚だ恵まれていなかったから、経営は随分困難であった。しかしそれにも拘わらず、ドミニカはドン・ボスコの勧めるままに思い切ってあちらこちらに分院を設置し、数多の志願者をどしどし入会させた。遂には遠いアメリカにまで分院を建てたが、彼女の天主に対する厚い信頼は裏切られず、いずれの修院も次第に繁栄するに至ったのである。

 1881年には南米アルゼンチンに新修道院が出来た。総長マリア・ドミニカは同地に赴く修女達を送ってジェノヴァまで行き、次いでフランスを訪問してマルセイユに至り、帰途北イタリアのリグリア州を通過中、不幸肺患を発し、ついにその年の5月14日、44歳で亡くなった。彼女は日頃から聖母の日である土曜日に死にたいという望みを抱いていたが、見事その願いが叶えられたのみか、その日は扶助者の聖母の祝日に対し準備として献げる9日間の祈りの第一日に当たり、その月さえも聖母月であったのは、まことに不思議というべきである。彼女の最後の言葉は「イエズス、マリア、ヨゼフよ、わが心と精神と生涯とを御手に託せ奉る」と三回繰り返したそれであった。

 彼女の死後も同会は豊かな神の祝福を受けて驚異的な発展を遂げ、全世界に擁する修院数は千を超えている。


教訓

 「主は強き所を辱めんとて弱き所を召し給う」(コリント前書 1・27)
健康にも恵まれず学問にも格別すぐれていた訳でもないのに「扶助者聖マリアの修女会」の創立者となり、今日の発展隆盛の基を築き上げた聖女マリア・ドミニカ童貞の生涯は、この聖パウロの言葉のこよなき例証ともなろう。それにつけても我等は、如何なる事業も主の御祝福がなければ決して成功するものではなく、またその御祝福は謙遜でなければ与えられぬ所以をよくよく悟り、まずこの徳を積む事に努めるべきである。