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聖ペトロ・クリソロゴ大司教教会博士 St. Petrus Chrysologus E., D.E. 記念日 7月 30日
天賦の雄弁に金言(クリソゴロ)とあだ名され、聖会に重きをなしたイタリア、ラベンナの大司教聖ペトロは、406年イモラという田舎町に産声をあげ、同地の司教コルネリオに受洗し、長じて後は聖職者の列に加えられ、助祭まで昇進した。
ところが彼の27歳の時である、西ローマ皇帝ヴァレンチニアノが都して居られたラベンナの司教が没したので、後継者の選挙があり、その当選者に対し教皇の御批准を仰ぐ為、使節団がラベンナからローマに上ったのに、かのコルネリオ司教も愛するペトロを同伴して参加したのである。
すると時の教皇シクスト3世は天主から特別の御啓示を賜ったと称し、意外にも正式選挙の当選者をさしおいて一介の助祭ペトロをラベンナの司教に任命された。それと聞いた時の人々の驚き、わけても当のペトロの驚きはどのようであったろう!彼はほとほと困惑して再三その大任を辞退しようとした。しかし何分にも天主の聖旨であるという教皇の御命令であるので、従わぬ訳には行かず、とうとう司教への叙階を受けることとなった。使節団はもちろん始めこのあまりといえば意外な教皇の御処置を喜ばなかった。けれども追々御説明を承る中に釈然と諒解し、快く若年のペトロを新大司教とする事に同意したのであった。かくて一同がラベンナに帰るや同市民は天主が直々に定め給うた新大司教を戴く光栄に感激して欣喜雀躍に盛大な行列をして郊外まで出迎えた。
当時ラベンナ市民は多神教からキリスト教に改宗して日なお浅く、享楽や奢侈贅沢に耽る悪風いまだ改まるに、アリオ派の異端が人心を惑わすという有り様であったから、その都に大司教たるペトロの責任は一方ならぬ思いものと言わねばならなかった。で、彼は着任当初の説教に、
「この度不肖計らずも御当地司教の大任を拝受しましたが、微力な私は之を辱めぬ為唯々皆様の御協力の仰ぐ外はありません。就いてはまず皆様に天主の御戒めををもっと忠実に守る事をお願いしたいと思います。これ、実に天主の御光栄と皆様の救霊とを念とする私の衷心からの希望なのであります」と誠意を披瀝して市民の反省を促した、その肺肝より出る熱誠の叫びは、信仰に冷淡な人々の心をも揺り動かさずにはいなかった。彼等はペトロの雄弁に驚嘆すると共に、またその聖なる日常に感じ彼の説教台の下に来たり集い、その説く聖教に耳を傾ける者は日に日に多きを加えた。そして単なる好奇心から来聴した異端者がいつか彼の明快な論理に迷いの夢醒め帰正すれば、罪人は彼の肺腑を抉る訓戒の言葉に涙を流して改心を誓い、市民は次第に淫靡な遊びや舞踏から遠のくようになり、ラベンナはかくてそのキリスト教都市たる本来の面目に立ち帰ることが出来たが、それにはペトロの熱心に感じた皇太后ガラ・ブラシヂアのさまさまな援助もあずかって大いに力があったのである。
ペトロの説教振りがいかに熱烈なものであったかは、時に全く声を涸らすことがあったという一事でも察せられよう。そういう場合信者等はわが事の様に彼の身を心配し、その自重加餐を切望したと伝えられている。彼等が推服の程も窺われるではないか。
彼の説教は後にラベンナの司教フェリクスに編纂されて、176だけ今日まで遺っている。その一例を挙げれば新年にいかがわしい舞踏会の行われる悪習を咎めて「悪魔と戯れることを望む人々に、どうしてキリストと共に在る清い平和な歓喜が解らせようか!」と叱咤しているが、かように彼の説教はいつも聖なる憤怒に燃えて世人の罪悪を糾弾し、地獄の罰の恐ろしさを説いてその改心を促すという風であった。
司教に叙階される人はその祝別式に於いて貧者の慈父となる事を誓うが、ペトロは常にその誓いを忘れず、しばしばラベンナ市クラシス区スラム街の貧民窟を見舞い、わが食を減じてまで之を貧窮の人に恵み与えた。そしてわが力の及ばぬ際には、かの情ある皇太后ガラ・ブラシヂアにお縋りして、その御援助の下に慈善の業を行うのであった。
西ローマ帝国首府の大司教座に在り、学徳兼ね備わり、しかも類い希な雄弁家なるペトロの名声は、天下に雷の如く轟き渡った。彼の信仰は盤石の如く堅固にして揺るぎなく、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルの総主教オイチケスが浅はかにも異端に奔り、彼をも味方に引き入れようと勧告状を送った折りも、彼は「真理を求める者に之を与えるのは聖ペトロの外にはない。故に我等は事信仰道徳に関する限り、聖ペトロの後継者たるローマ司教の裁定に従わざるを得ぬのである」と、きっぱりとその誘惑を退けた。この449年付きの彼のオイチケスに対する返書は、今でもローマ教皇の首位権を証拠立てる有力な資料とされている。
ペトロはその時ようよう43歳であったが、日頃の心労は年齢よりも早くその体力を消耗したのであろう。二年後彼は死期の迫れるを感じ、心静かに善終の準備をしようと大司教座を退いて故郷イモラに戻り、殉教者カシアノの墓に詣でてその聖堂の祭壇に美麗なカリスと冠とを献げ、やがて同地で終油の秘蹟を受け、遂に451年12月2日長逝した。遺骸は聖カシアノの墓の傍らに葬られたが、片腕だけは黄金の箱に納めてラベンナ市に送られ、同市の聖堂に保存されている。
教訓
ローマ教皇の首位権、不謬権は我等カトリック信者の必ず信ずべき事の一つである。それはもちろん信仰道徳の問題に関してだけであるが、我等の信仰を確乎不動ならしめ、大船に乗ったような心安さを感ぜしめずにおかない。金言聖ペトロを始め諸聖人はいずれも右の信仰箇条を忠実に信奉された。故に我等も天国の門をくぐる為、安んじて教皇の御指導に従おう。