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ピエトレルチナの聖ピオ司祭 記念日 9月 23日
「受難のしるしを受けた司祭」、ピエトレルチナの聖ピオ神父がその身に主キリストの受難のしるしである「聖痕」を受けたのは1918年9月20日の朝、彼が御ミサを献げ、その後十字架の前で感謝の祈りを献げているときであった。この日彼はいつもよりまして祈りに潜心し、脱魂状態にあった。すると突然十字架から五筋の光がさして、彼の両手、両足、脇に傷をつけたのである。ピオ神父の身体にはこの日以来亡くなるまでずっとこの傷を身に帯びていた。
フランシスコ・フォルジオーネ、後のピオ神父は1887年5月25日にイタリアのサンニオ地方にあるピエトレルチナ(小さな岩の意味)という岩の多い貧しい小さな村に聖父オラツィオと母ベッパとの間に七人兄弟の四番目の子として生まれた。彼の家はたいへん貧しかったが、当時のイタリアの伝統的な価値観と信仰のうちに育てられた。彼はごく幼い頃から神への奉仕のために自分自身を献げたいと思っていた。そして子供の頃から、幻視や脱魂状態を体験していた。5歳のころから主に自分自身をささげたいという望みが芽生えてきたがその望みが揺るぎないものとなったのはフランシスコが15歳の時に見た強烈な幻視において、彼の歩むべき人生が示されていたからであった。この時のことを。ピオ神父は共に暮らす修道者たちにこう述べている。「二つの集団が見えました。一方は、輝かしい顔をして白い衣をまとっていました。もう一方は恐ろしい形相で黒い衣を着ていました。私は両集団の真ん中に立ち、雲まで背がとどくほどの巨人と戦うよう呼ばれました。隣にいた、光り輝く人物がこう励ましてくれました『私はすぐここにいる。私が君を助け巨人から守ろう』戦いはすさまじいものでしたが、とうとう私が優勢となり、勝ちました。光輝く人物は、私の頭上に冠をのせようとしましたが、ふと手を止めて言いました『私はこれよりさらに美しい冠を、君のために用意している。今君が戦った相手と、また戦う気があるのならばだ。敵は必ずまた襲ってくるだろう。私の助けを疑うことなく、勇敢に戦いなさい』」。彼は生涯においてはこの言葉の如く数え切れないほどの悪魔との戦いを体験することになるのである。
この「大いなる戦い」の幻視を見た頃にはカプチン会士になりたいという願いが彼の心を占めていた、フランシスコは、近くのモルコーネ修道院の若い托鉢修道士のカミッロ修道士にあこがれるようになった。彼はカプチン会士がどういう人なのかを当然知らなかったが「カミッロ修道士のようになりたい」と思っていた。後にピオ神父はこう述べている「カミッロ修道士のひげが強く印象に残り、だれもそれを取り払うことができなかった」こうして1902年の春フランシスコは15歳でモルコーネの志願院に入ることをカプチン会に申し出て、翌年1月6日に入会を許可された。その後彼は1907年1月27日には清貧、従順、貞潔の誓願をたて長上により新しく「ピオ」という修道名を名付けられたのである。
1916年の7月28日ピオ修道士は初めて、フォッジア地方にあるサン・ジョバンニ・ロトンドに移った。この時から彼はこの後の生涯の後のごく短期間を除いて、ピオ神父は死ぬまでの52年間ずっと留まることになるのである。ピオ修道士は厳しい修道生活を送り、規定されている以上の断食や徹夜の祈り、むち打ちを行って犠牲をささげた。彼は命を危ぶまれるほどの状態となったが彼は長上に、司祭となりたった一度だけでも御ミサをささげたいとの願いを告げ、この願いは聞き入れられた。彼は10ヶ月後の1910年8月10日にベネヴェント第聖堂で司祭に叙階されピオ神父となったのである。司祭に叙階されてしばらくして、主のご受難のしるしが初めて彼の体に現れた。彼はこのような目立つ現象を消し去ってくださいと主に祈りその祈りは聞き入れられた。しかし目に見える疵痕は消えたものの痛みは消えることなく、その痛みは水曜日と木曜日の夕方から土曜日までの間に特にうずくという特質がありこの時期の状態は「隠れた聖痕」と呼ばれる。
ピオ神父は1918年9月20日の金曜日、朝の御ミサを終え、大きな十字架の前でいつものように感謝の祈りを献げている時に、目に見える聖痕が現れた。このことはピオ神父にとってさらなる「カルワリオ」の始まりであった。この聖痕はピオ神父が亡くなるまで彼の体に現れ続けたのである。
「サン・ジョバンニ・ロトンドの聖者、ピオ神父が一人の町民に奇蹟を行う」という記事が1919年6月20日の新聞に掲載され、町中がこの現象に騒然とした。医師達がピオ神父の体に刻まれた出血の絶えない傷を細かに調べる間に、教会からは公式には慎重さが求められていたにもかかわらず、彼の聖痕や行った奇跡の数々についての噂がひろまり。このころからサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れる人が後をたたず、この南イタリアの小さな村はイタリアでも最も巡礼者の多い所となったのである。
主が、この聖なる修道者ピオ神父の取り次ぎを通して行われた奇跡は実に数多いが、その中でも最も感動的で驚異的なものを紹介しよう。1939年生まれのジェンマ・デ・・ジョルジは生まれつき目が見えない少女であった。まだ赤ん坊の頃から、両親は娘の眼の異常に気づき、数多くの専門医に連れていった。しかし複数の著名な眼科医から、彼女には生まれつき瞳孔が亡く、目が見えることは一生ないと診断された。彼女が6歳半になったとき、初聖体を授かることになった。彼女の祖母は、サン・ジョバンニ・ロトンドで奇蹟を行う修道者がいることを聞き、孫をそこへ連れていってみようと思い立った。そして道中、癒しの執り成しを彼に願うようにと言ったが、少女はそのことを忘れてしまった。しかしピオ神父は、少女の告解の際に、彼女の両目の上に手をおき、十字架のしるしをした。御聖体拝領の際にももう一度少女の両目に十字架のしるしをした。その帰り道で、少女は祖母に目がはっきり見えると言った。その後の医師らの検査の結果、少女には瞳孔がないにもかかわらず、確かに目が見えていることが判明した。
1962年11月、ポーランドのクラコフ教区で活躍していたワンダ・ポルタウスカ教授が喉頭ガンにかかり、死が近づいていた。医師ももはやどうすることもできず、やがてのことは、ローマで第二バチカン公会議に出席中のクラコフ教区司教の耳にも届いた。彼の名はカロル・ヴォイティワ司教、のちの教皇ヨハネ・パウロ2世である。ヴォイティワ司教はポルタウスカ教授の家族と長年交流があり、遠い故郷から届いた知らせに深く悲しんだ。それで10月17日、彼がまだ若い司祭だった頃に、ゆるしの秘蹟を受けに訪れたサン・ジョバンニ・ロトンドの「聖痕の聖者」あてにラテン語で手紙を送った。未来の教皇はこう書いた「敬愛する神父様、私はあなたに、ポーランドのクラコフ在住の40歳の女性のために祈ってくださるようお願いしたいのです。彼女には若い娘が4人います。前の大戦中、彼女はドイツの強制収容所に入れられ、今、ガンのために健康そして命そのものに危機が迫っているのです。聖母の取り次ぎにより、神がその家族に憐れみを示してくださるようにお祈り下さい」11月28日、もう一通の手紙がピオ神父に届いた。「敬愛する神父様、ポーランドのクラコフに住む、4人の娘の母親である女性は、11月21日、手術を受ける直前に突然治まりました。この女性とその夫や家族の名において、私は心からの感謝を、神そして神父様にお献げします」
ピオ神父には聖痕や奇蹟を行うなどのしるしの他にさらなる賜物が与えられていた。それはバイロケーション(一人が同時に二カ所に存在すること)、不思議な香り、高熱症(48度もの高熱を出すこと)、予言、癒し、心を読むこと、天使との交わり、徹夜の祈りや断食を人間的限界を超えて行うことなどでありそれらの賜物により、彼は教会の伝統が誇る偉大な聖人たちと同列に加えられるのである。
「彼は修道者としてカプチン会の理想と精神を高潔な姿勢で生き抜き、同時に司祭職の理想をも生き抜いた」。1987年5月23日の土曜日、サン・ジョバンニ・ロトンドを訪れた教皇ヨハネ・パウロ・2世は、このようにピオ神父のことを描写した。カロル・ヴォイティワはペトロの座に就任する前、1947年と1962年に2度、この聖痕の修道者と個人的に面会する機会があり、感銘を受けた。
聖痕やピオ神父の行った奇跡などはカリスマと呼ばれ、それはすべての人の善のために、そして教会の啓発のために与えられたのである。ピオ神父は神から授かった特別なカリスマの数々を通して、キリスト者として生きるに何が必要かを、私達に気づかせてくれたのである。
「祭壇と告解室が、彼の人生の二本の軸だったのではないでしょうか」とヨハネ・パウロ2世はサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れた際に言った。そして次のように強調した「今日でも、彼は私達が模範とする人物である。彼においては、カトリック司祭を特徴づける、喜ばしく霊的な二つの面が際だっているからである。それは、主のおん体とおん血を奉献する権限と、罪を赦す権限である。」またパウロ6世は、ピオ神父のもとに世界中から多くの人がつめかける様子を見て言った「彼のこの有名ぶり!なんと多くの民を、四方から自分のもとに引き寄せるのだろう。しかしなぜなのか?彼が哲学者、賢者であるから、あるいは財産があるからか?」そして教皇は簡潔に答えを述べる。「・・・それは彼が謙虚に御ミサを献げ、日の出から日暮れまで告解を聴き、主の傷をその身に受けたからである。」
ピオ神父は、一日15から16時間、日によっては19時間をも祭壇と告解室において過ごした。世界中からピオ神父に告解の秘蹟を授けてもらおうと集った。また神父は毎朝三時半に起床し、そして小聖堂に行き5時からの御ミサに備えて祈りに没頭した。地元の農民たちに加えて多くの巡礼者が前日の真夜中から修道院にやってきて、小聖堂の扉の前にならんだ。彼の御ミサにあずかった人々は合わせて二千万人以上であると言われている。御ミサはたいへん感動的であり「沈黙とひざまずき」のうちに行われた。信徒たちも彼の熱心な御ミサに熱心にあずかり。聖痕を受けたピオ神父は祭壇おいて実に感動的な一致を見せた。「ピオ神父の御ミサは、この世で献げられている他のどの御ミサとも異なる。それは典礼のちがい、解釈のちがいなどではない。それは彼自身が生きた御聖体となってイエズスの受難を新たにするからである」とある人は言った。
ピオ神父は、御ミサの後軽い食事と個人的な祈りの他は、すべての時間を罪に苦しむ者たちにささげた。推定でも500万人以上の人が彼に告解をしたとされている。彼の告解は簡潔かつ的を就いていて、平均で一人三分ほどだったが、彼は本質的なことしか言わせず、一時間に20人ほどの告解を聴いた。それでも、ピオ神父があわてて告解を聴くことは決してなかった。ゆるしの秘蹟を授けることも、彼にとっては苦しみであったのである。それ故彼は「告解室の殉教者」とも呼ばれるようになった。彼は、人々が主に対して犯した罪によって、自らの身をもって苦しんだのである。
ピオ神父にとって最も深い苦しみは、彼がこよなく愛する教会の内部からくるものであった。1931年から1933年までの2年間、彼は信徒たちとの一切の接触を禁じられ、ミサ聖祭も個人のみで行うように命じられた。しかし彼は謙虚さと従順とをもって、これらすべてを受け入れた。彼の口癖は「私は聖なる従順の息子です」であった。
ピオ神父の生き方を貫いていたのは教会の子としての無条件な従順であった。半世紀もの間、彼の長上は何度かピオ神父の修室を訪ね、厳しい規制を言い渡す教会当局からの書簡を読み上げなければならなかった。しかしピオ神父は、聞き終わると常に「神に感謝!」と言うのだった。
ピオ12世は、教皇の座について間もなくイエズス・キリストにおける兄弟愛と、信徒が互いに霊的に支え合う義務を指摘し、集まって共に祈るようにたびたび呼びかけた。彼の祈りへの呼びかけは、第二次世界大戦の悲劇の暗雲がたちこめ、人々の相互援助の精神が危機的になったとき、いっそう力強くこだました。1943年3月13日に、ピオ12世は、信仰を実践し、祈りも欠かさないカトリックの男性及び青少年のグループ結成を呼びかけ「恐れずに、共に祈りましょう」と強調した。祈りの大切さと力を知っていたピオ神父は、教皇の呼びかけにいちはやく応えた。彼は言った「何かを始めましょう、腕をまくりましょう。私達が率先して教皇様の呼びかけにこたえましょう」と。そして生まれたのがピオ神父の「祈りの会」である。この会は一ヶ月に一、二回集まり御ミサにあずかり、、御聖体拝領し、共にロザリオを祈る会であって、サン・ジョバンニ・ロトンドからみるみる広がり、やがて国境すら越えて、今日では世界中で50万人以上の会員がいるといわれており、これもピオ神父の偉大な奇跡のひとつだろう。
もう一つの大きな奇跡は今日世界でも最も近代的で設備の整った、ベット数1200を誇る大病院である「苦しみを癒す家」の建設事業であろう。この病院はサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院の傍に建つ大病院であるが、これは当時急を要した必要性から生じ、公の寄付もなく、神のはからいのみを頼りとし、何一つないところから誕生した事業である。
1968年9月22日81歳のピオ神父は聖痕を受けて50周年の記念を祝おうと訪れていた巡礼者の前で最後の御ミサを献げた。そして9月23日の夜中2時頃に「イエズス!マリア!」の言葉を最後に天に召されたのであった。そして50年間ピオ神父の体に現れていた聖痕は傷一つ残さずに完全に消えてしまったのである。
サン・ジョバンニ・ロトンドには彼の死後30年以上たった今日でさえ毎年何百万人もの巡礼者が彼の墓を訪れる。
1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世はサン・ジョバンニ・ロトンドを訪問し、その後すぐに神の僕ピオ神父の英雄的徳が正式に宣言された。そして1999年の5月2日に列福され、そして2002年の6月16日に聖人の列に加えられたのである。