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聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas            記念日 6月 19日



 聖ロムアルドの生涯は御憐れみの限りない事と、罪人も痛悔して聖寵の導きに従えばよく完徳の域に達し得る事とを示す最高の実例である。

 彼はイタリアのラヴェンナに生まれた。父母は貴族であったが、その生活振りは全く世俗的非キリスト教的であったから、息子のロムアルドも見真似ですでに若い時から心の清さを失い、父母の如く放埒な生活を送るようになった。しかし信仰だけは依然として守っていた。これは不品行な人にしては極めて珍しい例である。
 彼はしばしば、例えば馬に乗って人里離れた静かな所へ来た時など、どうにかして聖教に違わぬ生活がしたい、否、時としては聖人のような完徳の生活がしたいとさえ思う事があった。が、一方堕落の淵からはなかなか浮かび上がる事が出来なかった。
 けれども遂に恐るべき事件が起こって、その織りに与えられた天主のあつい聖寵は、彼の改心を促さずにはおかなかった。その事件とは彼の父セルギオがふとした事から親戚の一人と不和になり、決闘を行ってこれを刺し殺した事である。その時青年ロムアルドも介添人として無理に父に同行を命ぜられたが、相手の悲惨な死に様を見ると深く心を打たれ、ラヴェンナ郊外のクラッセ修道院に40日間籠もって、殺人罪を犯した父と、それに連座した我が身の為、償いの苦行をする事にしたのである。
 償い終わって心が晴れると、彼は又元通りの生活に帰ろうとしたが、一人の修士は彼を全く改心させたいと思い、熱心に修道院に入ることをすすめた。しかし彼はなかなかそれを聴く気色もないので、その修士が最後に「では、私達の教会の保護者聖アポリナリオに逢わせて上げますがどうですか」と言うと、そんな事の出来る訳がないと思うロムアルドは「よろしい、そうしたら修道者になりましょう」と約束した。
 その晩彼は修士に連れられて教会に行った。そして祈りをしていると果たしてその聖人が現れ、幾つもある祭壇を一々見回り、それから自分の墓の所で消え失せた。その次の晩も同様であった。かくてロムアルドは全く改心して、修道院に入る事を願うに至ったのである。
 修道院に入った時彼はようよう21歳であったが、始めからまじめに総てを行い、殊に祈りと克己の業とを好んだ。残念な事にはこの修道院には世間的な空気がみなぎっていて、修道者もあまり熱心でなかったから、ロムアルドは黙視出来ず再三それを咎めたが、その為多くの人々は彼を憎み、中には彼を殺そうと謀る者さえ出るに至った。幸い天主の御加護に依って彼はそれに気づき、自ら願ってその修道院を去った。もっともそのまま世間に帰った訳ではない、完徳に達したい欲求からマリノという山修士に師事する事になったのである。
 その頃ヴェニスの大統領のペトロ・ウルセオロが遁世の志あり、マリノとロムアルドに相談してフランス、クザンの聖ミカエル修道院に入ったが、マリノとロムアルドもその修道院の付近に庵を結び、従前の厳格な生活を営む一方、農耕の業にも従った。
 その頃ロムアルドはさまざまの試練に遭遇した。まず過去の記憶が彼を苦しめ、悪魔も内外から彼を責めさいなんだ。しかし彼はその悩みがいかに大きくともよく耐え忍び、深い信頼を以て祈り、総てを我が罪の償いとして献げた。されば彼の徳は目に見えて進歩すると共に、彼の父もまた改心の恵みを得て修道院に入る決心をするに至ったのである。
 が、父にはその生活があまりに厳しすぎたのであろう、間もなく又世間に帰ろうとした。それと知ったロムアルドは急ぎイタリアの父の許に帰った。そして或いは慰め或いは諫め、忍耐して修道院に留まる事を、誠意おもてに現して願ったので、父もその言葉に従い還俗を思い止まり、しばらくの後敬虔な死を遂げたという。
 爾来数年間はロムアルドの上に慌ただしい月日が続いた。彼はイタリア国内を転々と、静寂の境を求めてさまよい歩いた。適当な所はいくらでもあったが、彼が一旦そこに庵を結ぶと、たちまちにしてそれが駄目になるのである。というのは、それと知るや否や四方八方から、教えを請いに数多の人々が潮の如く押し寄せて来るからである。弟子にしてくれと言う者もある、私共の修院長になってくれと願う修士等もある。ロムアルドはほとほと困却せずにはいられなかった。彼は唯人々の煩いを逃れて、静かに貧しく慎ましやかに天主に仕えていれば満足なのである。

 996年ドイツ皇帝オットー3世は、イタリア訪問の折り自分の保護の下にあるクラッセの修道院をも訪れたが、その乱脈に驚き、改革を思い立ち、之が遂行に適当な人材を修道者等に選ばしめた所、誰も彼もロムアルドを望んだ。で、皇帝は親しく聖人を訪い、その大任の引き受け方を懇請したので、彼もやむなく承諾した。
 けれども彼の様々な努力も矢張り空しかった。彼は司教と皇帝に願って淋しくまたわが庵に帰った。
 しかしそこにおける数人の弟子の敬虔な生活は彼の心を十分に慰めてくれた。中でも、後にロシアに布教し殉教したボニファチオ、ハンガリーに布教し、同時に殉教したヨハネとベネディクト、この3人は傑出していた。ボニファチオ殉教の報に接した時など、ロムアルドは自らその地へ急行しようとまで思った。もっとも丁度重病の床にあってその望みを果たす事は出来なかったが。
 後彼はある富豪からカマルドリと呼ぶ静かな土地を贈られ、そこに弟子達の為に修道院を設け、同時にカマルドリ修道会を創立した。同会は今日もなお存し、峻厳な生活振りを以て世に聞こえている。
 ロムアルドは又シトリオ山上にも一つの修道院を設けた。そこへ彼は、前に放埒の限りを尽くした貴族出の一青年を入らしめたが、この青年は改心を誓いながらも素行は依然収まらなかった。で、ロムアルドは彼を善導すべく百方手を尽くしたけれど、相手は心を改める所か却って師の忠言叱責を怨みに思い、彼が自分と共に人知れず放蕩をしているというような、あらぬ噂を立てた。人々はこれを信じて大いに怒り、彼を縛り首の刑に処すか、或いは彼の住居を焼き払おうとまでいきり立った。彼は御ミサを立てる事も禁ぜられた。けれどもロムアルドは唯黙々としてこの濡れ衣の屈辱を忍び、その命に服した。もっともある時天主御自身が現れ給うて、御ミサを献げよと仰せられたとも言われている。彼は今や年老いて死期の近づいた事を悟った。ある日彼は一人でいたいからと言って傍の人々を去らしめた。孤独を愛した彼は、死ぬにも天主と水入らずで唯一人死にたいと思ったのである。
 翌朝聖堂に彼の姿が見えなかったので、弟子達がその部屋へ行ってみると、師は安らかに大往生を遂げていた。時に1027年、6月19日の事であった。

教訓

 わが罪の償いをせねばならぬ。それには病苦、日頃の労苦、又人に悪意を持たれるつらさなどを忍ぶがよい。不成功、忘恩、誹謗などに心痛む時も、聖ロムアルドの如く常に天主への信頼を失ってはならぬ。いつかは必ずその報いを受けるであろう。