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聖シメオン司教殉教者      主イエズスの従兄弟である聖人      記念日 2月 18日




 聖福音書に折々「イエズスの兄弟」という言葉が見いだされる。しかし主が聖母の御一人子であった事は周知の事実であるからこの兄弟とは実の兄弟を意味するのではなく、従兄弟と指している事は言うまでもない。例えば小ヤコボ、ユダ・タデオ、カアナンのシモン等三使徒や、ここに語らんとする聖シメオンも主の従兄弟にあたる人々である。

 このシメオンはイエズスの御降誕の幾年か前に生まれ、父の名はアルフェオといった。シメオンは十二使徒の中には加えられなかったが、直接主から聖教を聞き、又聖霊降臨の時には、かの百二十人の弟子達の中に加わっていたと信ぜられる。エルサレム最初の司教小ヤコボの兄弟であって、紀元62年ヤコボが殉教するや、その後任に選ばれ、麗しい徳行に信徒の多大な尊敬を集める一方、熱心に布教の為尽くす所があった。

 紀元70年、エルサレムがローマ軍の攻撃を受けるや、信者等は今は亡きイエズスのエルサレム滅亡の御預言を思い出し、急遽ヨルダン川の東にあるペラという村に避難したが、シメオンもその時自ら牧する羊の群と行動を共にしたのである。

 果たしてエルサレムは主のおっしゃった通り「一つの石も崩して残されぬ」までに蹂躙され、死者数知れず、僅かに生き残った人々は捕虜にされてローマに引かれ、或いは闘技場で猛獣の餌食にされ、或いは憐れむべき奴隷に売られるなどの憂き目を見たが、主の警告に依って難を逃れた信者等はローマ軍撤退の後エルサレムに戻り、廃墟の上に仮の住まいを建てて、付近の町々に聖教を述べ伝えたところ、何しろ恐るべき天罰を目の当たり見た事とて、さすが不信のユダヤ人等も心折れて、聖教に帰依する者多く聖会はかえってこの艱難の時に隆盛に赴いたのであった。もっとも間もなくナザレノ派、及びエボニト派の二つの異端が起こったけれど、これはシメオンの存命中には、それほど流布するに至らなかった。

 シメオンはその後も信徒には善き牧者となり、異教者には真理の光となり、ひたすら天主の御国の為に働き百二十歳の高齢に達した。すると当時のローマ皇帝トラヤヌスは、ユダヤ史上に名高いダビデ王の後裔をを求めて見あたり次第これを殺すべき事を天下にふれた。これはユダヤ人等の間に、やがてダビデ王の子孫から偉大な人物が現れて、ユダヤ民族をローマ帝国の桎梏のもとより解放し、新たに光輝あるイスラエル王国を建設するであろうという風説が専ら行われていたのを、伝え聞いたので、およそダビデ王の末とあれば、如何なる嬰児といえども殺し去ってその血統を根絶やしにし、以てわが主権を犯される憂いを未然に防ごうとしたのである。

 然るにシメオンもダビデの血を承けていたから、捕らわれてユダヤの総督アッチコの前に引き出された。総督は彼の老齢を憐れんで、キリスト教さえ棄てるならば一命は助けてやろうと言ったが、もとよりおめおめと命欲しさに信仰を捨てるようなシメオンではない、きっぱりとそれを拒絶したので、アッチコは遂に彼を磔にすべく宣告を下した。
 シメオンはイエズスと同じ刑の下に致命し得る光栄を深く喜び、自ら進んで十字架の上に仰臥して手足を釘付けられ、己を殺す人々の為に天主の赦しを祈り求めながら、崇高な死を遂げた。時にキリスト御降誕後百六年のことであった。


教訓

 聖シメオンはローマの軍勢がエルサレムに近づいた時、主の御預言を思い出し、信徒等を促して市外に逃れ、以て未曾有の大難を免れた。かように、主の聖言は必ず成就し、それに従う者は又必ず霊肉の幸福を得るのである。イエズス御自身もかって仰せられたではないか「天地は過ぎん、されど我が言葉は過ぎざるべし」(マタイ24・35)と。