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聖ヨハネ、聖パウロ兄弟殉教者 Sts. Joannes et Paulus MM. 記念日 6月 26日
350年ローマ皇帝の位に即いたユリアノは、自ら天主の信仰をなげうったばかりでなく、不埒にも聖教の根絶、偶像教の再興を企て、新たに聖会に対し猛烈な迫害を始めた。かくて諸々方々の聖堂は焼き払われ、幾多殉教者の聖血は流されたが、中にも宮廷の高官にして金剛不壊の信仰を現し、遂に致命の栄冠を得た二人の兄弟があった。それはここに説かんとするコンスタンチノ大帝の皇女コンスタンチアに仕えていたヨハネ侍従長とパウロ侍従とである。
背教者ユリアノ皇帝は高位の宮臣中に彼等如き熱心な信者があるのを見て、忌々しさに耐えず「キリスト教を棄てて祖先伝来の国教に帰れ、さもなければ死刑に処す」と厳しく申し渡った。しかしもちろんかような威嚇に後込みするような兄弟ではない、彼等は言下に口を揃えて「たとえ私共の生命財産を召し上げられるとも。聖い天主の御教えを棄てる訳には参りません」と勇ましく答えたから、皇帝は真っ赤になって憤り、とうとう二人を死刑に処すこととしたが、ただ彼等は常々国民の間に人望厚く、その敬愛を一身に集めているので、これを一般信者並に刑場に引き行き殺害する時は、人心を激発する懼れがある所から、兄弟の別荘内で窃かに斬り殺すことを命じたのである。
かくてヨハネ、パウロの聖なる兄弟は362年6月26日迫害の嵐に花と散った。その栄えある遺骸はやがてクリスポ、クリスピニアノ、及びベネディクタという三信者の手によってねんごろに葬られ、またその聖い鮮血に彩られた別荘の上には後に聖堂が彼等の記念に建築された。1887年御受難会の修道者達数人が、今に伝わる聖ヨハネ聖パウロの聖堂の下を発掘したところ、両聖人の邸が全く昔のままの有様で現れ、その壁に描かれた十字架や羊等のキリスト教的記号や、両手を挙げて祈る男の絵などを見るにつけても、そぞろに千数百年前生きていた彼等兄弟の篤信振りが偲ばれて床しかったという。
教訓
聖ヨハネ聖パウロ兄弟は衆にすぐれた名誉、地位、財産を有していたのに、少しもそれに執着する色なく、信仰の為には喜んでこれを投げ出し、従容として死に赴いた。これは「人全世界をもうけても、もしその(霊的)生命を失わば何の益かあらん。人何物を以てかその魂にかえん」(マテオ 16・26)という主の聖言を裏書きする天晴れな態度である。我等も信仰を貫く妨げとなる物は潔くこれをなげうつよう心がけよう。イエズスも「汝の右の目汝を躓かさばこれをえぐり棄てよ、そは汝にとりて五体の一つの亡ぶるは、全身の地獄に行くに優ればなり」(マテオ 5・29−30)と諭し給うたではないか。