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”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.Septem Fundatores Ord.Servorum B.M.V.記念日 2月17日
古来聖会に於いては七を聖なる数字として尊んできた。なるほどちょっと考えても七つの秘跡、聖霊の七つの賜物、七枝の燭台、主の十字架上の七つの御言葉等七に縁のある聖なる事物は沢山ある。殊に黙示録などを読めば枚挙にいとまないほどその例を発見し得るのである。ここに語らんとする七聖人が協力一致「聖母マリアのしもべ会」を起こし修道に精進したのも、けだし偶然ではあるまい。
これら七聖人はいずれも北イタリアなるフロレンス市の豪商で、その名をボンフィリオ・デ・モナルデ、ヨハネ・デ・ボナジュンタ、ベネディクト・デル・アンテラ、バルトロメオ・デリ・アミディ、リコヴェロ・デ・ウグチォネ、ゲラルヂノ・デ・ソステニヨ、及びアレキシオ・ファルコニエリと言い、13世紀半ばの人であった。
当時イタリアはドイツ皇帝フェデリコ二世の軍勢に侵入され、国民はグエルフ人とギベリン人の二派に分かれ、町と町、人と人、互いに相争い物情騒然、誠に不安な世態であった。されば七聖人が人生のはかなさを悟り、世を厭い離れてひたすら天主に仕えようと望むに至ったのも無理からぬ事であったのである。
その内に紀元1233年の被昇天の大祝日に聖母マリアが彼らのめいめいに御出現になって、出家修道を勧められたので、彼らもいよいよその決心をし、まずアッシジの聖フランシスコの如く自分の財産をことごとく貧者に施し、司教の許可を得て、9月8日聖母御誕生の記念日を期し、郊外のカマルチアというところにある小屋で憧れの修道生活を始めたのであった。
ある日彼らが粗服を身にまとい、町を歩いていると、小さな子供等がぞろぞろついて来ながら、さも面白そうに「マリア様のしもべ!マリア様のしもべ!」とはやし立てた。彼らの修道会が後に司教から「マリアのしもべ会」と命名されたのは、この子供達の言葉によったのである。その時その子供達の中に幼いフィリッポ・ベニチオという子もいたが、これが後に「マリアのしもべ会」に入り、総長の重任をおびて同会発展に力を尽くし、聖人になったとは、ただただその奇縁に驚かざるを得ない。
それはさておき、七聖人の感ずべき生活ぶりは間もなく町中の評判になり、大勢の人々が教えを乞うべく押し掛けて来るようになった。それで聖人達はこれを迷惑に思い、司教の許可を得て、更にそこから36キロほど離れたモンテ・セナリオという静寂な場所に、なおも祈りと苦行にいそしんだ。
ある聖金曜日の事である。彼らが主の御苦難を黙想していると、聖母マリアが再び御出現になり、アウグスチノ会の戒律を用い、黒の会服を着し、また聖子の十字架の下にたたずむ聖母の御苦痛を尊敬すべき事を示し給うた。七聖人が早速その御言葉に従った事は言うまでもない。
彼らはそのほか国のここかしこを巡って説教もするようになった。これは会をはじめた時の目的ではなかったが、天主の御光栄のため黙していられなかったのである。そして必要にかられてフロレンス市中にアノンチアート修道院と呼ぶ修院を設けた。
巡回説教をするようになると、司祭でなくては都合の悪いことが多い。で、彼らの六人までは司教の承諾を得て叙階の秘跡を受けたが、ただ残る一人、アレキシオだけは謙遜の心からどうしても司祭の権力を受けようとはせず。あくまで平修道者として乞食の生活を続け、恵む者の為に天主の祝福を祈って一生を送った。
七人の中、最初にこの世を去ったのはヨハネ・ボナジュンタであった。彼は1251年8月13日、ミサを献げた後自分の死すべき事を兄弟達に告げ、司祭服を着たまま聖書の主イエズス・キリストの御受難の顛末を読んでもらい「父よ我が魂を御手にまかせ奉る!」という所に至って腕を広げ、その言葉の通り自分の霊魂を天主の御手に返したのである。
反対に、最も長寿を保ったのはアレキシオで、彼は1310年の2月17日、百十歳の高齢でフロレンス市に永眠した。
彼ら七人は生誕死去の時こそ同一ではなかったが、皆同じ墓場に葬られ、均しく人々より尊敬を受け、遂に又相共に教皇レオ13世から列聖の光栄を受けた。
その創立した修道会は今や全世界に広まり、修道院はおよそ七十、修道者は約八百名に及んでいる。
教訓
「聖母マリアのしもべ会」を創立した七人の聖人は、この世に於いては聖い友愛に結ばれ、共に祈り共に苦行し、互いに励まし合って完徳の険路を進み、かの世に於いても天国の永福を共にしている。かように地上の愛は総て超自然の目的に依って聖化されたかめられねばならぬ。親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、朋友の愛、そのいずれにしても天主への愛に基づき、また強められるべきである。