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キリストのご受難を幻に見て
一 最後の過越し祭晩餐の準備
夜明け前にイエズスはペトロとヨハネを呼び寄せ、エルサレムで過越しの晩餐の準備をするよう言い渡された。弟子たちはすでにきのう主がどこで皆といっしょに過越しの晩餐をなされるつもりかお尋ねしていた。イエズスは「おまえたち二人がシオンの山を登って行けば、去年の過越し祭のおり、晩餐の家父であった顔見知りの人が水瓶を持って来るのに出会うであろう。その人について家に入り、かれに伝えよ、わたしの時が近付いて来たとおっしゃる師はあなたの所で過越しを祝いたいことをあなたに言うように命ぜられましたと - そこにはすでに準備された食堂があるはずだから必要なものはみな用意するように。」と仰せられた。
わたし(カタリナ)は二人の弟子が神殿の南の山峡を登って行くのを見た。かれらがシオンの山を登り切った時、広い庭に囲まれた古い建物の近くの広場で、その人に出会った。二人はかれについて行き、イエズスに命ぜられたように語った。かれは二人を見てまたその話を聞きたいへん喜んだ。もう晩餐は予約されていた(多分ニコデモによって)。「実はだれのためであるか知らなかった。」と言った。かれはイエズスが自分の所で食事をされることをたいへん喜んだ。この人はヘブロン出身で、ザカリアとは義兄弟にあたり、へりと言った。去年イエズスが洗者ヨハネの死を初めて告げられたのはヘブロンのかれの家に行かれた時のことであった。へりには司祭である一人の息子がいた。かれはルカの友人で、かれとルカはルカが主の弟子になる前からの知り合いであった。その外にへりには五人の未婚の娘がいた。へりは毎年下僕を連れて過越し祭に上京し、一室を借りて家父のいない人のために過越しの晩餐の準備をしてやっていたが、今年の過越し祭にはニコデモとアリマテアのヨゼフの所有していた古い大きな建物の広間を借りた。この建物はダビドの城からさして遠くないシオンの山の南側にあり、厚い壁をめぐらし木陰豊かな広々とした庭にあった。庭に入ると入り口の左右の堀に沿うて小さな建物が二、三あった。その一つの建物で聖母と他の婦人たちが過越しの晩餐を摂られた。主の磔刑の後、聖母は婦人たちとよくここにおられた。へりが借りた過越しの広間のある大きな母屋は庭の中央で少し後ろ寄りであった。この家でかつてダビドの勇敢な英雄たちまた指揮官が武術を練っていたこともあった。そしてその遺跡は地下室にあった。わたしはこの地下室に預言者マラキアが隠れて御聖体と新約の犠牲の預言を書いているのを見た。ソロモンもまたこの家を尊敬していた。エルサレムの大半がバビロン人に破壊された時も、この家は無事に残っていた。しかし現在ではニコデモとアリマテアのヨゼフの所有になっていた。かれらは過越し祭のおりにはこの家を祭日を祝う客人の祝宴場として綺麗にかたずけ貸すのを例としていた。その外の時はここを建築用や墓碑用石材の置き場として、あるいは石工の作業場として使用していた。アリマテアのヨゼフは自分の故郷に良い採石場を持っていたが、墓碑、柵、柱などがかれの監督のもとにここで作られ売買されていた。ニコデモもまた建築に関係していたが趣味から自分で彫刻もしていた。かれはよくこの広間で、時にはまた地下室で、石の彫刻をしていた。この趣味を通じてかれはアリマテアのヨゼフと非常に親しくしていた。そして共同で仕事をすることも時々あった。
晩餐の広間のある母屋は長方形で、そのまわりは低い柱の並んでいる廊下で囲まれていた。そして中にある高まった広間といっしょにまとめると一つの大きな部屋とすることができた。それは建物全体はもともとずっと見通しができ、並んだ柱の上に建っていたからである。ただ普段入り口は取り外しのできる壁でとじられ、光線は壁の上の穴から射し込んでいた。広間の前面の狭い方には三つの入り口のある突き出た玄関がついていた。そこから奥の高まった広間に入ることができる。それは板で綺麗に張られ、天井からは幾つかのランプが下がっていた。祭日などの際には壁は中程の高さまでじゅうたんやマットで被われ、掛け物に明かり取りを作った。広間は幕で二つに仕切られ奥の方は衣類や器具の置き場に使われていた。中央にはある種の祭壇があった。それは壁から突き出た石台で三段の階段がついていた。これが過越しの羊を焼く窯であろう。と言うのは今日の晩餐の時この階段の周囲は非常に熱かったからである。この部屋の一方には扉があって、外側へと玄関に入られるようになっていた。広間の外側の空間には、あちらこちら壁に囲まれた寝台があり、その上には厚い掛け布団が巻かれて置いてあった。これが寝室である。この建築全体の下に地下室がくりぬかれてあった。契約の櫃の場所は奥の方にあったが、今はその上に過越しの窯がしつらえてあった。わたしはすでに以前イエズスがここで病人を癒したり教えを説いたりしていられるのを見た。また弟子たちは時々ここで夜を過ごしたことがあった。
ペトロとヨハネがへりと話をしていた時、わたしは庭の納屋にニコデモがいるのを見た。そこへ人々は広間の近くにある石材を片づけていた。わたしはすでに八日前から人々が庭の掃除をしたり広間を過越し祭のために準備しているのを見た。二、三人の弟子たちも手伝っていた。
二人の弟子と話のすんだへりは庭を通って家の中に戻って行ったが、弟子たちは庭を出てシメオンの息子を尋ねてその家へ行った。そこで彼らは長兄オベドと話をした。この人は神殿に仕えている体の大きい色の黒い人であった。この司祭オベドはかれらといっしょに家畜売場に出かけていった。わたくしはいくつかの小さい囲いの中でかわいい羊たちが小庭の中にでもいるように、芝生の上を飛び回っているのを見た。わたしはオベドがそのような一つの柵の中に入って行くのを見た。羊たちは前から知っているかのように飛びついたり頭をぶつけたりしてじゃれて来た。かれはその中から四頭を選び出して晩餐の広間に連れて行った。わたしはオベドがその午後準備の手伝いをしているのを見た。
ペトロとヨハネはなお街の方を駈け回っていろいろな品物を用意した。かれらはまたベロニカの家にも行き、そこで沢山のものを頼んだ。ベロニカの夫は衆議所の議員であった。大抵は外で仕事をしていたが、在宅をしていても彼女はそのしぐさに干渉されることはなかった。ベロニカは聖母と同じくらいの年頃で、ずっと以前から聖家族とは知り合いであった。イエズスが少年のころ、祭日の帰り道両親と別れてエルサレムに留まっていた期間、ベロニカから食物を受けられた。二人の弟子は、ここで沢山の器物を借り、蓋をかぶせた籠に入れて広間に運んでいった。かれらは主が御聖体のご制定に使われる杯(カリス)も受け取った。
この杯は非常に神秘的な器であった。この杯はすでに長い間何に使われたかまたその起源も忘れられてしまっていた。われわれの所でも古代のいろいろな尊い宝物が時の流れとともに忘れ去られてしまうことが良くあるように、すでに以前から神殿の古い器物が廃棄されたり、売り払われたり、作りかえられたりしていたが、この器だけは何で作られていたのかその材料がわからないので鋳潰すこともできずにいた。神の摂理によってこの聖器は神殿の宝物部屋に他のものと一緒に、古くから忘れられた宝箱の中に置き去りにされてあった。それを若い司祭が発見したが、のちに骨董好きにゆずられ、最後に付属品一式とともにベロニカの所有になった。この杯はもともとは、今のような状態ではなかったが、いつ今のようになったかわたしはもう思い出すことができない。それはこの杯にほかの器物が付属していたからである。
この大きな杯の周りには六つの小さな盃が付属していて、ひきだしが出せるようになっている盤の上にあった。杯の中にはさらに小さな鉢が入っていた。そして小皿が杯の上に置いてあり、さらにその上にお椀形の蓋がついていた。カリスの台には匙が差し込みになっていて用のある時は取り出せるようになっていた。これらの器物は美しい布で包まれた上美しい革製の帽子のようなもので被われていた。そしてその上には「つまみ」がついていた。この大きな杯は盃自体と足台とからなっていた。この足台は後になってから手を加えられたものに違いない。盃自体は褐色がかった鏡のようになめらかな足台とは全然違った材料で作られ、梨のような形をしていた。そしてそれは金で被われた小さな二つの取っ手が付いていて、それを持って持ち運べるようになっていた。それはかなり重いものであった。しかし台には小さな匙が差し込んであった。
この大きな杯はエルサレム教会の小ヤコブの所に残された。そしてかつて発見されたようにもう一度世の中に出て来ることがあるだろう。小さな盃は他の教会に分けられた。ひとつはアンチオキアに、一つはエフェゾ教会に、残りは五つの他の教会に持って行かれた。
この大きな杯は以前すでにアブラハムの所にあった。メルキセデクがそれをカナンの土地に持って行き、アブラハムの所でパンとぶどう酒の犠牲を捧げた時に用いた。その後それはアブラハムに渡された。この杯はまたノアの所にもあった。それは箱舟の一番高い所に置いてあった。モーゼもこれを持っていた。この杯はまるで始めから生物のようにこういう形で生まれ出て来たように見え、槌で打ち出されたものではないように見えた。イエズスだけが何でできているかを知っておられた。