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二九  鞭打ちの刑



 ひきょうでためらいがちの裁判官、ピラトは幾度も矛盾する言葉を言った。「いかなる罪もかれが犯したとは認めない。だからかれをこらしめて、放免しようと思う。」主を磔刑にせよと言うユダヤ人の叫びはやまなかった。で、イエズスをローマ式に鞭打つよう命は下された。ピラトは自分の意志をつらぬくためにまずこういう方法を試みたのである。

 獄吏は救い主をたけり狂っている民衆の間を通って、鞭打ちの柱の所に引いて行った。その柱は、この法廷を取りまいている一つの広間の前にあった。刑執行の奴隷はいろいろの鞭と綱を持って来て柱の所に投げつけた。みなで六人のかれらはイエズスよりも小柄な人間で頭の毛はくしゃくしゃと縮れていた。その色は褐色で頬にはただ薄い荒いひげを生やしていた。

 身についているものと言えば下半身をおおう布と粗末な履物、上半身をおおっている肩衣(スカプラリオ)のように、脇のあいた一片の皮衣だけであった。その胸はむき出しになっていた。かれらはエジプト地方から来たいやしい罪人たちで、この地方の建築や下水工事などのために働いていた。そしてかれらのうち最も悪虐な汚らわしい者がかかる刑執行人として使われていた。

 これらの残虐な者たちはかつてその柱で、哀れな罪人を死にいたらしめるまで鞭打ったことさえある。かれらはその性格の中に何か獣のような悪魔のようなものを持っていた。そして半ば酔っていた。ご自分から進んで歩み出られた主をかれらは拳や縄で殴りつけ、あらあらしく鞭打ちの柱の方へ引きずって行った。その柱は背の高い人なら、手をのばせば上端に届くほどの高さで丸く、上のはしに鉄の輪がついていた。その裏面には中ほどの所に輪や鈎がついていた。この野蛮な人間たちが、わずかな距離を行く間にも主を虐待した狂暴を描写することはとても不可能である。かれらはヘロデが着せた愚弄のマントを主から引きはがした。そして救い主をほとんど地面に投げるばかりにした。主はひどく縛られたため、腫れ上がり、血の流れているおん手で手早くその着物を脱がれた。その間さえもかれらは主を取り巻き、突き飛ばしたり、引きずったりした。主は感動深く祈っておられた。それから主は鞭打ちの柱から余り離れていない広間の片隅に、聖なる婦人たちと共にたたずみたもう悲しめる聖母に一瞬振り向いて言われた。「あなたの目をわたしからそらしなさい。」わたしはこれを本当の口からの言葉でか、あるいは内的な言葉で言われたのかどうか知らない。しかしわたしはマリアがそれを了解されたのを見た。なぜならその瞬間マリアはお顔をそらされたからである。

 主は柱を抱かれた。獄吏たちは残忍な呪いや怒りの言葉を吐きながら、差し伸べられた主の両手をうしろの鉄の輪に縛りつけ、おん体を高々と吊り上げた。柱の下にぴったりとついていた主の両足はやっと立っていた。こうして聖なる者の中にて最も聖なるお方は、罪人の柱に伸びきって立たれた。かくするうち二人の狂暴な奴隷は狂い立ちながら、残忍にも主の全身を下から上へ、次いで上から下へめちゃめちゃに鞭打った。その初めの鞭は白いしなやかな木で作ったもののように見えた。多分それは牛の筋の束か、あるいは固い白色の皮製の筋の束だったかも知れない。刑執行人の風を切る鞭のうなりが聞こえた。時々この響きはファリサイ人や民衆の叫びによってかき消された。その叫びは時々わき上がるまっ黒な嵐の雲のようであった。かれら全群衆はひとかたまりになって叫んでいた。「そいつを取りのけろ。十字架に付けろ。」それはピラトがまだ民衆とやりとりしていたからである。ピラトは何か言う時、静粛を命ずるラッパでその騒ぎを押さえた。すると再び鞭打つ音や獄吏の呪いの声が聞こえて来た。

 民衆は鞭打ちの柱から道路の巾ほど離れて立っていた。ローマ兵はそのまわりにいた。そのすぐ近くには卑しい民衆が種々雑多、あちらこちら歩き回り、あるいは黙り、あるいは罵り、騒いでいた。わたしは何人かの者が感動に打たれているのを見たが、その時イエズスから差し出した光がその人々に触れたようであった。わたしはまたほとんど裸の生意気な若者たちを見た。かれらは見張り小屋の近くに座って、新しい鞭を用意していた。またかれらのうち茨の枝を取りに行った者もいた。大祭司は鞭打っている男たちにこっそり金を渡した。また濃い赤い液の入っている大きな壺が運ばれて来た。刑執行人はその瓶から飲んですっかり狂暴な酔っぱらいのようになった。二人の刑吏は一休みしてかれらの方へ飲みに行った。イエズスの体は褐色、青、または赤の斑点で、全くおおいつくされてしまい、尊い血が流れ落ちていた。侮辱や軽蔑の声は四面から響き渡った。

 鞭打ちの刑吏は第二の組に変わり、怒りを新たにして救い主におそいかかった。かれらは縮れた棘のような他の鞭を持っていた。それはあちらこちらちょうど木の芽のようなもの、こぶこぶのようなものがついていた。かれらは荒れ狂って鞭打った。尊きおん体の痣はみな引き裂け血潮はまわりに飛び散った。刑吏の腕はすっかりその血しぶきを浴びた。

 ちょうどどの時ラクダに乗った多数の外国人がその広場を通り過ぎた。かれらは民衆からそこで何が起こっているかを聞き、驚き悲しみながらそれを見た。かれらは以前山上のイエズスのご教訓を聞いたことのある旅びとたちであった。ピラトの館の前では怒号と騒ぎがなお続いていた。次に交代した二人の奴隷が鞭をもって主を打った。それは鉄の柄に固定された小さな鎖、あるいは細長い皮でそのはしには鉄の鈎がついていた。かれらはそれで肋骨の所の肉と皮膚とをいいかげん引き裂いてしまった。ああ!だれかかようなみじめな、残酷な光景を述べることができようか。

 しかしかれらの残虐性はまだあきたらなかった。かれらは主の縄を解いて背中の方を柱に向けて縛り直した。主は性も根も尽き果てた。主はもはや立っていることができなかった。かれらは細い縄で主を腕と脇の下の所で柱に縛りつけ、両手は柱の中央後方に縛りつけた。神のおん子の尊ぶべき体には血と傷、めちゃくちゃに引き裂かれた痛手以外何も見えなかった。狂った犬そのままに刑吏の奴隷はたけり立って鞭打った。一人はその右手に細目の鞭をもっていたが、それで救い主の顔を打った。主の体にはもはや満足の所は一つもなかった。主は鞭打ちの奴隷を血のあふれる目をもって眺められた。かれらは、ただいよいよ怒り荒れ狂うばかりだった。

 こうして戦慄すべき鞭打ちがすでにかなり長く続けられたが、その時素朴な見知らぬ男が - この男の親戚の盲人をイエズスがかつていやしてやったことがあった - 憤慨して柱のそばに躍り出て叫んだ。「やめろ。罪のないお方を死ぬまで打つな。」するとよっぱらいの獄吏は驚いて打つことをやめた。かれは手にした鋭いナイフで柱の後ろの鉄輪にからんでいた縄をぶっつり切って主を柱から離すやいなやすばやく逃げた。そして雑踏の中に消えた。主は失神したように柱の下に倒れ、ご自分の流された血の中に横たわれた。刑吏は暫時主をそのままにして酒を飲みに行った。そして見張り小屋の中で茨の冠を作っていた若者を呼んだ。

 イエズスは傷から流れる血にまみえて柱の下に横たわり、痛さのためにひきつっておられた。その時わたしはずうずうしい遊女が何人か来るのを見た。かの女らは手に手を取ってイエズスの前に黙って立った。そして女らしい嫌悪をもって、主を見つめた。主の傷の痛みは、そのためにさらに増した。そしてその哀れなお顔をいたましくもかの女らの方に向けられた。かの女らは立ち去った。その時いやしい民衆や兵卒どもが笑いながらいかがわしい言葉を浴びせかけた。

 わたしは鞭打ちの間、悲しめる天使がイエズスにしばしば現れたのを見た。わたしは、また主が苦しい侮辱に満ちた苦難の嵐の中に、なおおん父に向かって、人々の罪のためにささげられる祈りを聞いた。しかし主が今、柱の下の血の中に倒れておられる時、主を元気づける一位の天使を見た。それは何か輝ける食物を主にささげているようであった。

 さて獄吏は再び主に近づいて主を足げにした。主は起き上がらねばならなかった。主に対するかれらの仕事はまだすんでいなかった。かれらは主に下着を着る時間さえ与えず、ただ袖を肩になげかけただけだった。主は途中この着物で尊きお顔の血を拭いたもうた。かれらは近道をすることができたにもかかわらず主を大祭司の席の方に引いていくためにわざと回り道をした。大祭司たちは怒鳴った。
 「あっちへ行け、あっちへ行け。」そして嫌悪のあまり、主から顔をそむけた。刑吏は救い主を見張り小屋の中庭に引いて行った。
 そこにはまだ兵卒は一人もおらずただ獄吏やいろいろな奴隷や浮浪人どもしかいなかった。

 民衆が非常に不穏になっていたので、ピラトはアントニア城からローマの監視兵を増強のために呼び寄せた。

 この軍隊は見張り小屋をきちんと包囲した。かれらはしゃべったり、笑ったり、またイエズスを嘲笑ったりすることは許されていた。しかし隊伍を乱すことは許されていなかった。ピラトはこうして民衆を押さえ、かれらに威圧を加えようとした。そこにはほぼ千人ほどの兵が集まっていた。




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