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三二  見よ人を



 さて、かれらはイエズスの頭に冠をかぶせ、縛った手に芦の王笏を持たせた。そして赤いマントを着せふたたびピラトの館に引いて行った。イエズスの目に血があまりあふれていたので主であるとは見わけもつかなかった。おん血はひげの中にまで流れ落ちていた。おん体はあたかも血にひたした布のように痣と傷とでおおいつくされていた。主はかがみよろめきながら歩まれた。主が階段の下まで来られた時、無慈悲な総督さえも同情と嫌悪にかられ、戦慄した。民衆や司祭たちはなおしきりに嘲弄し続けているので、ピラトは叫んだ。「もしユダヤ人の悪魔がこんなに残酷ならば、地獄でだれも決してかれといっしょに住むことができないであろう。」イエズスは今やふたたび階段を駆り立てられてのぼった。主がうしろがわに立つと、ピラトはふたたびテラスに出て来た。静粛を命ずるラッパが鳴った。ピラトは話をしようとしたのである。かれは大祭司と民衆に言った。「見よ、余はかれに罪があることを認めぬ。それはおまえたちもわかるであろう。かれをもう一度おまえたちに見せよう。」獄吏はテラスの上のピラトのかたわらに主を引き立てた。その広場に居合わせた民衆のすべては、イエズスを見ることができた。心臓が引き裂かれるような恐ろしい光景!めちゃくちゃに虐待された血と傷におおいつくされ、むざんな姿になられた神のおん子イエズスは、恐ろしいいばらの冠の下から血潮の流れ滴る眼を民衆の波の上に注がれた。瞬間、戦慄と重苦しい沈黙がみなぎった。主のかたわらにピラトが立った。かれは救い主を指さしユダヤ人に呼びかけた。 
「見よ、ここにいる人を。」

 大祭司、律法学士たちはこの光景にすっかりいまいましくなった。かれらは自分らの良心の恐るべき鏡をのぞき込んだのである。かれらは怒鳴り立てた。「そいつを取りのけろ。十字架につけろ。」しかしピラトは叫んだ。「おまえたちはまだ満足しないのか。こんな姿になったかれはもはや王になどなれっこない。」しかしかれらは激しく狂気のように叫び立てた。そして民衆はみなめちゃくちゃに狂乱した。「そいつを取りのけろ。十字架につけろ。」ピラトはふたたびラッパを吹かせて叫んだ。「それではおまえたちで勝手にかれを十字架にかけろ!余はなんらかれに罪を認めぬぞ。」すると大祭司たちが怒鳴った。「われわれには律法がある。それによってそいつは死なねばならないのだ。そいつは自分を神の子としたからだ。」ピラトは言った。「おまえたちにこの男が死なねばならぬという律法があるとするならば、余は決してユダヤ人などにはなりたくない。」しかし「かれは自分を神の子とした」という言葉がまたもや改めてかれを不安にさせた。かれの迷信にこった心の心配がまた頭をもたげた。それでかれはふたたびイエズスをただ一人裁判席に連れて来させ、尋ねた。「おまえはどこから来たのか。」しかし主は一言も答えられなかった。それで総督は言葉を変えた。「おまえは余に答えぬのか。余がおまえを十字架につけさせるか、あるいは放免する権利を持っていることをおまえは知らないのか」すると主は答えられた。「あなたはもし高い所から与えられたのでなければ、わたしに対してなんらの権利も持っていない。だからわたしをあなたに渡した者はなお重い罪を犯すのである。」

 この時、ピラトの妻、クラウディア・プロクレはかれが躊躇しているのを気にして、またもや使いをやってその証拠品を見せ、約束を思い出させた。しかしかれは自分の神々を引き合いに出してとりとめもない迷信じみた返事を与えた。

 次いでピラトはふたたび民衆に語ったが、前よりも一層決断できず、混乱するばかりであった。かれはふたたびイエズスになんらの罪を認めぬと言った。ファリサイ人はその間、イエズスの帰依者たちがピラトの妻を買収したといううわさを流した。 - もしイエズスが今放免されれば、かれはローマ人と結託するだろう。そうすると自分らはきっとみな殺されてしまう。 - こう民衆はそそのかされて、ますます激しくイエズスの死を要求するのだった。そこで総督は主からとにかく、一言返事を聞こうとして、またもや裁判席にいる主の所へ戻った。かれは一人でイエズスに対した。そしてほとんど、おずおずと主を見つめた。かれはすっかりとまどいして考えた。この男がほんとうに神であり得ようか。そしてかれは突然主に聞き迫った。 - 主が神であるか、王であるか、主の国の広さはどのくらいか。その神性はどんなくらいのものかと。そしてもし主が答えたならば自分は主を放免しようと。 - それに主がどういう風にお答えになったか、わたしはもはや言葉通りに覚えていない。しかし内容だけは記憶している。主は恐るべき真剣な言葉で仰せられた。主はかれに自分がどんな王であり、いかなる国を支配せねばならぬか。また - かれが主に真理とは何かと尋ねたので、 - 何が真理であるかをおぼろげに知らせたもうた。主はピラトにピラトの内心のおののきをすべて明らかに語った。主はまたかれに、かれが追放され恐ろしい最後をとげ、どんな運命がかれを持っているかを語った。また主自身が後日かれに正義の裁判を下すために、来たりたもうことも告げた。

 これらの言葉にピラトは恐怖を感じながらも一方憤慨した。そしてかれはテラスに行き、またもイエズスを放免すると叫んだ。すると、かれらは怒鳴った。「そいつを放免するなら、あなたは皇帝の友ではないぞ。自分をあえて王だという者は皇帝の敵だ。」他の者はまた叫んだ。 - ピラトが自分らの祭日のじゃまをしたことを皇帝に告訴すると。また自分らは十時までに神殿に行かねばならぬ、さもないと大罪を犯すことになるのだ、ぐずぐずするな。 - と。「十字架にかけろ。取りのけろ。」という叫びはまたもや八方から起こった。大勢の者は附近の建物の平屋根に登り、そこから下へ怒鳴っていた。

 ピラトはこれらの狂気のような民衆にいくら言ってもむだだと悟った。怒号と騒ぎは何かすごみをおびて来た。民衆はすっかり怒り狂った興奮状態に落ち入った。激しい暴動が起きはせぬかと危ぶまれた。そこでピラトは水を持って来させた。かれの手に召使いは水を鉢から注いだ。そして総督はテラスから叫んだ。「余はこの義人の血に責任はない。おまえたちがその責任をとれ。」するとふるいおののくような叫びが異口同音にわき上がった。「そいつの血はわれわれの子孫が負うぞ。」

 わたしはいたましいご苦難を黙想し、この恐ろしいユダヤ人の叫びを聞くたびに、真から自己を呪うことの結果が、驚くべきかつ恐るべき幻影となって身に迫るように感ずる。わたしは血のように赤い雲、火のような戒めのむちと剣に暗い空が満ちて、この民の上におおいかぶさるのを見る。呪いの閃光がかれらの随や骨をつらぬくようである。この民は暗黒に閉ざされる。恐ろしい叫びがかれらの口から濁った怒りの炎となって、飛び出して来てかれらの上でひとかたまりとなり、ふたたびその上に降り注いでゆく。それはある者には深く中にはいりこんだ。他の者にはその上にただよっていた。後者はイエズスの死後、改心した。これらの人の数は少なくなかった。わたしはまたイエズスとマリアがあらゆる苦しみの最中においてさえ、いつも下手人らの改心のために祈っておられるのを見た。お二人は一瞬間もかれらの無道な虐待を怒られるようなことはなかった。それのみか主の忍耐と愛は敵を激昂させ、ますます狂暴にさせた。かれらはあらゆる責め苦をもっても、主の口から不平がましい反抗の一言さえも聞くことはできなかった。かれらはますます怒りたった。もし主がそういう言葉をもらされたなら、かれらの凶悪に対する弁解となったろうに。

 わたしが民衆や裁判官の心情、イエズス、マリアのもっとも尊き心の中や、その他種々のできごとを観想する時、それはみな幻影を通じてわたしに示された。むろんそのすべてを当時の人は見たのではないがその内容はみな感じていた。さらにわたしはいろいろの形をした無数の悪魔がそれぞれ異なった悪徳を現しているのを見た。これらの悪魔は人間に恐ろしいほど働きかけていた。わたしは悪魔たちが走ったり、けしかけたり、人を混乱させたり、耳打ちしたり、口の中に飛び込んだりするのを見た。わたしはかれらが群衆の中からばらばらに飛び出してきていっしょになり、人々をイエズスに刃向かわせているのを見た。しかし主の超人的な忍耐をみて。戦慄しふたたび雑踏の中に消えた、しかしわたしはこの悪魔たちのすべての行動の中に何か絶望的なもの、混乱、自己破壊、意味なくただ狂いまわるということをうかがい知った。イエズスや聖なる人々の近くには多くの天使が活動していた。

 天使たちもいろいろな任務の違いによって、種々異なる形をし、また異なった衣服をつけていた。かれらも、あるいは慰めたり、あるいは祈り、あるいは食物や飲み物を捧げたり、あるいはほかの何かの慈悲の任務を行っていた。しかし再三言うがこれらを述べることは不可能である。何となれば、それはあまりにも数限りなく多くあった。また同時にわたしは自分自身および全世界の罪ゆえに大変苦しみ、悩み、また悲しんでいた。そしてイエズスの恐ろしい苦しみに心を引き裂かれていた。そのためわたしが述べるわずかのこともどうしてまとめてよいかわからない。




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