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七五 アンナ・カタリナ・エンメリックの示現による「エフェゾにおける聖マリア」
わが主イエズス・キリストの磔刑後一年ほどしてから、ステファノが石打の刑にされた。しかし当時はそれ以上使徒に対する迫害はなかった。ただだんだんふえてきた新改宗者のエルサレム周辺への移住が禁止された。キリスト信者は追放され、また二、三の者が殺された。
その後数年ならずして、キリスト信者に対する新しい迫害の嵐が起こった。その頃まで晩餐の高間の小さな家や、ベタニアにお住みになっていた聖母は、ヨハネに伴われて、当時すでにキリスト信者の移住していたエフェゾに移った。それはラザロとその姉妹が捕らわれ、海に流された事件のすぐ後のことであった。ヨハネは他の使徒たちがなお集まっているエルサレムに再び戻ってきた。
しかし大ヤコブは布教国の配分後エルサレムを発った最初の一人であった。かれはスペインに赴いた。私はベトレヘムの秣槽(まぐさおけ)の洞穴にかくれていたヤコブの出発を見た。かれはその供れといっしょにごっそりと国を抜け出して行った。人々がかれを見張り、その国を出ることを望んでいなかったからである。しかしヨッペでかれは友人を得て、舟に乗ることができた。
かれはまずエフェゾに赴き、そこで聖母をお訪ねした。そこからさらにスペインに向かった。かれはその死の少し前に再び聖母とヨハネをエフェゾのお住まいにお訪ねした。その時聖母はかれがエルサレムでほどなく殺されるであろうと告げた。聖母はかれを力づけ慰められた。ヤコブはマリアとその兄弟ヨハネに別れを告げエルサレムに向かった。
エルサレムでは、かれはしばしば捕らえられ、会堂に召喚された。わたしはかれがエルサレムで過越し祭の少し前に、ある丘の上で公然と教えられていた時捕らえられたのを見た。かれは牢に長く止らずに間もなく判決された。それはイエズスを裁いた同じ法廷で行われたが、そこの模様は今はすっかり変わり、イエズスのお立ちになった場所はもはやなかった。わたしはかれらがヤコブを街を出てカルワリオ山に曳いて行く様を見た。かれは道すがら教えを説き、多くの人々が改心した。かれが手を縛られる時、「君たちは私の手を縛ることはできる。しかし祝福とわたしの舌は縛ることはできまい。」と言った。
道端に一人の足の悪い者が座っていたが、かれがヤコブに、その手を差し伸べて助けて下さいと叫んだ。かれは「わたしの所にきて手を握りなさい!」と答えた。かれは立ち上がって使徒の縛られた手を握るや直ちに癒えた。 -
わたしはまたヨシアと言うかれの密告者が、かれの許に急ぎ、赦しを乞うのを見た。かれがキリスト信者であることを告白すると直ちに処刑された。
ヤコブがかれに洗礼を望むかと尋ねた。かれがそれを承諾するとヤコブはかれを抱いて接吻し、「君は君の血をもって洗せられるであろう」と言った。 - わたしはまた一人の婦人が病気の子供をつれて刑場に馳せつけ、使徒から癒されたのを見た。
まずヤコブは小高い所に立たされ、死刑の判決が言い渡された。それから右の上に据えられ、その両側に両手が縛り付けられた。目隠しをされてからその首が刎ねられた。それは主のご死去の十二年後に起こったことであった。
聖母がエフェゾで死去された時には、わたしはもはやかれを見受けなかった。かれの地位には、聖家族の親戚の者で、すでに最初の七十二人の弟子の一人であったものが就いていた。マリアはキリストの昇天後十三年と二ヶ月目に死去された。
マリアのお住まいはエフェゾの街にはなく、そこから三、四時間ほど離れた丘の上にあり、そこにはすでに他のキリスト信者が移住し、その中には聖母の親戚に当たる婦人もいた。
この丘と街の間には一つの流れがうねうねとうねっていた。エフェゾよりも海に近いこの丘の頂からは、街と島の多い海とがよく見渡された。この移住地からほど遠からぬ所に城があり、その城主は退位した王様らしかった。ヨハネはたびたびかれの許に滞在し、かれを改心させた。その後その場所は司教座となった。
そこに住んでいた信者の中に、わたしは二、三の男も見た。誰でもが聖母をお訪ねしたわけではなく、二、三の聖婦人だけが時折お訪ねし、仕事の手伝いをしていた。かの女たちはまたキリストの母の必要な物の心配をしてあげた。その場所は非常に淋しい所で、他には誰も住んでいなかった。また街道は一本も通っていなかった。エフェゾの人はこの住民のことは少しも気にかけていなかったので、かれらはまったく忘れられたままになっていた。その土地は肥えていたのでかれらは少しばかりの農園を開いた。獣はわたしはこの地方では野生の山羊の他は何も見なかった。
ヨハネは聖母をここへお連れする前に、聖母のために石造りの家を作らせたが、それはナザレトの家によく似ていた。それは木立の中にあり、炉で二つの部屋に仕切られていた。
わたしは、聖母がそのご生涯の最後の日には、手伝いの乙女が鉢に搾って差し上げた黄色いぶどうのような果物の汁のほかは何もおとりにならなかったのを見た。わたしはまた聖母がおん子の衣服を沢山持っているのを見たが、その中にはあの手編みの肩衣もあった。
他の移住者の住まいから十五分ほど離れていたこの淋しい小さな家には、聖母と一人の婢だけが住んでいた。その他には誰もいなかった。
ただ時折マリアはヨハネに訪ねられるか、あるいは通りすがりの使徒か弟子たちが訪ねてくる位のものであった。
ある時、わたしはヨハネがそのお住まいに入ってくる所を見た。かれはすでにふけて見えた。かれはすらりとして白い長いひだのある着物を着、帯をしていた。かれは家に入る時この帯をとき、他の文字の書いてある帯と取り替えた。聖母は小さな部屋にいたが、婢はその部屋からおつれして来た。聖母も白い着物を着ていた。聖母はすでに大変弱々しく見え、そのお顔は雪のように白く透き通っているようであった。そして憧れのあまり漂うているようであった。
おん子の昇天後の聖母の全生涯は、まことに日毎に募り行く、身も溶かすほどの憧れであった。聖母はヨハネとともに祈りの部屋に入った。そこには小さな棚の上に、二つの生花の器の間に腕ほどの長さの十字架が立っていた。二人は十字架の前に跪いて暫し祈った。そしてヨハネは立ち上がって金属の容器から白いきれいな羊毛作りの包み物を取り出し、その中から御聖体を取り上げて二、三の言葉とともに聖母に授けた。 -
聖母はそのお住まいの近くに、自分で十字架の道の留を作り、始めのうちはこの道を一人で歩まれた。聖母はあの悲惨なご受難のすべての地点を歩数で計られたが、それはたびたび現場で数えたものであった。それから黙想のために、重要な場所にはそれぞれ石の標を立てられた。
わたしは聖母が尖筆で石の上にその場所で起こった出来事とそこまでの歩数を書いてあるのを見た。またちょうど木立のあるところでは、その木に書き付けられた。それは全部で十二留であった。この道は叢林の中に入って行った。おん墓は岡の洞穴にあった。全部の留がはっきりと定まってから聖母はこの道をその婢とともに静かに黙想しつつ歩かれた。そして一つの留にくると跪き、玄義とその意味とを考えて祈られた。その後次第にその道は美しく整えられた。ヨハネは立派な祈念碑を建てさせた。私はまたかれらがおん墓の洞穴を掃除し、美しい祈りの場所にしたのを見た。石は滑らかな白い大理石であった。そしてまったく同じ形をし、ヘブライ語で銘が彫ってあった。オリーブ山の場所が一番初めであった。カルワリオ山の留は丘の上にあり、おん墓の留は丘を越えて洞穴に下って行った。この墓に、後になって聖母マリア自身が葬られた。わたしはこの墓は今なお土の下にありもう一度世に出るであろうと思う。
聖母はすでに年老いていらしたが、大いなる憧れのためにその容貌が著しく変わって見えた他には未だ高齢の兆しは少しも現れていなかった。聖母は書き現せぬほど真面目であった。わたしはその笑われたのを見たことがなかった。そのお顔は年を重ねるとともにますます白く透き通るようになって行った。痩せてはいらしたが少しも皺や衰えの兆しは見受けられず、あたかも霊のようであった。一度わたしは聖母が他の五人の婦人たちといっしょに十字架の道を歩まれるのを見た。聖母は他の人々の先に立たれ、言葉に尽くせぬほど感動されていた。わたしにはこれが聖母の最後の道行きであるかのようにさえ思われた。聖母とともに祈りをしたこの聖婦人たちの中には
、すでにおん子の一才の頃から聖母とお知り合いの者も二人おり、また女預言者ヨハンナの親戚の者もいた。私はこの婦人たちがその翌日交替で朝夕二人ずつで十字架の道を歩いているのを見た。
マリアはエフェゾの移住地に三年過ごされてから、エルサレムへの大きな憧れを持たれた。ヨハネとペトロがそこへお連れして行った。そこには大勢の使徒が集まっていた。わたしは特にまたトマを思い出す。
わたしは聖母がご到着のたそがれ時に、まだ街に入る前に、オリーブ山やカルワリオ山やお墓およびエルサレム近在のすべての聖所を訪ねたのを見た。聖母は非常に悲しまれ、また同情のあまり深く感動されていたので、ほとんど歩むことができなかった。ペトロとヨハネがその腕を支えていた。
そのご死去の一年前に、聖母はもう一度エルサレムへの旅に上られた。その時もまたわたしは聖母が幾度も聖所を訪ねられたのを見た。そして言葉には言い尽くせぬほど悲しまれ、何時も繰り返し、「わが子よ!わが子よ!」と嘆かれた。聖母が十字架の道でイエズスにお会いになったあの邸宅の門にこられた時、非常な苦痛に胸を打たれたため地上にうずくまってしまわれた。いっしょにいた人々は、聖母はここで死んでしまわれるに違いないと思った。そして人々は聖母を、まだ残っていた晩餐の建物にお連れし、その前の家にまた宿をとらせられた。聖母は何日も非常にお弱りになっていたので、人々はここでお墓の用意をすることを考えた。聖母はご自身でオリーブ山に一つの洞穴を選ばれ、それを使徒が一人のキリスト信者の石工にきれいな墓に整えさせた。
多くの人々は聖母は本当に死なれたと信じていた。そしてそのご死去の噂はまた他国にまで伝えられた。しかし聖マリアはなおエフェゾに帰るだけのお力を持っておられた。
聖母のためにオリーブ山に用意された墓は何時も大切に保存され、後にはその上に教会が建てられた。
ある示現の中で、わたしはダマスコの聖ヨハネだけが、聖母はエルサレムで亡くなり、葬られたと言う噂を書き留めていることを聞いた。