人の子が来る時、地上に信仰を見出すだろうか・・・・。(ルカ18:8)

聖ピオ10世教皇 (祝日8月21日 教皇在位:1903 −1914)

1909年、フランシスコ会総会の折の謁見の場で、教皇は脱魂状態になったように見えた。居合わせた人たちは身動きもせず、沈黙を守っていた。しばらくすると、教皇ピオ10世は目を開き、椅子から立ち上がって大きな声で言われた。

私が見たことは恐ろしい事だった! あれは私の事だろうか? それとも、私の後継者の一人の事なのだろうか? 間違いなく起こるのは、教皇がローマから退去し、バチカンを去る時には、自分の司祭達の遺骸をまたいで行くほかないと言う事だ。

教皇は、息を引き取るしばらく前、もう一度幻を見た。
わたしの後継者の一人がその兄弟たちの屍を乗り越えて逃げるのを見ました。彼は変装してどこかに身を隠し、ほんの短かな隠遁生活の果てに、悲惨な死を遂げるでしょう。世界が目の当たりにする現代のこの邪悪は、世の終末を迎える前に起らなければならない悲しみの始まりに過ぎないのです。

他のどの罪よりも多くの魂を地獄に落してしまうのは、肉欲の罪です。(福者ヤシンタ)

預言を読まれる前に

これから預言を読まれますと1つの疑問が出てくると思います。つまりカトリック以外の人は、どうなるか?と言う事です。上記の聖人、教皇ピオ10世による公教要理には、次のようにあります。「過失無く、つまり悪意無しに教会に属していない人も、洗礼を受けているか、あるいは少なくとも受洗の望みを持つ人で、まじめに真理を求め、出来るだけ神の御旨を果たす努力をしているのなら、教会の体から離れていても教会の霊魂に結ばれていると言えますから、救いの道を歩んでいることになります」 何の問題も弊害も無いにもかかわらず、つまり毎週ミサに行くのが面倒だからとか、罪を避けるのはいやだからなどの理由で、カトリック教会に行きたくないあるいは属したくない人の場合は、もちろん上記の教えは適用されません。では、逆に単にカトリック信者であれば良いのか?と言う事になりますが、同じ要理書には、「カトリック教会に属しながら、その教えを実行しない人は、死せる肢体ですから救われません。成人が救われる為には、洗礼と信仰だけでは十分でなく、信仰にあった行いが要求されます」と、あります。

さて僕自身の罪により、そして世界中で犯されている多くの罪により、イエズス様は、大変苦しんでおられます。 

最近カトリック教会において、聖なる典礼は、大きく乱れ、神中心の教会から人間中心の教会になりつつあります。御聖体における御子イエズスの現存の否定、聖母信心やその他の信心業の排斥、ドンちゃん騒ぎのようなミサなど教会の聖から俗への変化は、著しいものがあります。                            また第二バチカン公会議の精神の名のもとに、多くの犠牲や償いは、廃止され、聖なるミサにおいても多くの祈りが省かれ、教皇レオ13世による大天使聖ミカエルへの祈りも廃止されました。これは、とても残念なことです。ローマ奉献文(第一奉献文)を唱える司祭も今では、ほとんど居なくなり、他の短い奉献文しか唱えられていません。

跪く機会もほとんど無くなり、神への愛よりも、隣人愛や慈善事業などが強調されつつあります。もちろん隣人愛などは、この上なく大切なものですが、神への愛に勝るものはありません。イエズス様を蔑ろにする事ほど愚かな事はないのです。まず第一に神様を全てに超えて愛する事、そして自分を愛するように隣人を愛する事が大事です。 「イエズスは、答えられた。第一の掟はこれである。・・・全ての心、全ての霊、全ての知恵、全ての力をあげて主なる神を愛せよ」(マルコ12:29〜30) 

上記の福者ヤシンタの言葉をよく考えてみてください。今、教会では、神の正義、審判、地獄などはについては、ほとんど話されません。否、むしろ否定する者すら居るのが現状です。しかしこれらは、全て現実であることを忘れては、なりません。今現在の世界を、あるいは今の日本を聖パウロの言葉で言うのなら、「彼らの道徳観は薄れ、全ての情欲と汚れを行い、淫乱の生活にふけった」(エファゾ4:19)と言っても決して言い過ぎではないと思います。コンビニに行っても、本屋に行っても、ネット上でも、テレビや映画を見ても、常にわいせつなものがあふれ氾濫しています。性の低年齢化や乱用は、目にあまるものがあります。これは、神様にとって大きな悲しみであり、痛みでもあります。私たちは、これらの悪を信仰と祈りと神様への愛を持ってことごとく避けなければなりません。(カトリック教会では、猥褻な物を故意に見る事、婚前交渉、避妊、自慰などは、全て禁じられています)

「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23) 福者ヤシンタが言うように、最も地獄に堕ちる罪が肉欲の罪です。これから聖人方が残した預言について書きますが、それよりもはるかに恐ろしい事、預言とは比べる事が出来ないほど恐ろしい事は、地獄に堕ちること、すなわち永遠の死です。地獄に堕ちるのが恐ろしいと言うよりも、むしろそれは、神と永遠に離れる事を意味するから恐ろしいのです。それは、この上ない苦痛です。あなたが、もし最も愛している人と永遠に離れることになったら、ものすごく辛いし悲しいでしょう。神と永遠に離れると言うことは、それ以上の苦痛と悲しみをあなたにもたらすことになります。(と同時に、火でも焼かれる事になります。この苦痛に終わりは、ありません)

「御独り子を与えたもうほどこの世を愛された」(ヨハネ3:16)神様も同様で、私たちと永遠に離れることをお望みにはなりません。ですから、近年、聖母や聖人方を通じて、世に警告をお与えになっておられます。それは、教会の世俗化や世界の性的な堕落など人間が神様から頂いた自由意志を乱用して、神様を追い出すような自由気ままに、そして欲望のままに生きているからです。今のままでは、私達は死後、神様と永遠に離れてしまう事を意味します。でも神様は、放蕩息子の良き父親にように、一人一人に呼びかけ、警告も与え、ご自分の懐に帰ってくるのを心待ちにしておられます。福者ヤシンタは言いました。「もし人々が、永遠を理解する事が出来たら、彼らは、自分達の生き方を変える為になんでもするでしょうに!」

そうです。私達は、生き方を変えねばなりません。司祭や隣人の為、そして自分自身の為に祈らなければなりません。救いの為と回心の為の第一歩は、『ゆるしの秘跡』を受けることです。もし弱さゆえに同じ罪を繰り返すことがあっても、失望することなく何度でもこの慈悲の秘跡に近づいてください。主は、まことに放蕩息子の良き父親のようにあなたが帰ってくるのを待っているのです。罪ゆえの失望は、悪魔の誘惑です。失望は、悪魔が最も得意とする誘惑の一つです。「告白は、慈悲の秘跡です。だから私たちは、ゆるしの秘跡に信頼と喜びを持って近づかねばなりません。告白なしに救いは、考えられません」(福者ヤシンタ)

では、これから少しの間、聖母や聖人方の警告に耳を傾けてください。しかし、その前に注意すべきことがあります。ローマ教皇も警告されてるように、決して狂信的にならないでください。またこれらのことを悪用して、人々をだまし、財産を奪おうとする偽予言者達にも、注意してください。信者として罪を避け、勉強をしたり働いたりそれぞれの立場で、普通の生活をしていれば、何も恐れることも、特別なことをする必要もないのです。聖ピオ神父様は、言いました。「神様と教会の掟(神の十戒と教会の6つの掟)を守りさえすれば十分です。自分の魂を救うために十分です」 そして先ほど書いたように、まず第一に神様を。そしてその次に隣人を自分を愛するように愛せばいいのです。自分にして欲しい事を他人にしてあげる。自分にして欲しくない事を他人にもしないと言うこ事です。それから、これらの預言は、いつ起こるか分かりません。信者として普通の生活をしていれば何も恐れる事は、ないでしょう。繰り返しますが狂信的にはならないで下さい。

「兄弟たちよ、その時と時期については、書く必要が無かろう。あなたたちは、主の日が夜の盗人のように来るものである事を知っている。人々が平和である無事であると言う時に、滅びは突如として彼らの上に下る」(第1テサロニケ5:2〜3) この御言葉は、もちろん世の終わりと主の来臨を表している言葉です。これから書く聖人方の預言は、世の終わりについてではなく、その前に来る天罰や艱難についてだと思われます。でも慌てることも恐れることもありません。普通の生活をしていればいいのです。信仰を守り、そしてそれぞれの立場に応じて働いたり、勉強したりしていればいいのです。ただ「警戒せよ・・・・あなたたちも、思わぬ時に来る、人の子のために用意しているが良い」(マテオ24:42〜43)と言う事です。

真理から耳を背け、作り話に耳を傾ける時が来るであろう。(ティモテU4:4)

福者アンナ・マリア・タイギ (祝日6月8日 1769 −1837)

左の写真は、ローマのトラステヴェレの聖クリソゴメス教会に安置されている福者アンナ・マリア・タイギの腐敗を免れた遺体です。

(福者アンナ・マリア・タイギの小伝)アンナ・マリア・ジェズアルダは、1769年5月29日にイタリアのシエナに生まれました。アンナは、7歳の時に、初聖体を受け、頭が良く、美人で、しかもとても親切な人でした。学校で、裁縫、家事、読み書きを、そして教会では、カトリック要理を学びました。後にアンナは、聖霊の賜物に恵まれ、教理に精通し、神学者達を驚かせました。

20歳の時に、ドミニコ・タイギと言う28歳の男性と知り合い結婚しました。しかし、アンナは、外見が美しかったので、オシャレに時を費やし、身の覚えの無い噂さえ立てられました。それでも根は信心深いアンナ。こんな生活態度ではいけないと良心の呵責を感じ、神父に告解し、霊的指導を受けました。それから、アンナは、神父の薦めにしたがって、三位一体会の第3会員に入会しました。それは、アンナ21歳の時で、1児の母でもありましたが、自分は、世界の罪を償うために犠牲となるように召されていると常に感じ、どんな苦しみでも、喜んで受けたいと思っていました。

最初の子が生まれた時、聖母マリアが御出現になり、次のように言われたそうです。「主があなたをお召しになった生き方を通して、主イエズスの御旨を行うことに努め、自分の意思よりも、主の御心を優先させなさい。そこにあなたの特別な召命があるのです」 その後は、イエズスの導きによって、謙遜、従順、慈悲、苦行の精神を著しく進歩させました。同時に子宝にも恵まれ、引き続き14年間、妊娠、哺乳、養育をなし、7人の子供を立派に育てました。その他の子供も引き取って育てたので、夫の給料だけでは足りず、アンナは毎晩夜遅くまで働き、深夜に仕事から帰って来る夫に夕食を食べさせ祈りをさせたりしているといつも寝るのは、午前3時でした。それでも2時間の睡眠後、早朝5時からの御ミサには、毎朝与っていました。

毎日夕食が済むと子供たちに晩の祈りをさせ、カトリックの要理を教え、聖人伝や聖書などを読み聞かせ、子供達が寝てから夫が帰ってくるまでアンナは、わき目も振らず働きました。アンナは、家に小祭壇を設け、上には十字架、下には、聖母と聖フィロメナの御絵を飾り、真ん中にランプを置き、年中灯していました。そして毎日この祭壇の前に跪き、家族全員に祈りをさせ、この部屋の入り口に聖水容器を備え、毎晩寝ている家族に聖水を振りかけて祝福していました。(アヴィラの聖テレジアは、聖水を使うように薦めています)

アンナは、とても貧しい生活をしていましたが、身内だけでなく、身内外の人や病人もよく世話をし助けました。また死者のためにもよく祈り、日常の苦しみを捧げました。実際アンナは、人前で微笑みながらも、心中では絶え間ない苦しみにありました。ひっきりなしに続く頭痛、耳鳴り、のどの痛み、関節リューマチのひどい痛み。また重い喘息などの持病もありました。それに加えて、多くの悪口や罵り、中傷なども受け、それでもアンナは、「御旨が行われますように」と心の中で絶えず祈っていました。ところでアンナの夫は、とても短気で暴力的な人でしたが、アンナに感化され、次第に良き夫、良き父親になりました。

こんなアンナでしたが、預言する賜物を神様から頂いていました。当時の教皇ピオ7世やナポレオンの未来を預言したり、教皇ピオ7世がフリーメーソンから命を狙われている時は、ここに行ってはいけないとか、ここに居てはだめだとか前もって知らせたりもしていました。また教皇の死期を知らせたのもアンナでした。その後も、次の教皇レオ12世の身の上に起こる事を預言し身辺を守ったり、教皇の死期や次の教皇の選出名や選出日まで預言したり、ローマで起こる革命や教皇領が取り上げられること、その時代の戦争なども預言しました。

こうしてアンナは有名になり、王族も貴族も一般の人々もアンナに意見を聞きに来ました。アンナは誰にでも親切にし、共に祈りました。アンナは、自分に現れてくる不思議な太陽の様な光の中に、現在のことも未来のことも、遠国のことも、神学問題も明らかに分かりました。また地獄に堕とされた霊魂、煉獄に苦しむ霊魂のことも知っていました。煉獄にいる霊魂の関係者に、そのことを伝え祈るように薦めたりもしていましたが、宝くじの当り番号や預言を悪用する人には、決して何も教えませんでした。

このように、上流社会ともお付き合いのあったアンナでしたが、アンナの家庭は、相変わらず貧しく飢えに苦しむほどでした。やがて病気にかかったアンナでしたが、7ヶ月間の闘病後、1837年6月7日に安らかに息を引き取りました。69歳でした。1920年に列福。祝日は、6月8日です。(この福者が列聖される時に・・・。)

 暗黒の3日間(福者アンナ・マリア・タイギの預言)

神様は、2つの罰をお下しになるでしょう。1つは、戦争、革命。あるいは地上で起こる災害で、もう1つは、天から送られるでしょう。全地上には、三日三晩続く濃い暗闇が襲うでしょう。見えるものは何も無く、空気は悪疫で満ちるでしょう。おもにその悪疫は、カトリック教会の敵を奪うでしょう。

この暗闇の間、人工的な光は不可能となり、ただ祝別されたろうそくだけが光を灯し、明かりとなるでしょう。好奇心から窓を開けて外を見たり、家を出たりする者は、その場で死んでしまうでしょう。この3日間だけは、人々は、自分の家に留まり、ロザリオを祈り、天主に憐れみを請うべきです。

この恐ろしい時に、これらの悪人、主の公教会の敵と天主の敵とは、この天主の鞭によってあまりにも多く殺されるので、ローマを取り巻く彼らの死体は、ティベル河の最近の洪水がローマにもたらした死んだ魚と同じほど多くなるでしょう。公教会の敵、ひそかな者も公然としている者も同じく、かの万民共通の暗黒の間全地上で、−−−ただしすぐ回心させるほんのわずかな例を除いて−−−全て滅びるでしょう。

3日間の暗黒の後、聖ペテロと聖パウロは、天から来られて、全世界で説教をし、新しい教皇を任命するでしょう。彼らの体から大いなる光が輝き、その枢機卿、すなわち未来の教皇の上に止まるでしょう。そしてキリスト教は、全世界に広がり、この回心は驚くべきものです。生き残る人々は、よく身を処さねばならなくなるでしょう。公教会の胸元に戻ってくる異端者の無数の回心があるでしょう。全ての人々は、自分たちの人生を他の全てのカトリック信徒の人生と同様に啓発している指導に気づくでしょう。ロシア、イギリス、そして中国は、公教会に入ってくるでしょう。

ピオ神父の暗黒の3日間と呼ばれている預言があります。日本語にも訳されておりますが、これは、ピオ神父の預言では、ありません。(イタリアのサン・ジョヴァンニ・ロトンドの修道院の神父様方が、はっきりと否定されております。これらの事は、ピオ神父の公式雑誌にも掲載されています)

主の日は、盗人のように来るであろう。(ペテロU3:10)

聖ニロ (祝日11月12日 ?〜430)

(左の聖画、違う聖ニロだったら、ごめんね。以下は、聖ニロの預言からの抜粋)20世紀の半ば頃になれば、その時代の人々は、判断がつきにくくなって来るでしょう。反キリストの時が近づくにつれ、人々は、肉欲の霧に覆われ、益々恥ずべき事と掟に背くことを行うようになるでしょう。人々の姿も変わり着用する服によって、男女の区別さえ分からなくなるでしょう。それは、恥を知らない服装や髪形のためです。この種の人々は、反キリストの誘いに負けて残酷になり野獣のようになるでしょう。親に対しても年配の人に対しても尊敬を失い、その心に愛の火は消えてしまうでしょう。

キリストの牧者である司教や司祭たちも真面目さをなくし、善悪の区別さえも完全に分からなくなるでしょう。こんな時代が訪れれば、キリスト信者と教会の道徳観とならわしが変わり、人々は、つつしみを捨てふしだらな生活に慣れてくるでしょう。詐欺、貪欲が横行し、宝を蓄える人に災いがあるでしょう。淫乱、姦通、同性愛、密通と犯罪は、社会において規則ででもあるかのようになるでしょう。

その来るべき時代ともなれば、人々は、洗礼の時に受けた聖霊の恵みとそれに相当する悔い改めの心を失うでしょう。それは、上記に述べた大きな犯罪と放蕩生活の結果です。神の諸教会は、神を恐れる信仰深い牧者を剥ぎ取られ、その時代に生き残る信者は、災いです。その時の信者たちは、誰からも知恵の光を見るチャンスが無くなるので、大部分の人が完全に信仰を失うでしょう。その時彼らは、世間から離れて自分たちの霊的苦しみを照らしてくれるものを探す為に、聖なるところに避難をするでしょうが、どこに行っても、困難と圧迫にぶつかるでしょう。

・・・その時に、反キリストは、一人の不幸な人に堕落した知恵を与え、これによって、その人は世界の果てから果てまで話を交わす事のできる新発見をするでしょう。その時また人々は、鳥のように空高く舞い上り、また魚のように海の深みまで下りる事があるでしょう。不幸な人々が、これらの事を全て獲得したら、それが反キリストのだましの手段とも分からないので楽な生活をするでしょう。そのとき不敬な反キリストは、人々を正しい道からそらせて、3つのペルソナにまします唯一の神の存在に対する信仰まで失わせることに成功するでしょう。

その時になれば、いつくしみ深い神は、人類の堕落を見て、救われるわずかな人達の為に、その日々を縮められるでしょう。なぜなら敵である悪魔は、選ばれた人たちさえも、誘いに負けさせようとするからです。その時になれば、天罰の剣が急に現れ、誘い者とそれに仕える人々を殺すでしょう。

彼らの道徳観は薄れ、全ての情欲と汚れを行い、淫乱の生活にふけった。
しかしあなた達は、キリストからそんな事を習ったのではない。
(エフェ4:19〜20)

聖マリア・ファウスティナ (ヘレナ・コヴァルスカ) (祝日10月5日 1905 −1938)

ヘレナ・コヴァルスカは、ポーランドのグウォゴヴィエツと言う小さな村で、1905年8月25日に生まれました。10人兄弟の3番目の子でした。子供のときは、とても貧しくて、同級生にも、よく笑われたと言う苦しい経験もしました。しかし、幼い頃のヘレナは、よく祈り、信仰に関する本もよく読んでいました。家族も信心深く、後にヘレナは、こう言っています。「父の祈る姿を見てとても恥ずかしくなりました。なぜなら、こんなに長い間修道生活をしても、私は、父のようにあれほど熱意を持って、熱心に祈ることは、出来ないと思えるからです。ですから、そんな両親を与えてくださった神様に絶えず感謝いたします」

ヘレナは、14歳のときからお手伝いさんとして働き、自分の家族を支えていました。そんな彼女も絶えず自分の使命を探していました。すでに、7歳の時に、神様の声、つまり、より完全な生活への招きを聞いていたのです。でも具体的な決心に至らず普通の生活を続けていたのです。さて18歳の時のことです。ヘレナは、友達とダンスパーティーを楽しんでいました。するとその時、非常に力強い神の呼びかけを感じました。受難のイエズスが現れ、「いつまで、あなたのために苦しまなければならないのだ。いつまで私を惑わすつもりか」と言われ、音楽も聞こえなくなり、周りの人々の姿も見えなくなります。ただキリストの声だけが聞こえ、キリストの姿だけが見えます。そこでこれからやるべきことがイエズスから示されたのです。

やがてイエズスの導きにより、1925年8月1日、ヘレナは、憐れみの聖母修道会に入会しました。そして志願期を終えたヘレナは、1926年4月30日に修道服とマリア・ファウスティナと言う修道名をもらいました。観想的だったシスター・ファウスティナは、祈りすぎると同僚から文句が出たほどで、あるいはロザリオを手にしながら、草取りをしていたと言う姿が伝えられています。修道生活の始めの頃は、霊的な苦しみや初期の結核で、随分、体が弱ってしまいました。そんな彼女を時には、ちょっとしたおとぎ話のような奇跡で、イエズスは、助けておられました。

やがてがシスターの死後、世界中に広まることになる、神の慈しみに関するメッセージや祈りなどをイエズスから啓示されるようになります。まずこのメッセージでは、いつくしみの御絵崇敬し、神への深い信頼を持つ事。それから神のいつくしみを褒め称えるための外的信心。それから祈りや行いなどによるいつくしみの実行が望まれています。祈りには、ノヴェナや慈しみの賛美、信頼の祈りなどたくさんあります。またいつくしみの祝日の祝い方などそのほか重要なメッセージもあります。(それは後で少し紹介します) もちろんマリア・ファウスティナも他の聖人同様、たくさんの霊的、肉体的苦痛を味わい、また周りからの誤解や病気でも苦しみました。そして1938年病室に移ったマリア・ファウスティナは、絶えず神のいつくしみを願い、最後まで味わっていた苦痛と祈りを全て罪人のためにささげていました。そして同年10月5日の夜遅く、司祭に罪を告白した後、安らかに息を引き取りました。

聖マリア・ファウスティナが受けた預言

これを書き記しなさい。審判者として私が来る時、私はまず、いつくしみの王としてやって来る。正義の日が訪れる前、天にはその印が現れる。天と地において、全ての光が消え失せる。天空には十字の印が現れる。私の手と足の傷からは、しばらくの間、地(地球)を照らし出す光が放たれる。それは、終わりの日に先立つ、ほんのしばらくの間である。(右の絵は、神の慈しみの御絵。主の聖心から出ている2つの光線は、青白い方が霊魂を義とする水。赤い方が霊魂の生命である血を意味します)この2つの光線のもとに生きる人は幸い。神の正義の御手は、この人を捕らえることが出来なからである(229番)

預言では、ありませんがとても重要なメッセージです。「わたしのいつくしみについて世界に話しなさい。全人類は、わたしの限りないいつくしみを見きわめるように。それは、終末の時のための印である。その後、正義の日がやって来る。まだ時間がある内に、私のいつくしみの泉に近づき、彼らのために流れ出た血と水を利用するように彼らに言いなさい」 (848番)

「私の秘書よ、わたしは、正しい人のためよりも、罪人のために気前がよいと書きなさい。彼らのために地上に降り、・・・・・・彼らのために血を流した。彼らが、わたしに近づくのを恐れないように。彼らこそ誰よりも、私のいつくしみを必要としている」(1275番)

「人が、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1576番)

「私は、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。私のいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々を癒したい。人々が、私に罰を与えるように強いる時だけわたしはそうする。私の手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、私は、いつくしみの日を送っている」 (1588番)

十字架の死に至るまでのイエズスの従順は、「正義の剣を遠ざけて、いつくしみの期間を延ばしました」 その為に、現在は、いつくしみの時なのです。この世に生きている間に誰にでも回心のチャンスが与えられています。神は絶えず人間の回心を待っています。実はそれだけではなく、神はあらゆる罪の中に生きている人間を、ご自分のいつくしみをもって追いかけています。いつくしみ深い神は忍耐強い方なので、すぐに罰を与えることはありません。罰のためには永遠があります。正義の日がやってくる前に、神はまずいつくしみの日を送り、いつくしみの王を遣わします。しかし、もしいつくしみの王であるイエズスを受け入れないならば、その人は正しい審判者であるイエズスの前に立つことになります。

「正しい審判者として来る前に、まず私のいつくしみの戸口を広く開ける。この戸口を通って入りたくない人は、正義の戸口を通って入らなければならない」(1146番)

「誰一人も、私の手から逃げることが出来ないと罪人に言いなさい。彼らが、私のいつくしみ深い御心から逃げているならば、必ずわたしの正義の手に陥る。は、いつも彼らを待ち、彼らの心がわたしに向かって鼓動しているかを聴いていると罪人に言いなさい。書きなさい。わたしは、良心のかしゃく、失敗と苦しみ、または嵐と雷、教会の声を通して彼らに語っている。わたしのすべての恵みを無駄にしてしまうならば、わたしは、彼らに怒りを感じ始め、縁を切り、望みのままにする」(1728番)

「最も大きな罪を犯している人が、私のいつくしみに信頼するように。他の人よりも彼らこそ、私のいつくしみの淵に信頼する権利がある」 (1146番)

「私のいつくしみから恵みを汲むためには、ただ一つの器しかない。それは、信頼なのである。人は、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1578番)

「私は、自分自身をあなたの信頼に任せる。あなたの信頼が大きいほど、私は、限りなくいつくしみを与える」 (548番)  「私を信頼しないことが、何よりも私を大きく傷つける 」(1076番)

ゆるしの秘跡
シスター・ファウスティナの日記によると、主イエズスは、私達が、ゆるしの秘跡を受けることによって、神のいつくしみを礼拝すると強調しています。
シスター・ファウスティナに向かって、主イエズスはこう語ります。「私のいつくしみについて書き、話しなさい。慰めを探すべきところを人々に教えなさい。それは、いつくしみの裁判所である。そこでは最も偉大な奇跡が絶えず繰り返される。わたしの代理者のもとに近づき、自分の全てのみじめさを話すだけで、神のいつくしみの奇跡は完全に現れる。魂は、腐りつつある死体のようであっても、あるいは人間にとっては、復活が不可能となり、すべてが失われたようになっても、神にとっては、そうではない。神のいつくしみは完全にこの魂を復活させる」(1418番)

ゆるしの秘跡に近づく時、告解所には、わたし自身があなたを待っていると言うことを意識しなさい。私は、司祭の姿に隠れるが、魂において自分自身で働く。ここでは、みじめな魂は、いつくしみの神と出会う。このいつくしみの泉から、ただ信頼という器だけで恵みを汲むことが出来ると人々に言い伝えなさい。彼らの信頼が大きければ大きい程、私の気前よさには限界がない」(1620番)

御聖体拝領
イエズスは、シスター・ファウスティナにこんな言葉を語りました。「わたしは、人間の霊魂と一致することを望む。霊魂と一致することは、わたしの大きな喜びである。聖体において人間の心に入る時、私の手はあらゆる恵みで満たされている。この恵みを人々に与えたいが、人々は私を無視し、一人に残して、別の事に心を向ける。人々が愛を見きわめない為に、私はとても悲しんでいる」(1385番)

「聖体において、わたしと一致する人が少ないので、わたしはとても苦しい。わたしは人々を待っているのに、彼らはわたしに対して無関心である。わたしは心をこめて、これほど誠実に彼らを愛しているのに、彼らはわたしを疑う。彼らにたくさんの恵みを注ぎたいのに、彼らはそれを受け入れたくない。わたしには愛といつくしみに満ちあふれる心があるのに、彼らは、わたしを何か死んだものように扱う」(1447番)

「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」  (1146番)

(※信頼するようにと罪人に呼びかけるイエズスは、こう言われます。「痛悔する魂にとって、私は、いつくしみである」(1739番) 痛悔なしの信頼は、単なるハレンチであり、いつくしみではなく、放縦を期待することです。これは大きな誤りです)

我が娘よ、真実に私を愛する者は、なんと少ない事だろう。(アヴィラの聖テレサへのイエズスの言葉)

 

 

               

人の子が来る時、地上に信仰を見出すだろうか・・・・。(ルカ18:8)

必ず『預言&私的啓示のT』の方から先に読んでください。

福者エリザベト・カノリ・モラ (1774 −1825)

イタリア人。4人の子供の母親(最初の2人は、早くに亡くした)。洗足三位一体会の第三会員。聖痕。夫は、大変ひどい人で、貧しさと苦しみの中、エリザベトは、1人で2人の娘を育てねばなりませんでした。よく働き家族に献身したエリザベトは、模範的な母親です。1994年に教皇ヨハネ・パウロ2世により列福。なお、彼女の夫は、エリザベトの預言通り、彼女の死後回心し、司祭となり、またフランシスコ会の修道士にもなりました。(以下は、福者エリザベトが残した預言)

天が開き、使徒の頭、聖ペトロが大いなる光栄を帯び、歌を歌っている無類の天使達の護衛に包まれて、下に降りてくるのを見ているようだった。聖ペトロは、教皇法衣を召され、右手には、司牧杖を持ち、それでもって地上に、巨大な十字架を描いておられた。同時に、天使等は、詩篇作者の言葉を歌った。『あなたは全地上に彼らを、頭として立てるだろう』と。

こののち聖なる使徒、聖ペトロは、その杖で、十字架の4端を触れると、そこから花と実を付けた4本の美しい木が生えた。この神秘的な木は、十字架の形をしており、輝かしい光に包まれていた。その時、私は、霊魂の深みの中で、聖ペトロがこの4つの象徴的な木をイエズス・キリストの忠実な友の小さき群に、それらの木が避難場所として役立つように、そして全地を震え動かすことになる恐るべき天罰から彼らを守るために生じさせたのだと言う事が分かった。

全ての良きキリスト者は、自分の修道会の精神を心の中で忠実に守った全ての修道者と共に、これらの木の下に保護されるだろう。私は、在俗聖職者とカトリック信仰を心に守る全ての階級の他の人々についても同じ事を言う。彼らは守られる。

しかし会則を守らない修道者達は災い! 彼らは、3倍不幸だ! 彼らは全員、かの恐ろしき天罰に打たれるだろう。 私は、同じ事を快楽の生活に自分を渡し、また福音の聖なる教訓に反する現代的考えの偽りの格言に従う、全ての在俗聖職者と世の全ての階級の人々に言う。つまずきを引き起こす行為によって、イエズス・キリストの信仰を否定する、これらの哀れな人々は、天主の正義の憤然とした御腕の重さの下に滅びることになる。彼らのうち、一人としてこの天罰を避けえる者はいない。

私は、この神秘的な木の下に非難を求めた良きキリスト者達が、自らの良き牧者である聖ペトロの配慮と、不寝番に信頼した美しい子羊たちの形で、彼(聖ペトロ)に、いとも謙遜な、いとも尊敬に満ちた従順を証ししてるのを見た。使徒の頭である聖ペトロが、安全な場所にイエズズの群を集めるやいなや、彼は天使等の軍隊に伴われて天に再び昇られた。

彼らが見えなくなると、空は酷く厚い不気味な雲におおわれ、狼狽せずに雲を見ることは不可能だった。突然、恐ろしい暴風雨がそこに吹きあがり、その騒音は、怒り狂うライオンの雄叫びのようだった。とても嫌な嵐の音が全地上で聞かれた。不安と恐怖は、人々だけでなく、野獣さえも襲った。全ての人は、互いに対して立ち上がり、情け容赦なくお互い殺し合うだろう。この血なまぐさい争いの間、天主の復讐の御腕が悪人を打ち、天主の力強き権能において、天もの高慢と思い上がりとを罰せられる。

天主は、公教会を転覆させ、その土台まで破壊してしまいたいと望む。不敬、かつ異端の者どもを根絶させるために地獄の力を使われるだろう。この狂気的な不信において思い上がった者どもは、自分たちは天主をその座より引きずり降ろすことが出来ると信じるが、しかし主は、彼らの策略を蔑まれる。

そして主の力強い御手の効力を通して主は、地獄の霊に地獄から出る許しを与えて、この不敬な冒涜者を罰せられる。悪魔の無数の軍団が地上にはびこり、恐ろしい惨禍と災難を引き起こして、天主の正義のご命令を執行する事になる。悪魔どもは、財産と食料生産、都市と村を荒廃させる。地上のいかなるものさえも免れる事はない。
天主は、これらの不敬な者どもを死を持って打つことを悪魔に許される。何故なら、彼らは、地獄の力に身を委ね、カトリック教会に対抗して、彼らと契約を結んだからである。

天主の正義のより深い感情で、私の霊をもっとよく浸透させたいと望んだので、天主は、恐ろしい奈落を見せてくださった。私は、地球に暗く恐ろしい巣窟があるのを見た。そこから無数の悪魔達が出て来て、人間や野獣の形のもとで、地上を破壊しに来ては、全てあらゆる所で荒廃と流血とを残していた。

幸いなるかな、全ての良きカトリック信徒は! 彼らは、聖なる使徒聖ペトロと聖パウロとの力強き御保護を体験する。この使徒達は、彼らがその身体においても、財産においても、害を受けないように彼らを見守るだろう。悪しき霊は、天主が侮辱され、軽蔑され、冒涜された全ての場所を略奪する。彼らが、涜聖した大建築物は、引き倒され、破壊され、その荒廃以外何も残らない。

この恐ろしい天罰の後、私は天が開け、聖ペトロが再び地上に降りてこられるのを見た。聖ペトロは、教皇法衣をはおられ、大多数の天使等に囲まれていた。天使等は、聖ペトロの誉れを歌い、また彼を地上の主権者と宣言していた。私は、聖パウロも地上に降り立つのを見た。天主の命令によって聖パウロは、地上を横断し、自分が聖ペトロの前に運んだ悪魔どもを鎖で縛られた。聖ペトロは、悪魔に『お前達が出てきた地獄に戻れ』と命じられた。

その時、天主と人との和解の印である大いなる光が地上に現れた。天使等は、使徒達の頭の玉座の御前に、イエズス・キリストに忠実にとどまった小さな群を導いた。これらの善き、熱心なキリスト者たちは、天主を褒め、共通の破壊から自分たちを救い出し給うたことを、そしてまた、世の偽りの格言に汚染されるのを許し給わず、イエズス・キリストの公教会を保護し給うた事を使徒達に感謝しつつ、彼に最も深い敬意を表した。

聖ペトロは、そこで新しい教皇を選ばれた。公教会は再び組織され、修道会が再建された。普通のキリスト者の個人の家庭は、天主の光栄を求める熱意と熱心とにより、最も模範的な宗教的共同体のようになった。それがカトリック教会に保留されている完全な勝利である。公教会は、人々に賛美され、尊敬され、認められることになる。全ての人々は、カトリック信徒になり、教皇をイエズス・キリストの代理者と認める。

義人ではなく、罪人を招く為に、私は来た。(マルコ2:17)

シエナの聖カタリナ (祝日4月29日 1347 −1380)

天の御父との対話:肉の罪について。・・・豚のように、肉体的な快楽の泥沼の中を精神と心を上げて転げ回る人々の犯す罪がこれである。ああ、動物的な霊魂よ。お前の尊厳は、どこにあるのか? お前は、天使の妹として造られたのに野蛮な動物になっているではないか。この罪人たちの惨めさは、いかにも大きく、純潔そのものである「私」がこれに耐えられないばかりか、彼らの友となり、僕となった悪魔でさえ、これほどの淫行が犯されるのを見る事が出来ないほどである。これほど忌まわしい罪は無いし、これほど知性の光明を消すものも無い。

天の御父との対話:不義と誤断を認める第二の告発について・・・愛しい娘よ、この第二の告発は、もはや薬がなくなった最後の瞬間に行われる。人間は、死の瀬戸際に立たされる。そして、そこで良心の虫に再会する。彼は、すでに話したように、自愛心の為に盲目となり、その存在を感じていなかった。ところが死の瞬間、人間が私の手から逃れることが出来ないと認める時、この虫は、目を覚まし始め、彼が、その過失のためにこれほどの不幸に追い込まれるのを見て、自分を咎める時、良心を蝕み始める。

もしも、その時、この霊魂が、自分の罪を認める為に必要な光明を持ち、その結果である地獄の苦罰の為でなく、至高かつ永遠の「いつくしみ」である私に背いた事のために痛悔を抱くならば、まだ憐れみを見出すことが出来るであろう。しかし、この霊魂は、死の瞬間を光明を持たず、ただ良心の虫にさいなまれ、「血」において希望もなく、自分自身の苦しみしか考えず、私に背いたことを悔やむ代りに、自分の滅びを嘆きながら越える。こうして永遠の滅びに陥る。その時、私の正義と誤断だけでなく、その上、特にこの最後の瞬間に犯した特別の不義と誤断、すなわち自分の惨めさは、私の憐れみよりも大きいと判断したことに対して行われる。

これこそ、この世においてもあの世においても許されない罪である。この霊魂は、私の憐れみを拒否し軽蔑した。この罪は、私にとって、この霊魂が犯した他の全ての罪よりも重い。それゆえユダの絶望は、その裏切りよりも、私にとっては最も不快であったし、私の子(イエズス)にとっては、もっと重大だったのである。自分の罪は、私の憐れみよりも重いと思う誤断が告発されるのは、その為である。またその為にこの霊魂は、悪魔と一緒に罰せられ、一緒に永遠の苦しみに服するのである。・・・この霊魂は、私の憐れみを軽蔑した。それで私は、私の正義によってこれを断罪する。その残酷な召使である官能と一緒に。そしてまた情け容赦ない暴君である悪魔と一緒に。霊魂はこの悪魔の奴隷となり、その官能をその奉仕に捧げたのである。私は、これと一緒に罰し、苦しみに委ねる・・・。

あなた達の体は、その内にある神から受けた聖霊の聖所であって、
自分のものではないと知らないのか。
(コリントT6:19)

マリー・ジュリー・ジェニー (1850 −1941)

フランス人。91歳で亡くなるまで、霊的結婚、聖痕、御聖体のみで生きていたなどの恵みを受ける。

(マリー・ジュリー・ジェニーの預言) 3日間、世界は闇に覆われます。この闇の間、祝されたローソクだけがあたりを照らしでしょう。そして、1本のローソクだけが、3日間消えずに輝きます。しかし、不信心な人の家にはローソクは、灯らないでしょう。この3日間、悪魔は、恐ろしいそして忌まわしい姿で現れ、ものすごい冒涜の言葉を吐き、騒ぎまわることでしょう。

また稲妻や火の粉は、家の中まで入り込みますが、祝されたローソクの光だけは、消されることは、ありません。風、嵐、地震であってもこの祝されたローソクの光は、消されることは、ありません。血のような深紅の雲は、天を横切り、雷の轟は、地を振動させ、地震で土地は揺れ、波立つ大波は、地上にまで打ち上げます。

そして地は、果てしない墳墓と化し、悪人、善人の屍は、地の面を覆ってしまうでしょう。その上、大飢饉が起こり、ありとあらゆる草木は、ちょうど人間の4分の3が滅ぼされるように枯死するでしょう。この異変は、突然起こり、天罰は、全世界に及ぶことでしょう。

自ら耐え忍ぶことによって、自分の霊魂を救わねばならぬ。(ルカ21:19)

ポーの十字架上のイエズスのマリア修道女の預言
(フランス人。預言やバイロケーションなどの恵みを受ける) 

この3日間の暗闇から助かって、生きていた人は、あたかも自分だけが、この世に生き残れたかのように感じることでしょう。事実、地上は、屍で覆われるでしょう。暗黒の続く3日間。その時、無軌道放縦な生活をしている人は、滅ぼされてしまうでしょう。死者の数は、全体の4分の1だけが生き残ると言ってもいいほど、おびただしいものになるでしょう。

私と私の言葉を恥じる者を人の子もまた自分の栄光と
御父と聖天使の栄光を持って来るその時、恥じるだろう。(ルカ9:26)

聖ヨハネ・ドン・ボスコ (祝日1月31日 1815 −1888)

二本の柱
聖ドン・ボスコが見た、とても有名な二本の柱と言う預言的な夢があります。その預言的な夢では、ローマ教皇を示す教皇が乗った船とこれに従う他の船(教皇に忠実な司教たちの船)が、大変大きな嵐にあい、その上、敵の船に攻撃をされていました。この攻撃に武器として使われていたのは、主に色々な種類の書物と印刷物でした。つまりこの攻撃は、思想上の攻撃であることが示されていました。

夢では、教皇が討ち死にされ、次の教皇が選ばれ戦いが続きます。そのうち二本の柱が見え始めました。一本の柱の上には、無原罪の御宿りの聖母の御像があって、その下に「キリスト信者の助け」と書かれていました。もう一本の柱は、これよりも、ずっと大きくて高くそびえていて、柱の上には、大きな御聖体があり、その下に「信じる者の救い」と書かれていました。

この二本の柱を仰ぎ見た教皇は、自分が乗っている船をその二本の柱の間に導き入れ、両方の柱から出ている鎖で、自分の船を安定させました。これに他の司教方も倣いました。するとたちまち大混乱が起き、それまで教皇の船に戦いを挑んでいた敵の船同士が互いにぶつかり合い始めたのです。こうして、敵の船は、沈没し、その後には、おおなぎの静けさだけがありました。これは、教会の危機から救うものは、御聖体と聖母信心であると言う事を示しているのです。

あなた達も用意しているがよい。人の子がいつ来るかを知らないのだから。(ルカ12:40)

左の絵は、もちろん「最後の晩餐」のパロディです。真ん中には仏陀が座っています。第2バチカン公会議後、キリスト教の他宗派、あるいは他宗教との対話が盛んになっています。それはそれで良い事でしょうが、中にはこうしたことを誤解して、カトリックに色々なものを取り入れたり、いろんな異端的な神学や説を唱えて、人々を惑わせたり、異端に導いたりしています。

これらの行き過ぎた影響で、宗教混合主義や多元論などニューエイジ的な考えに毒され、洗礼の重要性を軽視したり、カトリックも単なる宗教の1つに過ぎないと考えたり、またはイエズスは神々の一人にすぎない、あるいは偉人の一人に過ぎないなどと言う愚かな考えに陥ってる人もいます。もっと酷くなれば、イエズスを信じなくても誰でも救われるとか、地獄なんて無い悪魔もいないとか、祈りも犠牲も神は必要としていないなどと主張する者が教会内にさえいます。こうして知らず知らずのうち、信仰は破壊され、イエズスへの愛もなくなり、絵の一番左にいるイエズスのようにな扱いになります。あなたは、イエズスを忘れたり、蔑ろにしたり、一人ぼっちにさせたりしていませんか?

しかしイエズスは、私達の唯一の救い主であり、唯一の主であり、唯一の神です。私達は「神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えなければ」(マタイ4:10)なりません。他宗派、他宗教を尊敬したり迎合したり、あるいはそれらをイエズスと同列に並べたり、カトリックの教義や典礼に取り入れたりする事は、決して許されません。これこそ隣人愛だとか、誠の宗教対話だとか、離れた兄弟との誠の一致だとか、第2バチカン公会議の精神だとか主張する人もいますが、これらは単なるイエズスへの裏切り行為であり、偽りのエキュメニカル、偽りの宗教対話、神への冒涜行為以外の何物でもありません。

「私にとどまれ。私があなた達のとどまっているように。・・・・私にとどまらぬ者は、枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい、人々に拾い集められ、火に投げられ焼かれてしまう」(ヨハネ15:4〜8) 「私の愛にとどまれ、私が父の掟を守り、その愛にとどまったように、私の掟にとどまるのなら、あなた達は、私の愛にとどまるだろう。私がこう話したのは、私の喜びがあなたたちにあり、あなた達に完全な喜びを受けさせる為である」(ヨハネ15:10〜11) 私達は、決してどんなことがあっても(たとえ命がかかっても)「聖なる支配者、王の王、君主の主」(テイモテ6:15)であるイエズス・キリストを捨てることも裏切ることもなく、永遠に賛美し、敬わなければなりません。イエズス以外、それを受けるにふさわしい者も居ないし、救いも無いのです。イエズスのみが、唯一の救いであり、主であり、神なのです。イエズス・キリストのみに栄光と賛美あれ! 三位一体の神に感謝。

犬 (偽教師) を警戒せよ。悪い働き人を警戒せよ。(フィリピ3:2)

秋田の聖母 (教会許可) バチカンの教理省長官ラッツィンガー枢機卿は、秋田の御出現に好意的です。http://www.ewtn.com/library/mary/akita.htm

愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰をくだそうとしておられます。そのとき御父は、大洪水よりおもい、今までにない罰をくだされるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くの人々が死ぬでしょう。良い人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむ程の苦難があるでしょう。

その時、私達に残る武器はロザリオと御子の残された印だけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭の為に祈ってください。悪魔の働きが教会の中にまで入り込み、カルジナル(枢機卿)は、カルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は、同僚から軽蔑され攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者が辞めるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われる事が私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の許しはなくなるでしょう。

・・・ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助ける事が出来るのは、私だけです。私によりすがる者は、助けれられるでしょう。(1973年10月13日 秋田の第3のメッセージより)

こう言う事が起き始めたら、身を立てて頭を上げよ、あなた達の救いは近づいたのだ。(ルカ21:28)

ファティマの聖母 (教会許可)

地獄の現実
現代では、地獄について話されないか、あるいは、誰も地獄に堕ちないとか地獄なんて無いなど、まるで地獄をおとぎ話か作り話のように言う人が居ますが、イエズス様も聖書もその存在を否定していません。最後まで罪を悔い改めず、神のゆるしと憐れみを拒否するのであれば、地獄に行き、永遠に神と離れる可能性もあります。地獄の存在すら疑っている現代人に対し、神様は、ファティマにおいて、小さな子供たちに、地獄をお見せになることをお許しになりました。

・・・私達は、火の海を見たのです。その火の中に見えたのは、悪魔達と炎に浮かんで見える人間の形をした、真っ赤に焼け、黒く、茶色の燃えさしにも似た何人かの魂でした。彼らが自分たちから噴出す炎と煙の雲にからまれて、重さも安定性も無く、大きな炎からばら撒かれる火の粉のように、悲しみと絶望の悲鳴とうめき声をあげながら、どこかしこと無く吹き飛ばされているのが見えました。私達は。怖くて震えを止めることが出来ませんでした。悪魔は、恐ろしいゾッとするような形をした、それまで見たことのない動物のような格好をしていました。しかし、真っ赤に焼けた石炭のように透明でもありました。

神とシエナの聖カタリナとの会話:「呪われた者達よ、永遠の火に入れ」と言う恐ろしい言葉を聞くと、霊魂は、肉体と一緒に立ち去り、希望と慰めを完全に失って、悪魔の仲間になるのである。彼らは、犯した悪業の種類と程度に応じて、各自それぞれの方法で、地のあらゆる悪臭に包まれるだろう。・・・淫乱な者は、その汚らわしく恥ずかしい邪欲と一緒に。不義な者は、その不義と一緒に。妬み深い者は、その妬みと一緒に。隣人に対して憎しみや恨みを抱いている者は、その憎しみと一緒に火で焼かれるだろう。彼らの全ての悪を生んだ淫らな自愛心は焼かれ、耐えがたい苦しみをもたらすであろう。これこそ傲慢と共に全ての悪の頭であり源であるからである。このようにして皆が、それぞれの方法で罰せられるだろう。自分たちの過失を認めて憐れみを哀願するために引き返そうとしない人々の惨めな終末は、以上述べた通りである。(再びファティマに戻ります)

福者ヤシンタの言葉と忠告

私は、教皇様が、大きな家にいらっしゃるのを見たの。テーブルの脇に跪いていらっしゃったわ。手を顔に当てて泣いていらっしゃったのよ。家の外には、たくさん人がいて、その中のある人たちは、教皇様に石を投げつけていたわ。教皇様を呪ったり、罵ったりしている人たちもいたわよ。お可愛そうな教皇様! 私達は、教皇様のためにたくさん祈らなければいけないわね。

私たちの主は、とても悲しんでいらっしゃるのよ。だってマリア様が、主は、すでに酷く傷つけられているのだから、もうこれ以上傷つけてはいけないって私たちに言われたのに誰も気にしないんだもの。人々は、同じ罪を犯し続けてるじゃない。

マリア様は、御子がこの世の上に振り上げた腕をもう止めることが出来ません。償いをしなければなりません。もし人々が生き方を変えるのなら、主は、この世を許してくださるかもしれません。しかし、もしそうしなければ、天罰が下るでしょう。・・・もし人々が、生き方を変えないのなら、今まで経験したことのも無いような天罰が世界に下されます。

マリア様は、教会の中でのおしゃべりを嫌われます。主の御聖体に現存される尊敬の欠如の為)

マリア様は、世界に戦争と争いがたくさんあるとおっしゃいました。戦争は、世の罪に対する天罰以外の何物でもありません。

他のどの罪よりも、多くの魂を地獄に落としてしまうのは、肉欲の罪です。

司祭たちは、教会のことに専念しなければなりません。司祭たちは、純潔を大事に、とても大事にしなければなりません。司祭たちや修道者たちが長上や教皇様たちに不従順である時、彼らは、酷く神様に背きます。

私たちの主がお喜びにならないファッションが流行するでしょう。神に仕える人たちが流行を追っては、なりません。教会は流行と無関係です。私たちの主は、いつでも同じですから。

私たちの主の教会を迫害する者達は、呪われます。教会を煩わさず、聖なる信仰に自由を与える政府は、神の祝福を受けます。

聖母の汚れなき御心への信心の重要性

神様は、聖母の汚れなき御心に信心を待つ事を我々にとても強く望んでおられます。1917年7月13日、聖母は、子供たちに地獄をお見せになった後、こうおっしゃいました。あなた達は、今かわいそうな罪人たちの魂が地獄に堕ちるのを見ました。こんな人達を助ける為に、(地獄に堕ちた人達の事ではなく、地獄に堕ちる可能性がある罪人達の為にと言う意味です。地獄に堕ちたら2度と救うことは出来ません) 神様は、この世界に私の汚れない心に対する信心を広めることをお望みです。もし人々が私の言うことを聞いてくれるのならたくさんの霊魂が救われて平和が訪れるでしょう。

いつも恩知らずの人々のトゲに囲まれていて突き刺されているあなたの御母の汚れなき御心を見なさい。誰もそのトゲを引き抜いて償いをしようとする人は居ない。(御子イエズスの言葉)

娘よ、見なさい。涜聖と忘恩で私を絶えず傷つけるトゲに囲まれた私の心を。少なくとも貴方だけは、私を慰めてくれますね? 次の事を人々に伝えなさい。私は、5ヶ月続けて初土曜日に、ゆるしの秘跡を受けた後、御聖体拝領をし、ロザリオを祈り、私に償いを捧げる意向で15の玄義を黙想する全ての人に、救いに必要な全ての恵みで臨終の時に助ける事を約束します。(聖母の言葉)

皆さんに伝えてください。神様は、マリア様の汚れ無き御心を通じて私たちにお恵みを下さる事を。人々は、マリア様に助けを願うべきである事を。イエズス様の聖心は、マリア様の御心も御自分と同様に尊敬されることを望んでいらっしゃる事を。人々は、マリア様の汚れなき御心から平和を祈り求めなければならない事を。だって神様は、マリア様に世界の平和をお任せになったんだから。(ルチアへの福者ヤシンタの言葉)

私は、その奉献(ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献する事。)が、マリアの汚れない御心の勝利であると私の全教会に認めさせたいのだ。そうれすれば、その後もマリアへの汚れない御心への信心が栄えるだろうし、それが私の聖心への信心と並ぶ信心になっていくであろう。(イエズスの言葉)

・・・1936年5月。ポルトガルの司教たちは、ファティマに集まって、もし自国が、迫り来る共産主義の危険から守られるのなら司教総会を開催する願を立てました。その危険から守られたので、1938年5月13日に司教たちは、聖母によってポルトガルが守られた事をはっきりと認める荘厳な感謝の式典を挙行し、その際、7年前と同様に、再びポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。この奉献を認められた主は、第2次世界大戦中ポルトガルを特別に保護する約束をされました。実際、ポルトガルは、第2次世界大戦に巻き込まれませんでした。日本は、1948年8月21日(典礼刷新前は、聖母の汚れなき御心の祝日で、日本の第一級の大祝日でした)に、土井大司教様により、日本司教団の名において、聖母の汚れな御心に捧げられました。

ロザリオを祈ることは、神様とマリア様の望み

義務ではなく、神様とマリア様への愛ゆえにロザリオを皆さんも祈りませんか? ロザリオをゆっくりと心をこめて祈ることによって、私たちの罪によって傷つけられたイエズス様とマリア様の御心の傷を癒し、お慰めする事が出来ます。マリア様もルルドやファティマをはじめ何度も私たちにロザリオを祈るようにお望みになっておられます。それは、ロザリオが、いろんな意味で救いにとって大切な信心だからです。

ファティマのマリア様は、毎日ロザリオを祈るようにとおっしゃいっています。これは、全能なる神様のお望みでもあります。ロザリオは、自分の罪の償いにもなりますし、また煉獄に苦しむ聖なる霊魂の救いのために捧げることも出来ます。聖ピオ神父も、何度も何度もロザリオを祈るように私たちに (いわば強制的に) 勧めていらっしゃいます。それだけロザリオの祈りは、大事な祈りだと言うことです。

ルチアの手紙からの抜粋:ロザリオは、貧しい人と裕福な人、賢い人と無知な人、皆のための祈りです。この信心を人々の魂から引き抜くことは、彼らの日々の霊的な糧を断つことです。ロザリオは、多くの人の心にまだ完全に消える事なくゆらめいている信仰のともしびを保つのを助けます。黙想せずに唱える人々にとってさえ、祈るためにロザリオの珠を手に取るという単純な行為そのものが、すでに、神・超自然を思い出させるのです。そして、各連の前に簡単な奥義を思い出すことも又、魂の中にともっているともしびを保たせる陽の光となります。

そのため悪魔はロザリオに対して、これほど激しい攻撃を仕掛けてくるのです。最も酷いのは、悪魔が、その職務のために、大きな責任を担っている人々を惑わし、だましている事です。彼らは『見えない者を導いている盲目』です。彼らは、自分達の立場を支持しようと、第二バチカン公会議を引き合いに出しますが、公会議が汚れなき神の御母を讃えるために年月をかけて、培かわれてきた全ての信心を守るように勧告していることに気づきません。ロザリオは、それらの中で最も大切なものの一つであり、従って公会議の布告と教皇様の勧めによると、ロザリオは、私達が守るべき信心なのです。祈り、働き、犠牲を捧げましょう。そして『最後に、私の汚れなき御心は、勝利するでしょう』と言うマリア様の御言葉が、実現することを信じましょう」
 
聖母の汚れなき御心への奉献文 12月8日に行う (もちろん他の日でも、あるいは個人的に唱えてもかまわないと思います)

             

先上:全てに越えて美しく類なく清いおとめ聖マリアを御母に選び、御聖体の秘跡にうちにましますイエズス・キリストの御前にひれ伏して、御母マリアのお望みに従って、ロザリオの祈りを唱えましょう。(ロザリオを一環唱える)

先上:御聖体の秘跡のうちにおいでになる私達の救い主イエズス・キリストの聖心をお慰めする為に、清いおとめ聖マリアのお望みに従い、マリアの汚れのない御心に我が身を捧げましょう。

先上:清いおとめ御母マリアの汚れのない御心に身を捧げる祈り。

先上:全てのものが造られるより先に、いつくしみの神の永遠のご計画によって選ばれたマリアよ。私たちのこの祈りをお聞きください。

一同:あなたは、神の永遠の御一人子、私たちの主イエズス・キリストの聖なる神殿となられる為に、人祖伝来の原罪の汚れを免れてまったく清く宿られました。おお! これほど清く作られたあなたこそ、全てに越えて美しく恵みに満ちたお方です。私達は、御聖体の秘蹟のうちにおいでになる御子イエズス・キリストの御前にひれ伏して、あなたにこれほどまでの特権を与えられた神に心から感謝いたします。

お望みに従って御子イエズスの聖心とあなたの汚れのない御心とをお慰めする為に、あなたのお手本に習い、清い生活を送る決心を致します。この為に、洗礼の約束を新たにし、それぞれの身分に応じたつとめを忠実に果たすことをお約束いたします。キリスト信者の御助け、御母聖マリアよ、今こそ、あなたのお勧め通りに尊いロザリオの祈りを毎日唱え、御子とあなたとが私たちの救いの為にどれほどお苦しみになられたかを心からしのびます。

どうぞ、私たちの心が限りない御憐れみに感じ、御子の御恵みとあなたの御助けとによって、これから清い日々を送ることが出来ますように。ああ、尊いロザリオの聖母よ、私たちのこの良い決心を強めて、実行するお恵みをお取次ぎください。全てに越えて美しく類なく清いおとめ聖マリアよ、あなたの御子が建てられたこのまことの教会に憐れみの御目を向けてください。いまや地獄の力は、反逆の雄叫びを上げ、高ぶった心を持って神とその教会と清いおとめ聖マリアのあなたに戦いを挑みつつ、教皇、司教、司祭をはじめ、神の民と善意ある人々全てに怒り狂って迫ってきます。

こうして数知れない人々の霊魂が、現代の流行となった無信仰と不道徳の危険にさらされて罪と暴力の奴隷となり、地獄の淵に突き落とされようとしています。おお!聖母よ、多くの民々が神の賜物のまことの自由と平和と人としての威厳と権利を奪われて、極度の苦しみに落ちてゆくのを顧てください。人祖の時から示された蛇の頭を踏み砕くあなたの御力で、武装した強い軍隊のように、どうぞ私達の為に戦って下さい。教会の御母聖マリアよ 神の聖なる民を悪魔が撒き散らす謬説とつまずきとのおびただしい罠から守って、再び地獄の力を踏み砕いて下さい。

今日、世界に迫ってきた恐ろしい災いを遠ざけて下さい。教皇を始め、司教たちの憂いをご覧下さい。また我が身と子供たちを取り巻く危険をはらんだ暗い運命に悩む世の親達の嘆きをもご覧下さい。戦いを交えている人々の心には、安らぎと平和の望みが与えられ、全ての不正を裁かれる神が、悩みに沈む全ての人々に、正義に基づくまことの平和をお与えくださるように、御憐れみをもってお取次ぎください。私達は、この為にお望みのままに心も知恵も体も五感も、そして私達の属する教会(または団体)と全教会、人類全てをあなたの汚れない御心にお捧げ致します。

また、世の罪を償う為と、御子イエズス・キリストとあなたに対するおびただしい侮辱をなだめられますように、あなたの御手を通じて、御子イエズス・キリストに我が身をお捧げ致します。苦しむ者には慰めを。世界には正義に基づくまことの平和を。罪人には痛悔と助かりの恵みを。そしてまだイエズス・キリストとあなたを知らない人々には、信仰を。迫害されている教会と民々には、まことの自由をお取次ぎ下さい。おお!マリアの汚れない聖心よ、私達があなたに守られ助けられ、あなたと共に、救い主イエズス・キリストに賛美と祝福、礼拝と感謝を永遠に歌うことが出来ますように。私達を天国の永遠の救いの祖国にお導き下さい。アーメン。

人類が神に立ち返らない限り、大災害が待っている(聖ピオ神父)

それは、地上に住む全ての人を襲うであろう。来るべきすべての事から逃れる力を持ち、人の子の前に安心して、現れることが出来るように、いつも警戒し、そして祈れ。(ルカ21:35〜36)

その時、ミカエルが立ち上がる。彼は、主の民の子らを守る偉大な君主である。国始まって以来、今まで無かったほどの苦難の時が、その時である。その時、主の民のうち、本に記されている者は救われる。また塵の中に眠る多くの人が目覚める。ある者は永遠の生命に。ある者は恥と永遠の辱めに。知恵者達は、大空の輝きのように煌きわたり、多くの正義を教えた者は、永遠に限りなく、星のような者なるであろう。(ダニエルの書12:1〜3)